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34話『蒼き湖に溶ける想い』
しおりを挟む食事を終えたあと外に出ると、夜の風はしんと静まり返っていた。
遠くで虫が微かに鳴き、屋敷の灯りがゆらりと石畳の上に淡い影をつくる。
レオニスは私の手を取ると、自然な流れで指を絡めた。
「寒くないか」
「大丈夫です」
歩き出すと、敷地の外れへと続く小径が、月明かりに照らされて浮かび上がった。
街道より細いこの道は、湖へ向かう唯一の近道だという。
静けさの中で、レオニスがゆっくり口を開く。
「……この土地は、帝国の中でも珍しい“湧水域”だ。
山脈の奥から湧いた清水が、いくつも地下を通ってここへ流れ込む」
「だからエルゼリア湖はあんなに……透き通っているんですね」
「ああ。光をよく拾う湖だ。陽が沈んでも、わずかに底が光る」
思い出したように胸が高鳴る。
あの“青”を、ちゃんと見たい。
しばらくすると、湖へ向かう小径がゆるく傾斜を始めた。
私はふと、不安を押し出すように問いかけた。
「……水害、まだ完全には治まっていないのでしょうか?」
レオニスの歩みがわずかに緩む。
「心配か?」
「はい。街の方でも、水が急に引いた場所があったり……家屋が倒れたところも……」
「被害は大きかった。だが、すでに復旧が始まっている」
レオニスは夜風を吸ってから、続けた。
「川辺の土手は補強を急いでいる。明日視察に出るが……思ったよりも持ちこたえていたそうだ」
彼の声が少しだけ低くなる。
「被害が少ないといいですね……」
やがて木々が途切れ、開けた場所へ出た。
——風の匂いが変わる。
静かな水の気配が、空気を震わせる。
「……見えてきたぞ」
レオニスの言葉に顔を上げる。
視界の先。
闇の中、湖がゆっくりと呼吸していた。
まるで夜空をすくったような蒼。
星明かりを散りばめたみたいに、さざ波のひとつひとつが淡く光っている。
「……綺麗……ですね」
胸の奥から自然と漏れた。
レオニスは私の横顔を見て、小さく息を呑んだ気がした。
「この湖をそんな風に見たことはなかったな」
「えっ」
心臓が跳ねる。
レオニスは視線を逸らさず、ゆっくりと私の指を握り直した。
「行こう。湖の縁まで」
夜の蒼に抱かれながら、私たちは歩みを進めた。
湖の縁へと近づくにつれ、足元の草が静かに揺れ、空気そのものがひんやりと柔らかく変わっていく。
耳が澄む。
風の音も、森のざわめきも、すべてが遠ざかって——代わりに、水面の“息づかい”だけが聞こえてくるようだった。
あと数歩。
そして私は、息を呑んだ。
「…………っ」
目の前に広がる湖は——さっき遠くから見た蒼とはまったく違った。
もっと深くて。
もっと透明で。
まるでこの世の“青”のすべてを、ひとつに閉じ込めたような色。
底が見えるほど澄み渡っていて、それでいて微かな光が水の奥底から浮かび上がってくる。
水面に揺れる光が、夜空の星と混じり合い——湖そのものが、ひとつの銀河のようにきらめいていた。
「……綺麗……こんなに綺麗なんて……」
言葉が震えてしまう。
湖面に映る光が、頬に涙のように揺らめいて。
胸がじん、と熱を帯びる。
レオニスが隣でそっと私を見る。
「……どうした?」
「……だって……こんな……」
言いかけて、言葉が続かない。
喉がきゅっとつまるほど、綺麗だった。
「……見慣れた景色のはずなのに、おまえがそこまで感動すると感化されるな」
その優しい微笑みに、心臓が、強く跳ねた。
夜風の音がすべて遠ざかり、湖の蒼も、星の光も、すべて背景になってしまうほど——
レオニスの瞳だけが、くっきりと浮かび上がって見えた。
「セレーネ」
名前を呼ばれた瞬間、胸がふるりと震える。
「そんなにおまえが喜ぶ顔が見れたなら……一緒にきてよかった」
「……レオニス……」
「食事も美味しそうに食べていたしな」
「……」
食い意地はっててすまいません。
レオニスは私の手を取り、湖のすぐ近くまで導く。
月明かりが湖面に落ち、波紋の上で砕け、青い光が足もとにまで満ちてくる。
それは本当に——世界が蒼の底へ沈んでいくみたいな光景だった。
気づけば私は、深い息を吐いていた。
「……綺麗……本当に、綺麗……」
私が息を呑むように呟くと、レオニスがそっと私の横顔を覗き込んだ。
月明かりが、湖の青を反射して揺れる。
その光が、私の頬も、唇も、淡く染めていたのだろう。
「セレーネ」
呼ばれた声が、少し低い。
振り向いた瞬間——レオニスの視線が、ある一点でぴたりと止まった。
「……またついている」
「え? な、何が……」
「夕食のソースだ。……ここに」
そう言って、レオニスは自分の親指で私の口元へ触れ——るかと思ったその瞬間。
彼は、傾けた顔をそのまま近づけてきた。
「っ……レ、レオニス!?」
逃げる暇などなかった。
次の瞬間。
——ぺろ、と。
温かくて柔らかい彼の舌が、私の唇の端をゆっくりなぞった。
「……っ……!」
湖の光が一瞬で遠のき、頭の奥がじん、と痺れる。
「……今度は指では足りないと思ってな」
至近距離で囁かれ、膝がふるりと震えた。
「な……ななな、何を……!!」
「ソースを舐めただけだ」
「だ、だったら指でいいのに……!」
「指で触れるより……口で味わった方が、早い」
そこまで言って、レオニスはわずかに目を細めた。
「……それに」
月明かりの下、その瞳は囁くように熱かった。
「おまえの味が混ざる方が……いいだろう?」
「っ……!!」
息が止まりそうになる。
何か言おうとした私の声は、震えてかすれてしまう。
レオニスはその震えを、まるで愛おしむように目を細めた。
「……そんな顔をするな」
ゆっくりと、けれど抗えない強さで、私の頬へ手が添えられる。
指先が触れるだけで、身体の奥がきゅっと締めつけられた。
「ここで……抱きたくなるだろう」
湖の静けさに沈むほど低い声で。
視界が一瞬で熱に染まる。
レオニスは私の反応に苦笑し、すっと私の額に唇を寄せた。
キス——ではない。
触れるか触れないかの、ほんの一拍の温度。
そして私を抱き寄せ、自分の胸元にそっと預けた。
腕が、温かい。
胸のうちの熱とは対照的に、湖風が静かに流れた。
「セレーネ」
呼ばれるたびに、胸に火がつく。
私はそっと彼の服を掴む。
湖の光が2人の影をやわらかく包み込む。
その瞬間——レオニスが息を呑む音がした。
「……おまえが笑うと、どうしてこんなに胸が痛むんだろうな」
その囁きに、胸の奥が熱で満たされていった。
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