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6:第二王子は第一王子と会ってしまった
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ロザリンドがその場を去ったあと、一人取り残されたジェラルドは唖然として彼女が立ち去った方を見つめていた。
ロザリンドの言葉が耳に反響する。
『どこかへ行きたいのは、あなたの方なんじゃないですか?』
『諦めるのはお得意でしょう』
それはまったくその通りで、否定しようもない事実だった。物心ついてからずっと、ジェラルドにはこの世のあらゆる理が理解できた。それはなぜか、とか、どうやって、とか考える暇もないほど、彼にとっては当たり前のことだった。呼吸をするのと同じくらい、彼には当然の感覚だった。
だから、分かってしまう。自身の出自がなんであれ、自分一人がこの国を出て市井に混ざって暮らすことは、容易くはないが、可能であると。
けれど、と同時に考えてしまう。自分がいなくなったら、半分だけ血の繋がったあの兄はどうするのだろうと。
ジェラルドは思い返す。この国の第一王子、シルエス=ド=フォスグレイヴに初めて会った日のことを。
■■■
それは初夏のことだった。生まれてからずっと<黄昏の宮>に監禁されていたジェラルドは、その日初めて外へ出た。
彼の兄であるシルエスが十歳の誕生日を迎え、異父弟に会いたいと所望したのだと聞かされていた。だから、少し肌を焼く太陽を眩しく思いながら、賑やかな王都の様子に目を輝かせながら、ジェラルドは馬車に乗って王宮へ赴いた。
人になるべく会わない通路を選んで、ジェラルドは謁見の間にたどり着いた。そこには、既にシルエスが豪奢な椅子に座って待っていた。
シルエスは人形のように整った顔立ちで、王位を継承する高貴な身にふさわしい気品を身につけていた。きらめく金の髪も、輝石のような緑の瞳も、一点の曇りもないように見えた。
その時の感覚をなんと言い表したらいいのか、ジェラルドは今も上手い言葉を見つけられないでいる。
ただ、彼の座る椅子に飾り付けられた宝石の眩さや、丹精込められた飾り彫の繊細さばかりが記憶に残っていた。
「きみが僕の弟だね」
シルエスの、声変わり前のいとけない声が響いた。シルエスの前に棒立ちになっていたジェラルドは、はっと息を呑んで頭を下げた。
「ジェラルド=ド=フォスグレイヴと申します。シルエス様にお会いできて光栄です」
教えられた通りの口上を述べる。同じ兄弟でも、シルエスとジェラルドの間には明確な身分の差があった。
しかし、シルエスは困惑したように身を引くと、ぴょんと椅子から飛び降りて、ジェラルドの手を取った。
「僕たち兄弟じゃないか。そんな風によそよそしくするのはやめてよ」
「え……?」
「僕は本当に嬉しいんだよ。生きているうちにきみと会えたことがね」
聞きようによっては不穏なことを、穏和な口調で覆い隠して、シルエスはジェラルドに笑いかけた。
「僕が王宮を案内するよ。行こう!」
そうして、シルエスとジェラルドは手を繋いで王宮中を駆け回った。舞踏会が開かれる大広間、料理人が腕によりをかける厨房、一生かかっても読み切れないほどの所蔵量の書庫。ジェラルドから視線をそらす使用人たちを意に介さず、シルエスは一つ一つ説明していった。そのどれもが、<黄昏の宮>にはないもので、ジェラルドは目を丸くするばかりだった。
そして薔薇の咲き誇る迷路のような庭に入り込んだとき、シルエスがぱっと手を離した。真っ赤な薔薇を指差して、薄く笑う。
「僕は薔薇が好きなんだ。ときどき、この薔薇園の手伝いもしているんだよ」
「へえ、綺麗だな」
実際、ジェラルドは花を愛でる気持ちなど持ち合わせていなかったが、礼儀正しく頷いた。シルエスが好きなものを教えてくれたのが嬉しかった。
シルエスは見事に咲く薔薇の花に手を伸ばし、一輪手折った。それを口元に寄せ、ジェラルドを見つめる。
「そう。薔薇は秘密を守るから」
「は?」
困惑し、思わず一歩後ろに下がったところで、シルエスが妖艶な笑みを向けた。
「ねぇジェラルド、きみはこの王宮が欲しいとは思わないかい?」
「な──」
シルエスは、両腕を広げてジェラルドに向き合った。その背後には、抜けるような青空と、広大な王宮が広がっている。
その輝きに、知らず目をすがめた。直視すれば、瞳が灼かれてしまいそうだった。
「どう? 欲しくはないかい?」
欲しい。ジェラルドは素直にそう思った。当たり前だろう。存在を無視されず、人々から傅かれ、明日の生に怯えなくてよい生活も地位も何もかも、焦がれてやまないものだった。
そして何より、好きに外を出歩ける自由が。
口をつぐむジェラルドに、何かを感じ取ったのだろう、シルエスはそっと顔を寄せた。
