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35話『セレーネのヘソクリ』
しおりを挟む「……それにしても、不思議ですね」
湖へ続く道を歩きながら、私は周囲を見渡した。
「これだけ大きな湖なのに……湖のまわりにの屋敷は、このエルバーン邸しかありませんよね?」
レオニスは頷き、夜風を受けた銀髪がゆるく揺れた。
「エルゼリアには領主はいないんですか?屋敷に領主様がいるようには見えなくて……」
レオニスは足を止め、水面を見下ろしながら小さく息を吐いた。
「……ここには“正式な領主”はいない」
「え? いないんですか?」
「ああ。エルゼリアは古くから“王家直轄の保全地”だ。この湖は昔から神域とされていた。
だから誰も、ここを私物化することが許されなかった」
「神域……」
「王家の管理下で、代々エルバーン家が“湖守(うみもり)”として治水と保全だけを任されてきた。領主よりも制限が多い立場だ」
「じゃあ、街の方は……?」
「街区には町政官がいる。行政はそいつが回す。だが、水害・湖の管理・軍の指揮権――その全てはエルバーン家が持つ」
「っ……じゃあ……」
レオニスは淡く笑う。
「民は“実質、俺が領主”だと思っているだろうな。だが、俺はあくまで“湖を守る当主”だ」
少し照れるように視線を逸らすその仕草に、胸が温かくなった。
「だから……」
レオニスは湖を見つめたまま、静かに続ける。
「この湖畔には他の貴族の屋敷はない。ここはエルバーン家が責任を持つ土地で、許可なく屋敷を建てることは誰にもできない」
「……だから……こんなに静かなんですね」
「それに他の貴族には、湖畔に邸宅を維持するのは難しい」
「難しい……?」
「ああ。湖が湧水域にあたるせいで、地下水脈も土壌も複雑だ。治水も、地盤管理も難しい……それに金と労力をかけねば保てない」
「……だから、誰も真似できなかったんですね」
「そういうことだ」
その声音には、誇りというより“責務”のようなものが滲んでいた。
「じゃあ……ご両親はどちらに?」
婚儀依頼、顔を合わせた記憶が残っていない。
「両親は海側の別荘にいる」
「海……?」
「温暖で、療養には向いている。父も母も、もうこの“山と湖の冷たさ”には耐えられん」
どこか遠くを見るような横顔。
その言葉は、湖面よりも深く胸に沈む。
湖の青い光がゆらりと揺れ、私たちの影を長く伸ばしていた。
「こんなに美しいのに、リゾート地として活用しないなんて勿体ないですよね……夏は過ごしやすいでしょう?」
思わずため息混じりに言うと、レオニスは肩をすくめた。
「海側の方が魚介が美味いからな」
「……美味しそう。じゃなかった! 先ほどの料理もとても美味しかったのに!」
自分で言いながら恥ずかしくなって口を押さえる。
レオニスはくつ、と喉の奥で笑う。
「おまえは本当に食べ物に目がないな」
「だ、だって……美味しいものは正義です!」
月明かりが彼の頬に淡く影を落とし、その横顔がふっと柔らかくなる。
「ここも鉄道が走りますよね? 路線計画にあったはずです」
「ああ。山脈越えの区画が完成すれば、中央と繋がる」
「じゃあ、すぐに来れるようになりますよね?」
「……そうだと思うが?」
湖の光が反射し、レオニスの瞳が淡く揺れる。
私は胸がわくわくするのを抑えられなかった。
「ここを第二のリゾート地として開拓するのはどうですか?」
レオニスの歩みが一瞬止まった。
「……ここを?」
「はい! 湖も綺麗で、水質も良くて、街道も整備されて。宿泊施設や温浴施設を作れば、すぐにでも人が集まります!」
わくわくする勢いのまま、私は自分の胸元を握った。
「開拓とは簡単に言っても今すぐ準備出来るほどの費用が……」
「そうですよね……」
(……あ。そういえば……)
記憶の底で、あの昼下がりの地獄のような食事会がよみがえる。
寝室別居を頼んで玉砕した日のことではない。
──そのあと。
湯浴みして落ち込んで、派手すぎるセレーネの衣裳部屋を見て辟易して。
仕立て屋を呼んだ、あの時だ。
仕立て屋が布見本を広げて、
「こちらはローレンス家より“花嫁支度金”で……」
と帳面を見せた瞬間。
(え………?……ゼロ……多くない???)
