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二章
叶わぬ想い 5
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ライアンが寝ている場面にはほとんど出くわした事はないが、無防備に眠りこけている姿は初めて見るように思う。
出会った時から快活で、しかし年齢には勝てないのか時々弱気になる事があった。
『あの子達は無事だろうか』
『腹を空かせていたら申し訳ない。……いや、気付くのが遅れた私の落ち度だったな』
時々ライアンの供をして、街の外れに出向く時はしきりにそんなことを言っている。
気付けなかったのは何もライアンただ一人だけのせいではなく、劣悪な環境を正さなかった王宮の人間にも非がある。
もっとも、ライアンは幼い子供達だけを残すように置いていった大人達に怒っているのかもしれない。
ミハルドの知る限り、ライアンはそういう男だった。
自分のことにはほとんど頓着しないところも、ライアンの悪い癖だ。
けれどほんの少しでも自分を見てくれる者が居る、と気付いてくれればと思う。
(俺にそんな勇気はないが)
ミハルドは心の中で嘆息した。
いや、成り行きで口を滑らせてしまったが、諦めるつもりは毛頭ないのだ。
一度芽生えてしまった恋心を跡形もなく消してしまえたら良かったが、そうするには時間が経ち過ぎた。
そろりとライアンに目を向けると、薄い唇から規則正しい呼吸が漏れている。
「っ」
(本当に貴方は……!)
ライアンはただ居眠りをしているだけだというのに妖しく見えて、落ち着いたと思っていた呼吸がまた大きくなっていく。
しかしこのまま退室する訳にもいかず、ミハルドは執務机までのまた一歩踏み出した。
あまり驚かせないよう、足音はもちろん息も潜めてそっと声を掛けようとすると、胸元のボタンがほつれているのが見える。
こちらが何か言わなければ少しも己の服装に頓着せず、多少乱れていてもあまり気にしないところがある。
(そういえばナハト様にも叱られていたな)
ミハルドは軽く目を眇めた。
ナハトはライアンの双子の弟であり、リネスト国の辺境の地を守ってくれている。
辺境伯という立場上、領地の報告も兼ねて頻繁に王宮へ出入りしている。
滞在中は王都にある仕立て屋をわざわざ呼び寄せ、自分に合った服や装飾品を片っ端から買い、なければ一から自分好みに作らせるほどだった。
双子というだけでもこんなにも性格が違うのか、と初対面の頃は思ったものだ。
けれど互いの息が合った時は、絶対に敵に回したくないのが本音でもある。
二人とも口が回るとはよく言ったもので、ナハトはもちろんライアンが一度怒ると周囲の空気が凍り付くのだ。
ほとんど感情を荒げることはないものの、側近だからか他の人間よりは怒りを顕にする場面に出くわしているように思う。
つい半年前にも辺境伯領からナハトが参上したが、ほとんど入れ違いになるようにしてライアンの名代として他国へ出向いていた。
そのため何があったのか詳細はほとんど知らず、しかし自分がいない間に大きな出来事があったのだと理解した。
前提としてレオンハルトが王宮内に居る時で且つ、ライアンが話したがらない時はほとんど彼から聞いているからだ。
発端としては辺境伯領と隣国との国境で起こった出来事で、こちら側と隣国の領民や貴族が合わさった諍いだった。
身分の垣根を超えて起きた暴動は、領主であるナハトだけでなくライアンが来た事で沈静化し、けれどすぐには事が収まらなかった。
なんでも隣国の王は十年前に代替わりした公爵で、何があったのか分からないが変わってしまったのだという。
そもそも隣国──ラニシェロ公国は夏頃から天候の影響もあってか作物があまり摂れず、貧しくなった。
この場合、国王が側近らと共に何か手立てを考えて公布するのだが、その音沙汰が一向に無い。
やがて民だけでなく貴族までも顧みない愚王と渾名され、反感を買うようになったらしい。
特に、街から遠い村に住む民や貴族は大変だ。
そこかしこで反乱が起こり、果てには飢餓で苦しむ者が出る始末になってしまった。
食糧すら満足に分けてくれない、そもそも最低限しか食べられない有り様で、今回の暴動を計画した貴族に泣きついたのだという。
その貴族はまだ蓄えがあったが、身分問わずに苦しいのは同じだ。
冬になると一層厳しくなり、そこで潤沢な食糧や資源のあるリネスト国へ、『食糧を分けてくれないか』と打診に来たようだ。
ただ、何も知らない辺境伯領の民はもちろん貴族までもが驚き、そして『ラニシェロが争いを仕掛けたのではないか』と疑った。
正式な橋渡しもなく、そもそも領主が不在のため帰国を促した。
けれどそれでは公国側の貴族は動かず、最終的に困惑して膠着状態になってしまったのだという。