「きみだって第二王子だ。それも本物の天才の。きみなら、僕を弑して、玉座に座る方法が分かるんじゃないかい?」
間近で見るシルエスの瞳には、鬼火のように揺らめく輝きが宿っていた。声の響きは蠱惑的で、ジェラルドの背筋に冷たいものが走る。
「ねぇ……?」
しかし、ジェラルドには分かっていた。あまりにも全てを理解しすぎるが故に、完全な正答を知ってしまっていた。
ジェラルドが王になることはあり得ない。
どれほどの謀略を尽くそうと、あらゆる暴虐を振るおうと、それだけはあり得ない。
なぜなら、彼は不義の子であるから。
その一点だけは、どうしても乗り越えられない壁だった。
ジェラルドは黙ってシルエスを押し返した。それが答えだった。
シルエスは一、二歩後ろに下がって、肩を落とす。
「あーあ。きみでも駄目なのか」
先ほどまでの妖しい気配は消え失せて、シルエスは元の完璧な王子様の笑顔を作った。ジェラルドは唇を尖らせる。振り回されたのが癪だった。
「天下の第一王子サマだってのに、一体何が不満なんだよ」
「玉座というのは、孤独なものだよ」
シルエスは晴れやかに笑う。
「僕は恵まれている。そのことは十分に理解しているつもりだよ。だけどね──時々どうしようもなく、逃げ出したくなる。僕と第一王子という肩書は切っても切り離せないものだ。誰も彼もが僕を殿下と呼ぶ。僕の名前を呼んでくれる人は、あまりに少ないから……」
最後の方は、微かに空気を震わせるだけの、風に紛れてしまいそうな響きだった。少しでも目を離したら消えてしまいそうで、ジェラルドは思わずシルエスの肩を掴んだ。
「俺が」
「うん?」
「俺が名前を呼んでやるよ」
「あはは、きみじゃ無理だよ」
あっさり切り捨てられて、ジェラルドは地団駄を踏んだ。
「なんでだよ!」
「だってきみと僕はもう、二度と会うことはない。今日会うのだってだいぶ無理を通したんだ。きみは公には死んだことになっているのだから──次に会うのは、きっとどちらかが死ぬときだ」
そのあまりに穏やかな声音に、肩を掴むジェラルドの手から力が抜けた。
結局のところ、ジェラルドは抹消された第二王子でしかなくて、一人で外を歩くこともままならない、非力な子どもなのだった。
そうして悟る。自分は一生、陰に生きることしかできないのだと。何かを成し遂げることはなく、与えることも与えられることもない人生なのだと。
目の前で微笑む、美しい絵画のような王子様の前に膝をつく。この王子様のこぼした柔らかな囁きを聞いてしまった時点で、ジェラルドの負けだった。
ロザリンドの言葉が耳に反響する。
『どこかへ行きたいのは、あなたの方なんじゃないですか?』
『諦めるのはお得意でしょう』
それはまったくその通りで、否定しようもない事実だった。物心ついてからずっと、ジェラルドにはこの世のあらゆる理が理解できた。それはなぜか、とか、どうやって、とか考える暇もないほど、彼にとっては当たり前のことだった。呼吸をするのと同じくらい、彼には当然の感覚だった。
だから、分かってしまう。自身の出自がなんであれ、自分一人がこの国を出て市井に混ざって暮らすことは、容易くはないが、可能であると。
けれど、と同時に考えてしまう。自分がいなくなったら、半分だけ血の繋がったあの兄はどうするのだろうと。
ジェラルドは思い返す。この国の第一王子、シルエス=ド=フォスグレイヴに初めて会った日のことを。
■■■
それは初夏のことだった。生まれてからずっと<黄昏の宮>に監禁されていたジェラルドは、その日初めて外へ出た。
彼の兄であるシルエスが十歳の誕生日を迎え、異父弟に会いたいと所望したのだと聞かされていた。だから、少し肌を焼く太陽を眩しく思いながら、賑やかな王都の様子に目を輝かせながら、ジェラルドは馬車に乗って王宮へ赴いた。
人になるべく会わない通路を選んで、ジェラルドは謁見の間にたどり着いた。そこには、既にシルエスが豪奢な椅子に座って待っていた。
シルエスは人形のように整った顔立ちで、王位を継承する高貴な身にふさわしい気品を身につけていた。きらめく金の髪も、輝石のような緑の瞳も、一点の曇りもないように見えた。
その時の感覚をなんと言い表したらいいのか、ジェラルドは今も上手い言葉を見つけられないでいる。
ただ、彼の座る椅子に飾り付けられた宝石の眩さや、丹精込められた飾り彫の繊細さばかりが記憶に残っていた。
「きみが僕の弟だね」
シルエスの、声変わり前のいとけない声が響いた。シルエスの前に棒立ちになっていたジェラルドは、はっと息を呑んで頭を下げた。
「ジェラルド=ド=フォスグレイヴと申します。シルエス様にお会いできて光栄です」
教えられた通りの口上を述べる。同じ兄弟でも、シルエスとジェラルドの間には明確な身分の差があった。
しかし、シルエスは困惑したように身を引くと、ぴょんと椅子から飛び降りて、ジェラルドの手を取った。