私は、あまりの数字に手が震えた。
軽く一生ぶんの額面どころか、二つの村が一年潤って暮らせるレベルの金額だった。
(セレーネって……こんな資産、ぽんと渡されてたの……?
いやいやいやいや、わたしの人生で一度も触れたことない桁なんですが!?)
仕立て屋がにこやかに説明してくれている間も、
(これって……私の名義のまま、使えるってこと?やば……わたし今……小国なら買えるレベルの金握ってない……??)
結局そのときは、顔を引き攣らせながら
「こ、こ、これで……全部……?」
と訊くしかなかった。
仕立て屋はにっこり笑って言った。
「ええ、奥さま。ローレンス侯爵より、
“セレーネの望むものをすべて与えよ”とのことですので」
(父上……!?莫大すぎる……成金のレベルが違う!!)
その記憶が今、湖畔で急に蘇った。
「先行投資は……私のヘソクリで賄いましょう!」
「……ヘソクリ?」
レオニスが眉を上げる。
「利益が出れば、返してくださいね! 私のヘソクリ!」
——これが当たれば。
全てを捨てて逃亡した後でも、私ひとりで生きていけるだけの蓄えができる。
胸の中にぽっと灯る、小さな希望。
「……返す?」
レオニスの声が、低く落ちた。
「はい! 私も……お小遣い稼ぎがしたいですっ」
軽く笑ってごまかそうとしたその瞬間。
レオニスの腕が、ぐっと私を抱き寄せた。
「なっ……!? ど、どうしたんですか急に……!」
胸板に押しつけられて息が詰まる。心臓が跳ね上がった。
レオニスは、私の耳元ですうっと息を落とす。
「……なんとなく、だ」
「なんですかそれ……! 意味がわからないですよ……!」
そう抗議しながらも、腕は緩まない。
抱きしめる力は、むしろ強くなった。
夜風に溶けるような声が落ちる。
「……おまえが、いなくなりそうな気がした」
息が止まった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
(……無駄に鋭い)
私は慌てて笑みを作る。
「い、一緒にエルバーン家を建て直すのに……そんなわけ、ないじゃないですか……」
あはは、とわざと明るく笑う。
その笑いが震えていたことに、レオニスは気づいただろうか。
湖の蒼が、足元で揺れていた。
レオニスの腕の温度を感じながら、私は思い出したように顔を上げた。
「……あっ、でも」
「?」
「その……海側にも行ってみたいです!」
未来のことを考えると胸がぎゅっとするけど、気持ちの切り替えがうまくできなくて、私は思わず声を弾ませた。
「海の方も絶対すごく綺麗ですし」
きらきらした目で言ってしまう。
レオニスは、ほんの一瞬だけ呆れたように瞬きをしたあと——
「……魚介が食べたいだけだろう」
ズバリ正解です。
「ち、違います! ……いや、違わないですけど!!」
反射的に言い返したけれど、途中で言葉がつまる。
レオニスが小さく肩を揺らして笑った。
「素直でいい」
「むぅ……」
「海側にも連れて行こう。……魚でもなんでも、いくらでも食わせてやる」
そう言って、また私の頭をぽんと優しく撫でた。
湖の青い光が、レオニスの横顔をやわらかく照らす。
「……おまえの喜ぶ顔がみたいからな」
「ど、どういう顔ですか!」
「……“美味しそうに食べる顔だ”」
「っ……!!」
胸の奥が一瞬で熱くなる。
レオニスは私の狼狽を見て、満足そうに目を細めた。
私は居心地がよくなってしまっている事に気が付かないようにして、その想いに蓋をした。
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