場合によってはいつ剣が交わるかも分からない緊張感の中、ナハトの息子であるネロが何かあった時のために『影』を常駐させ、今回の事が分かったのだという。
『端から見ればネロ様の気にし過ぎですし、わざわざ陛下まで行かずとも良かったと思いました。あの分では、もっとお身体を酷使されるでしょうから』
ライアンはラニシェロ公国の貴族との約束通り、王に手紙を書いた。
なのに濁すような返答ばかりで、これには呆れて半ばネロに投げ出すような形になったのだが。
『ネロなら上手くやってくれるだろうさ。あのナハトの息子なのだからな』
自分に対してはもちろん、それが身内であり血を分けた子供であろうとナハトは厳しい。
しかしライアンがそう言うのは、甥であるネロの性格を多少なりと分かっているからこそ出る言葉なのだろう。
王の器に相応しい人間は、貴族だけに留まらず民をも思いやれる者だと思う。
それをライアンも十二分に理解していると思うが、なぜか返答の手紙を認めなかったから納得できず、つい『なぜ重ねて手紙を送らないのですか』と問うた。
するとライアンは、かすかに眉を顰めて言ったのだ。
『ナハトほどではないが、一度人と渡り合う事を経験した方がいいと思ってな。まぁ無理なら無理で俺が向こうに出向くだけだから、あまり気にするな』
ははは、とさもなんでもないふうを装っていたが、ラニシェロ公国まで向かうには危険だと進言した。
それでもライアンは『気にしない』と言ってばかりで、別な意味で呆れてしまったのはいつものことだが、心配している事が伝わっていないのが少し悲しい。
(ご自分のことをもっと分かってくれたらいいんだが)
ある程度暴動の顛末を話し終えると、レオンハルトは嘆息してこうも言っていた。
『──ですので、兄さんには可能な限り目を光らせて頂きたいのです。……今のままでも十分だとは思いますが』
他の人間から見ればあまり表情は変わらないようだが、レオンハルトは眉を曇らせていた。
ミハルドからすればまだ表情豊かな方なのだが、レオンハルトなりにライアンを気遣っているのが伝わってくる。
自分だけでなく弟までも──決して言葉にはしないが他の臣下達も──心配させている自覚がないのは、最早ライアンの悪い癖に他ならない。
「……ライアン様」
机に手を突き、そっと呼び掛ける。
無論、これだけで起きてくれるとは思えない。
その分じっと見つめていると、確かにこちらから避ける前と違ってやつれているのが見て取れた。
けれど伏せられた瞼や頬に影を落とす長い睫毛がいやに妖艶で、知らず喉が嚥下する。
このまま頬に口付けてしまえば、起きてしまうだろうか。
そんな子供の悪戯にも似た思いが、ゆっくりとミハルドの脳裏を侵食していく。
(また俺は……何を考えてる)
左右に首を振り、己の中の雑念を振り払う。
そんな事をして起こしてしまうのは可哀想で、しかし目を覚ましてくれないとこちらの仕事が片付かないのだ。
「こんなところで寝ては風邪を引かれますよ、陛下」
ミハルドは名残惜しい気持ちを抱えながら、ライアンの肩を揺すった。
「ん……」
するとかすかに鼻に掛かった声が聞こえると、ゆっくりと瞼が震える。
「──で」
「は、っ……?」
ごく小さな声が聞こえたかと思えば、ミハルドの視界が唐突に変わった。
深い藍色の色彩が視界いっぱいに広がり、それはライアンの羽織っている上着だと認識する。
そして、どうしてか自分がライアンの腕の中に収まっている事も遅れて理解した。
「な、ライ……っ!?」
「いい子だな……ミィ」
慌てて離れようとするも、これではせっかく気持ちよさそうに眠っているライアンを起こしてしまう。
もちろん起きてくれなければ困るのだが、どうしてか先程よりも身体と思考が矛盾している自覚があった。
普段よりもわずかに掠れた声音は、今の今まで眠っていたからだと分かっている。
壊れ物を扱うような優しい手つきで頭を撫でられ、しかし何が起こったのかすぐには理解できなかった。
(ミィ……? いや、ミシェル様だ。俺は呼ばれた事がないから)
自分は常に呼び捨てで、愛称でなど呼ばれた事はただの一度も無い。
もっとも、愛称らしい愛称があっても気を許した相手にしか呼ばせないと思うが。
「ぅ、ん……?」
甘えるように頬を寄せられ、しかし頭を撫でる手つきがかすかに止まった。
「ミハ、ルド……?」
長い睫毛から現れた海のように深い瞳は、眠気からかとろりと蕩けている。
ぽつりと紡がれた己の名は酷く掠れていたが、同時に鼓動が大きく高鳴った。
「あ、っ……」
はくはくと唇が震え、けれど間近にあるライアンその人の瞳から逃れられなかった。
深い色彩をした青いそれは、紛れもなく自分だけを映している。
けれど普段に比べて覇気がなく、むしろ可愛らしいと思うのはこちらの感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
(違う、ライアン様に対してこんな……!)
