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三章
諦めたかった 4
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◆◆◆
「ミハルド、パーティーの件だが」
「申し訳ございません、後で伺います」
なるべく顔を見ないよう、ミハルドは極力視線を机に固定したまま口早に言った。
それもこれも目の前にライアンが居ると理解しているからで、自分達以外に人が居れば多少は態度を変える。
ただ、まだ隣国へ出向いているエルやレオンハルトはもちろん、気心の知れたディアンまでもおらず広い執務室には二人しかいない。
(なんで今なんだ……! この書類が終わってからでもいいだろう)
そう言ってしまいたいのをなんとか堪え、しかしライアン以外にもミハルドを悩ませるものがあった。
「そういう訳にはいかない」
とん、と俯けている視界にライアンの指先が映る。
「……本当にどうしたんだ、いつもならすぐに答えてくれるだろう。ここ最近は特におかしいぞ」
はぁ、とライアンが短く嘆息する。
声音から心配しているのが伝わってくるが、面と向かって言えるのならば既にそうしていた。
「普通です。……もし疲れていらしたら、少しお休みになられてはどうですか」
後はやっておきますので、と普段よりもわずかに低い声で続ける。
手早く昼食を食べてから執務室へ来たが、そこから十分も経たないうちにライアンが入ってきた。
今日は公式的な行事はなく、本来であればライアンは一日自由なのだ。
季節の変わり目の今頃、休める時に休んでおかなければ体調を崩してしまうのは目に見えている。
主の体調を気遣うのも側近の務めだが、今日ばかりは何かしていないとライアンのことばかり考えてしまう。
午前は王宮直属の衛兵であり国王の取り次ぎとして、午後は国王の側近として日々を過ごしているが、数日後にパーティーを控えているとミハルドの休みは無いに等しい。
ただ、ライアンの公務がある時はほとんど追従しており、それ以外の時間に急ぎで確認する書類や公務が無い時はミハルドも休むことになっている。
そういう取り決めを側近になる時、他でもないライアンと約束したのだ。
ミハルドの負担にならない程度に側近を務めてもらいたい、だから自分の隣りに居てほしい、と。
本来ならば、側近という肩書きは自分のような者が持つものではない。
そもそも側近になって随分経った頃に聞いた話だが、ライアンは『ミハルドを守るためだ』と言って、周囲にほとんど相談なく決めたという。
身元も分からず有力な後ろ盾もない自分が、王の側に侍るなど本来ならばあり得ない話だ。
しかし幸いとでもいうのか、ライアンの教育係だった男──エリック・シュヴァルツは、血の繋がりのないミハルドを快く迎え入れてくれた。
娘は居たが息子がいなかったエリックにとって、ミハルドを本当の息子同然に可愛がってくれた。
『あの小さかった殿下が立派になられて……』
自分を側近にしてくれた、とエリックに言うと涙ながらにライアンの昔話をしてくれたのは、今でも鮮明に思い出せる。
ライアンからすればたまったものではないだろうが、それほど嬉しかったというのが伺えたものだった。
「──俺の心配をしている場合か」
「っ」
ふと、いやに近くで冷たさのある低い声が聞こえたかと思えば、いつの間にかライアンの顔が眼前に迫っていた。
図らずも間近で視線が合い、ミハルドは小さく息を呑む。
「お前こそ疲れてるだろう。今すぐにでも休んだ方がいい」
柔和な面立ちには普段とは違う渋面を作っており、眉間の皺も深く刻まれている。
「い、え……」
青い瞳がまっすぐにこちらを見ているのに加え、有無を言わせぬ口調に図らずも言い淀んだ。
言える訳がない。
幼い頃の夢を最近になって立て続けに見るだけでなく、ライアンの手で絶頂に追いやられてしまった時の『現実』の夢を見たなんて。
そもそも、その頃の自分の性の知識はあまりに朧げで、また教えてくれる者も教わる者もいなかった。
今となっては黒歴史以外の何物でもないが、まさか自分がこの年になって夢精してしまうとは思わなかったのだ。
不快感で起きると下着を汚しており、人知れず洗い場へ出向いてこっそりと処理したのが数時間前。
今思い出しても恥ずかしく、加えて夢に出てきた人物が若い頃のライアンなどと口が裂けても言えなかった。
まだ使用人が寝静まっている夜明け前に気付いたのが不幸中の幸いだと思いこそすれ、ライアンの顔を数日前よりも見れなくなっている。
あながちライアンの指摘も間違っていないと思うが、認めたくなかった。
そうミハルドが思っているとは露知らず、ライアンは尚も言葉を重ねる。
「……命令だと言っても駄目なのか」
半ば呆れたように言いながら、ライアンが離れていく。
「午後は庭園に居る。疲れたらおいで」
しかしすぐににこりと笑みを浮かべ、普段と変わらない穏やかな声で言った。
「あ……は、い」
小さく頷いたのを見ると、やがて安堵の息を吐いてライアンが退室していく。
一人きりになって少し息がしやすくなったが、こちらの挙動不審な態度や言動で心配を掛けたのは事実だ。
面と向かって朝の出来事を言えたら苦労はないが、ライアンとの関係が気まずくなるのは明白で、仮にそうなってしまうのは絶対に嫌だった。
(早く帰ってきてくれ……!)