「僕たち兄弟じゃないか。そんな風によそよそしくするのはやめてよ」
「え……?」
「僕は本当に嬉しいんだよ。生きているうちにきみと会えたことがね」
聞きようによっては不穏なことを、穏和な口調で覆い隠して、シルエスはジェラルドに笑いかけた。
「僕が王宮を案内するよ。行こう!」
そうして、シルエスとジェラルドは手を繋いで王宮中を駆け回った。舞踏会が開かれる大広間、料理人が腕によりをかける厨房、一生かかっても読み切れないほどの所蔵量の書庫。ジェラルドから視線をそらす使用人たちを意に介さず、シルエスは一つ一つ説明していった。そのどれもが、<黄昏の宮>にはないもので、ジェラルドは目を丸くするばかりだった。
そして薔薇の咲き誇る迷路のような庭に入り込んだとき、シルエスがぱっと手を離した。真っ赤な薔薇を指差して、薄く笑う。
「僕は薔薇が好きなんだ。ときどき、この薔薇園の手伝いもしているんだよ」
「へえ、綺麗だな」
実際、ジェラルドは花を愛でる気持ちなど持ち合わせていなかったが、礼儀正しく頷いた。シルエスが好きなものを教えてくれたのが嬉しかった。
シルエスは見事に咲く薔薇の花に手を伸ばし、一輪手折った。それを口元に寄せ、ジェラルドを見つめる。
「そう。薔薇は秘密を守るから」
「は?」
困惑し、思わず一歩後ろに下がったところで、シルエスが妖艶な笑みを向けた。
「ねぇジェラルド、きみはこの王宮が欲しいとは思わないかい?」
「な──」
シルエスは、両腕を広げてジェラルドに向き合った。その背後には、抜けるような青空と、広大な王宮が広がっている。
その輝きに、知らず目をすがめた。直視すれば、瞳が灼かれてしまいそうだった。
「どう? 欲しくはないかい?」
欲しい。ジェラルドは素直にそう思った。当たり前だろう。存在を無視されず、人々から傅かれ、明日の生に怯えなくてよい生活も地位も何もかも、焦がれてやまないものだった。
そして何より、好きに外を出歩ける自由が。
口をつぐむジェラルドに、何かを感じ取ったのだろう、シルエスはそっと顔を寄せた。
「きみだって第二王子だ。それも本物の天才の。きみなら、僕を弑して、玉座に座る方法が分かるんじゃないかい?」
間近で見るシルエスの瞳には、鬼火のように揺らめく輝きが宿っていた。声の響きは蠱惑的で、ジェラルドの背筋に冷たいものが走る。
「ねぇ……?」
しかし、ジェラルドには分かっていた。あまりにも全てを理解しすぎるが故に、完全な正答を知ってしまっていた。
ジェラルドが王になることはあり得ない。
どれほどの謀略を尽くそうと、あらゆる暴虐を振るおうと、それだけはあり得ない。
なぜなら、彼は不義の子であるから。
その一点だけは、どうしても乗り越えられない壁だった。
ジェラルドは黙ってシルエスを押し返した。それが答えだった。
シルエスは一、二歩後ろに下がって、肩を落とす。
「あーあ。きみでも駄目なのか」
先ほどまでの妖しい気配は消え失せて、シルエスは元の完璧な王子様の笑顔を作った。ジェラルドは唇を尖らせる。振り回されたのが癪だった。
「天下の第一王子サマだってのに、一体何が不満なんだよ」
「玉座というのは、孤独なものだよ」
シルエスは晴れやかに笑う。
「僕は恵まれている。そのことは十分に理解しているつもりだよ。だけどね──時々どうしようもなく、逃げ出したくなる。僕と第一王子という肩書は切っても切り離せないものだ。誰も彼もが僕を殿下と呼ぶ。僕の名前を呼んでくれる人は、あまりに少ないから……」
最後の方は、微かに空気を震わせるだけの、風に紛れてしまいそうな響きだった。少しでも目を離したら消えてしまいそうで、ジェラルドは思わずシルエスの肩を掴んだ。
「俺が」
「うん?」
「俺が名前を呼んでやるよ」
「あはは、きみじゃ無理だよ」
あっさり切り捨てられて、ジェラルドは地団駄を踏んだ。
「なんでだよ!」
「だってきみと僕はもう、二度と会うことはない。今日会うのだってだいぶ無理を通したんだ。きみは公には死んだことになっているのだから──次に会うのは、きっとどちらかが死ぬときだ」
そのあまりに穏やかな声音に、肩を掴むジェラルドの手から力が抜けた。
結局のところ、ジェラルドは抹消された第二王子でしかなくて、一人で外を歩くこともままならない、非力な子どもなのだった。
そうして悟る。自分は一生、陰に生きることしかできないのだと。何かを成し遂げることはなく、与えることも与えられることもない人生なのだと。
目の前で微笑む、美しい絵画のような王子様の前に膝をつく。この王子様のこぼした柔らかな囁きを聞いてしまった時点で、ジェラルドの負けだった。
応援ありがとうございます!
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