仮にも同じ男で、恩人でもある人間に対して『愛しい』という感情を抱くなど普通ではない。
それは何度となく心で否定しているもので、なのにはっきりと拒絶できない己を恥じた。
「──すまない、寝てしまっていた」
そうしているうちに、低い声が鼓膜を震わせる。
ライアンがぎしりと身動ぎをしたのを合図に、そこでミハルドは現実に引き戻された。
「っ、いえ。起こそうとしたのですが、あまりに気持ちよく眠っておられたので……」
しどろもどろになりながら、慌ててライアンから離れて机を挟んで向かい合わせに立つ。
「……こちら、確認を頂ければと」
言いながらミハルドは手に持っていた書類の束を差し出した。
きっちりと紐で纏めたそれは、ここ最近になって導入したものだ。
なにぶん確認するべき量が多く、紐で留めていないとすぐにばらけ、分からなくなってしまうのだ。
ここ数ヶ月のライアンの執務室の惨状は類を見ないほど乱れており、出来るだけ負担のないようにというせめてもの気遣いだった。
「ああ、すまないな」
何に対しての謝罪なのか気付かないふりをし、ミハルドはぺこりと頭を下げる。
「では私はこれで失礼致します。……しかしお休みになられるのであれば、お部屋に戻った方がよろしいかと」
そのままでは風邪を引かれてしまいます、と口早に続ける。
ここ数日は涼しいが、夜になればぐんと冷え込む。
人のことを言える立場ではないが、国王の代わりはライアン以外にいないのだ。
そんな思いで言ったのだが、ふっと笑った気配がした。
「ディアンにも言われたよ。心配させてばかりだな、俺は」
くすくすと小さく笑うライアンその人は、普段となんら変わらない。
むしろ普段以上に美しく見えて、そう思ってしまう自分を嫌悪した。
「そんな、ことは」
確かに度々周囲へ心配を掛けているのは紛れもない事実だが、ミハルドは心の中で肯定した。
(それもこれも、貴方のことばかり考えているから)
つい数日前の事を気にし過ぎている自覚こそあれ、ここまで意識されていないと思うと羞恥で消えてしまいたくなる。
今思えば口付けたのは反動に過ぎないものだが、今であっても少しくらい照れたり何かしらの反応を返してくれてもいいのではないか。
「……だが確かに冷えるな。後でブランケットを持ってきてくれるか?」
ふとライアンが腕を撫で擦り、小さく呟いた。
執務室には暖炉があるが、まだ薪の用意をしていないため付いていない。
「は、すぐに」
その言葉にミハルドは会釈し、素早く踵を返す。
「ありがとう。ゆっくりでいいから、転ばないようにな」
やや笑いを含んだ声で放たれたそれは、まるで幼子に対する時と同じだ。
思い返せば主従関係を抜きにした時、自分と話す時『だけ』常に一線を引かれているように思う。
ともすれば出会った頃と同じ──幼い頃の自分と話しているのでは、と空目する時があった。
(貴方の中で俺はずっと、あの時から変わらないのか)
それがライアンの答えだと認めたくなくて、自分は眼中に無いのだと思いたくなくて、無意識に過ぎてしまった事を考えてしまう。
一向に進まない自分の成長に加え、芽生えている想いはとうに大きくなっていて最早抱えきれそうにない。
それは先日も爆発したばかりで、抑えないと思っても無理だった。
ミハルドは扉の前で一度立ち止まると、小さく息を吸い込んだ。
「──今、言うべきではないかもしれませんが」
既にからからに乾いている口内に気付かないふりをして、ようよう唇を開く。
「──先日の結婚の件、私のようなもので良ければ喜んでお受けさせて頂きます、とお伝えください」
出会った時から快活で、しかし年齢には勝てないのか時々弱気になる事があった。
『あの子達は無事だろうか』
『腹を空かせていたら申し訳ない。……いや、気付くのが遅れた私の落ち度だったな』
時々ライアンの供をして、街の外れに出向く時はしきりにそんなことを言っている。
気付けなかったのは何もライアンただ一人だけのせいではなく、劣悪な環境を正さなかった王宮の人間にも非がある。
もっとも、ライアンは幼い子供達だけを残すように置いていった大人達に怒っているのかもしれない。
ミハルドの知る限り、ライアンはそういう男だった。
自分のことにはほとんど頓着しないところも、ライアンの悪い癖だ。
けれどほんの少しでも自分を見てくれる者が居る、と気付いてくれればと思う。