ミハルドは心の中で絶叫する。
未だ帰城する兆しのない王太子の側近──無性にレオンハルトの顔を見たくて堪らない。
エルは一も二もなくアルトの元へ向かうだろうが、一応は話を聞いてくれる。
反して兄の願いを叶えるためならば、レオンハルトは誰が相手であっても真っ向から意見するほどだ。
心強い弟だと思う反面、時として傷付ける言葉を平気で言うところが玉に瑕なのだが。
ただ、昨日の夕方になってアルトが公爵邸から帰ってきた。
『ごめんな、ミハルドさん。ちょっと色々あったんだ』
顔を合わせたアルトは気まずそうに謝罪すると、ノアを引き連れて自室へ向かっていったように思う。
わざわざ自分が公爵邸にノアを寄越したと思っているのか、まだしばらくノアを借りるという意味なのか、何に対する謝罪なのかは分からない。
そもそもノアはアルト付きの従者のため、今更断る必要はないからこの予想は違うだろう。
まだ姿の見えない王太子のために、ノアと二人でエルを驚かせる準備を進めようとしている──と推測する。
その様子を見れば微笑ましいと思う反面、一週間前に比べてあまりそう思っていない自分が居るのも事実だった。
(疲れてるんだ、ほとんど寝ていないから)
自分でも正常に頭が働かないのは感じていて、普段ならばなんとも思わなくとも、小さな事でも妙に苛立ってしまうのだ。
更に眠れなくなったのは、ライアンに言われた結婚の件を了承してからだ。
生涯を共にする相手が男であれ女であれ、ライアンと同じ気持ちを抱けるかと言えば曖昧だった。
目を閉じればぐるぐるとそのことを考えてしまい、しかし眠れば幼い頃の出来事を中心に、ライアンとのそういう夢を見る。
仮にも主君に懸想しているだけでも罪深く、また同性なのだ。
ライアンにその気がなくとも、日に日に好意は増していくばかりで、どう接すればいいのか分からない。
同性でも結婚が出来るのは救いだが、もし同じ気持ちを返されでもしたら自分はなんと返すのだろうか。
(……絶対に間違いだと思うだろうな)
ミハルドはライアンのいなくなった執務室で、はぁと小さく溜め息を零す。
これまで言外に好意を伝えなかったと言えば嘘になるが、あまりに鈍感なふうだからか、強行突破したいと何度考えたか数えていない。
そのどれも実行には移せなかったが、一つだけ理解しているのはライアンに『その気』が無いということだ。
不意打ちで口付けてしまった時ですら普段と変わらず、気遣ってくれたのが何よりの証拠だった。
「──そういえば」
背凭れに身体を預け、ミハルドはひっそりと先日の出来事を思い出す。
その時は遠い領地から来たという貴族の取り次ぎをしており、ふと門を守る衛兵が同僚と密やかに話をしていたのだ。
『知ってるか、ミハルド様のこと』
聞こえてきたのは自分の名前で、聞き耳を立ててしまったのは無理からぬことだった。
『あの人は孤児で、見兼ねた陛下が王宮に連れてきたらしいんだよ。衛兵になったのも、助けてくれた恩を返すためだったとか』
『ええ、あのミハルド様が? 嘘だろ、シュヴァルツ公爵のご子息だって聞いたぞ』
話題を振ってきた同僚の言葉に驚き、しかしその反応に衛兵は味を占めたのか尚も続ける。
『いいや、本当だね。なんでも元々は由緒ある伯爵家の人で、その父親が酷い奴だったとか。んで、レオンハルト様と一緒に命からがら逃げ出してきたんだ。……俺が聞いた話だと小さい頃っつってたから、三十年近く前かな?』
衛兵はさも得意げで、まるでこの目で見てきたかのような口調だった。