(俺にそんな勇気はないが)
ミハルドは心の中で嘆息した。
いや、成り行きで口を滑らせてしまったが、諦めるつもりは毛頭ないのだ。
一度芽生えてしまった恋心を跡形もなく消してしまえたら良かったが、そうするには時間が経ち過ぎた。
そろりとライアンに目を向けると、薄い唇から規則正しい呼吸が漏れている。
「っ」
(本当に貴方は……!)
ライアンはただ居眠りをしているだけだというのに妖しく見えて、落ち着いたと思っていた呼吸がまた大きくなっていく。
しかしこのまま退室する訳にもいかず、ミハルドは執務机までのまた一歩踏み出した。
あまり驚かせないよう、足音はもちろん息も潜めてそっと声を掛けようとすると、胸元のボタンがほつれているのが見える。
こちらが何か言わなければ少しも己の服装に頓着せず、多少乱れていてもあまり気にしないところがある。
(そういえばナハト様にも叱られていたな)
ミハルドは軽く目を眇めた。
ナハトはライアンの双子の弟であり、リネスト国の辺境の地を守ってくれている。
辺境伯という立場上、領地の報告も兼ねて頻繁に王宮へ出入りしている。
滞在中は王都にある仕立て屋をわざわざ呼び寄せ、自分に合った服や装飾品を片っ端から買い、なければ一から自分好みに作らせるほどだった。
双子というだけでもこんなにも性格が違うのか、と初対面の頃は思ったものだ。
けれど互いの息が合った時は、絶対に敵に回したくないのが本音でもある。
二人とも口が回るとはよく言ったもので、ナハトはもちろんライアンが一度怒ると周囲の空気が凍り付くのだ。
ほとんど感情を荒げることはないものの、側近だからか他の人間よりは怒りを顕にする場面に出くわしているように思う。
つい半年前にも辺境伯領からナハトが参上したが、ほとんど入れ違いになるようにしてライアンの名代として他国へ出向いていた。
そのため何があったのか詳細はほとんど知らず、しかし自分がいない間に大きな出来事があったのだと理解した。
前提としてレオンハルトが王宮内に居る時で且つ、ライアンが話したがらない時はほとんど彼から聞いているからだ。
発端としては辺境伯領と隣国との国境で起こった出来事で、こちら側と隣国の領民や貴族が合わさった諍いだった。
身分の垣根を超えて起きた暴動は、領主であるナハトだけでなくライアンが来た事で沈静化し、けれどすぐには事が収まらなかった。
なんでも隣国の王は十年前に代替わりした公爵で、何があったのか分からないが変わってしまったのだという。
そもそも隣国──ラニシェロ公国は夏頃から天候の影響もあってか作物があまり摂れず、貧しくなった。
この場合、国王が側近らと共に何か手立てを考えて公布するのだが、その音沙汰が一向に無い。
やがて民だけでなく貴族までも顧みない愚王と渾名され、反感を買うようになったらしい。
特に、街から遠い村に住む民や貴族は大変だ。
そこかしこで反乱が起こり、果てには飢餓で苦しむ者が出る始末になってしまった。
食糧すら満足に分けてくれない、そもそも最低限しか食べられない有り様で、今回の暴動を計画した貴族に泣きついたのだという。
その貴族はまだ蓄えがあったが、身分問わずに苦しいのは同じだ。
冬になると一層厳しくなり、そこで潤沢な食糧や資源のあるリネスト国へ、『食糧を分けてくれないか』と打診に来たようだ。
ただ、何も知らない辺境伯領の民はもちろん貴族までもが驚き、そして『ラニシェロが争いを仕掛けたのではないか』と疑った。
正式な橋渡しもなく、そもそも領主が不在のため帰国を促した。
けれどそれでは公国側の貴族は動かず、最終的に困惑して膠着状態になってしまったのだという。
場合によってはいつ剣が交わるかも分からない緊張感の中、ナハトの息子であるネロが何かあった時のために『影』を常駐させ、今回の事が分かったのだという。
『端から見ればネロ様の気にし過ぎですし、わざわざ陛下まで行かずとも良かったと思いました。あの分では、もっとお身体を酷使されるでしょうから』
ライアンはラニシェロ公国の貴族との約束通り、王に手紙を書いた。
なのに濁すような返答ばかりで、これには呆れて半ばネロに投げ出すような形になったのだが。
『ネロなら上手くやってくれるだろうさ。あのナハトの息子なのだからな』
自分に対してはもちろん、それが身内であり血を分けた子供であろうとナハトは厳しい。
しかしライアンがそう言うのは、甥であるネロの性格を多少なりと分かっているからこそ出る言葉なのだろう。
王の器に相応しい人間は、貴族だけに留まらず民をも思いやれる者だと思う。
それをライアンも十二分に理解していると思うが、なぜか返答の手紙を認めなかったから納得できず、つい『なぜ重ねて手紙を送らないのですか』と問うた。
するとライアンは、かすかに眉を顰めて言ったのだ。
『ナハトほどではないが、一度人と渡り合う事を経験した方がいいと思ってな。まぁ無理なら無理で俺が向こうに出向くだけだから、あまり気にするな』
ははは、とさもなんでもないふうを装っていたが、ラニシェロ公国まで向かうには危険だと進言した。
それでもライアンは『気にしない』と言ってばかりで、別な意味で呆れてしまったのはいつものことだが、心配している事が伝わっていないのが少し悲しい。
(ご自分のことをもっと分かってくれたらいいんだが)
ある程度暴動の顛末を話し終えると、レオンハルトは嘆息してこうも言っていた。
『──ですので、兄さんには可能な限り目を光らせて頂きたいのです。……今のままでも十分だとは思いますが』
他の人間から見ればあまり表情は変わらないようだが、レオンハルトは眉を曇らせていた。
ミハルドからすればまだ表情豊かな方なのだが、レオンハルトなりにライアンを気遣っているのが伝わってくる。
自分だけでなく弟までも──決して言葉にはしないが他の臣下達も──心配させている自覚がないのは、最早ライアンの悪い癖に他ならない。
「……ライアン様」
机に手を突き、そっと呼び掛ける。
無論、これだけで起きてくれるとは思えない。
その分じっと見つめていると、確かにこちらから避ける前と違ってやつれているのが見て取れた。
けれど伏せられた瞼や頬に影を落とす長い睫毛がいやに妖艶で、知らず喉が嚥下する。
このまま頬に口付けてしまえば、起きてしまうだろうか。
そんな子供の悪戯にも似た思いが、ゆっくりとミハルドの脳裏を侵食していく。
(また俺は……何を考えてる)
左右に首を振り、己の中の雑念を振り払う。
そんな事をして起こしてしまうのは可哀想で、しかし目を覚ましてくれないとこちらの仕事が片付かないのだ。
「こんなところで寝ては風邪を引かれますよ、陛下」
ミハルドは名残惜しい気持ちを抱えながら、ライアンの肩を揺すった。
「ん……」
するとかすかに鼻に掛かった声が聞こえると、ゆっくりと瞼が震える。
「──で」
「は、っ……?」
ごく小さな声が聞こえたかと思えば、ミハルドの視界が唐突に変わった。
深い藍色の色彩が視界いっぱいに広がり、それはライアンの羽織っている上着だと認識する。
そして、どうしてか自分がライアンの腕の中に収まっている事も遅れて理解した。
「な、ライ……っ!?」
「いい子だな……ミィ」
慌てて離れようとするも、これではせっかく気持ちよさそうに眠っているライアンを起こしてしまう。
もちろん起きてくれなければ困るのだが、どうしてか先程よりも身体と思考が矛盾している自覚があった。
普段よりもわずかに掠れた声音は、今の今まで眠っていたからだと分かっている。
壊れ物を扱うような優しい手つきで頭を撫でられ、しかし何が起こったのかすぐには理解できなかった。
(ミィ……? いや、ミシェル様だ。俺は呼ばれた事がないから)
自分は常に呼び捨てで、愛称でなど呼ばれた事はただの一度も無い。
もっとも、愛称らしい愛称があっても気を許した相手にしか呼ばせないと思うが。
「ぅ、ん……?」
甘えるように頬を寄せられ、しかし頭を撫でる手つきがかすかに止まった。
「ミハ、ルド……?」
長い睫毛から現れた海のように深い瞳は、眠気からかとろりと蕩けている。
ぽつりと紡がれた己の名は酷く掠れていたが、同時に鼓動が大きく高鳴った。
「あ、っ……」
はくはくと唇が震え、けれど間近にあるライアンその人の瞳から逃れられなかった。
深い色彩をした青いそれは、紛れもなく自分だけを映している。
けれど普段に比べて覇気がなく、むしろ可愛らしいと思うのはこちらの感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
(違う、ライアン様に対してこんな……!)
仮にも同じ男で、恩人でもある人間に対して『愛しい』という感情を抱くなど普通ではない。
それは何度となく心で否定しているもので、なのにはっきりと拒絶できない己を恥じた。
「──すまない、寝てしまっていた」
そうしているうちに、低い声が鼓膜を震わせる。
ライアンがぎしりと身動ぎをしたのを合図に、そこでミハルドは現実に引き戻された。
「っ、いえ。起こそうとしたのですが、あまりに気持ちよく眠っておられたので……」
しどろもどろになりながら、慌ててライアンから離れて机を挟んで向かい合わせに立つ。
「……こちら、確認を頂ければと」
言いながらミハルドは手に持っていた書類の束を差し出した。
きっちりと紐で纏めたそれは、ここ最近になって導入したものだ。
なにぶん確認するべき量が多く、紐で留めていないとすぐにばらけ、分からなくなってしまうのだ。
ここ数ヶ月のライアンの執務室の惨状は類を見ないほど乱れており、出来るだけ負担のないようにというせめてもの気遣いだった。
「ああ、すまないな」
何に対しての謝罪なのか気付かないふりをし、ミハルドはぺこりと頭を下げる。
「では私はこれで失礼致します。……しかしお休みになられるのであれば、お部屋に戻った方がよろしいかと」
そのままでは風邪を引かれてしまいます、と口早に続ける。
ここ数日は涼しいが、夜になればぐんと冷え込む。
人のことを言える立場ではないが、国王の代わりはライアン以外にいないのだ。
そんな思いで言ったのだが、ふっと笑った気配がした。
「ディアンにも言われたよ。心配させてばかりだな、俺は」
くすくすと小さく笑うライアンその人は、普段となんら変わらない。
むしろ普段以上に美しく見えて、そう思ってしまう自分を嫌悪した。
「そんな、ことは」
確かに度々周囲へ心配を掛けているのは紛れもない事実だが、ミハルドは心の中で肯定した。
(それもこれも、貴方のことばかり考えているから)
つい数日前の事を気にし過ぎている自覚こそあれ、ここまで意識されていないと思うと羞恥で消えてしまいたくなる。
今思えば口付けたのは反動に過ぎないものだが、今であっても少しくらい照れたり何かしらの反応を返してくれてもいいのではないか。
「……だが確かに冷えるな。後でブランケットを持ってきてくれるか?」
ふとライアンが腕を撫で擦り、小さく呟いた。
執務室には暖炉があるが、まだ薪の用意をしていないため付いていない。
「は、すぐに」
その言葉にミハルドは会釈し、素早く踵を返す。
「ありがとう。ゆっくりでいいから、転ばないようにな」
やや笑いを含んだ声で放たれたそれは、まるで幼子に対する時と同じだ。
思い返せば主従関係を抜きにした時、自分と話す時『だけ』常に一線を引かれているように思う。
ともすれば出会った頃と同じ──幼い頃の自分と話しているのでは、と空目する時があった。
(貴方の中で俺はずっと、あの時から変わらないのか)
それがライアンの答えだと認めたくなくて、自分は眼中に無いのだと思いたくなくて、無意識に過ぎてしまった事を考えてしまう。
一向に進まない自分の成長に加え、芽生えている想いはとうに大きくなっていて最早抱えきれそうにない。
それは先日も爆発したばかりで、抑えないと思っても無理だった。
ミハルドは扉の前で一度立ち止まると、小さく息を吸い込んだ。
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