けれどところどころはミハルドの記憶と違う話もあり、加えて自分の出自の噂が王宮に出回っているなど考えたこともなかった。
職務中に同僚と話し込むのは関心しないが、聞こえないように努めても聞いてしまうのは仕方ないと思う。
『──そういや、生きてるって噂もあったなぁ』
『なんだよ、まだあるのか』
ふと聞こえてきた衛兵の言葉に、貴族に向けて取り次ぎをしていたミハルドの口が止まる。
説明を聞いていた貴族が目に見えて困惑しているのが視界に入ったが、それ以上に衛兵の言葉をミハルドの耳は機敏に反応した。
『ほんとなんだっけ、伯爵の名前。ど忘れしちまってるんだよなぁ』
ここまで出てるんだけど、と衛兵が首の辺りに手を添えて続ける。
『ウェルク? スタージス? 伯爵夫人は元々身体が弱かったんだと。けど結婚して何年か経った時、伯爵があんまり暴力するもんだから心の病になっちまった。ま、要はこわぁい夫から逃げ出して、今は遠い異国で生きてるって噂だな』
『──その話は本当ですか』
『うおっ!?』
『み、ミハルド様!? お疲れ様です!』
音もなく衛兵らの背後に立つと、二人は文字通り飛び跳ねるようにして顔の横へ手を翳す。
衛兵の話はミハルドから父の話、そして母の話に移っていった。
伯爵の名前はうろ覚えのようだが、もしその言葉が本当であれば、母は──サナーシャは今も生きている可能性が高い。
あの日、母の眠っている顔を見る暇もなく、半ば無理矢理追い出されたも同然なのだ。
成長するにつれて、既に身体が弱くなっていた母は無理が祟って死んでしまった、と心のどこかで思っていた。
だから生家には適当な理由を付けて帰らず、己の考えが現実になるのを恐れた。
死んでしまったとすれば、どれほど親不孝なのだと自分を呪ってしまいそうだったから。
衛兵が語った話は真偽は不明だが、こうして母の安否を噂であろうと聞けるだけ嬉しかった。
じっと二人を見つめていると、やがて同僚の話を興味深そうに話を聞いていた衛兵が申し訳なさそうに言う。
『あ、あの、俺誰にも言わないので! だからその、減給だけは……!』
はたと違う方向に謝罪しようとする衛兵に、最初に会話を始めた衛兵共々目を丸くする。
『……私の母は昔から壮健ですから、あくまで噂でしょう。それよりも、仮にもお客人の前で話していい内容ではないかと思いますが』
努めて諭す口調で言いながらも、内心では心臓が痛いほど脈打っていた。
母が生きているという可能性が少しでもあるのならば、自分のいない所であっても幸せに暮らしているのならば、これ以上嬉しい事はない。
そもそも父と離縁して新たな人生を歩んでいると仮定すれば、ミハルドの入り込む余地など無いだろう。
そう思い込もうとしたが、時間が経つにつれてひと目でもいいから遠くからでも母の顔を見たかった。
仮にもいい年をした大人が何を、と普段の己が聞けば一笑に付すかもしれない。
しかし一度でも『会いたい』と思ってしまうと、そのことばかり考えてしまうのが人の性というものなのだろうか。
「──母様」
ミハルドは母の顔を思い浮かべながら、ぽつりと呟く。
その時の母はレオンハルトよりも少し年下だったと思うが、年を取っても変わらぬ優しい笑みは健在だろう。
三十年という気が遠くなるような長い年月が経ってしまったが、もしも機会があるのならば遠くからではなく、直接顔を合わせて話をしたいのが本音だ。
何をしているのか、どこに住んでいるのか、貴方は今幸せなのか。
叶うならば王宮に招待して、命の恩人であり好いた男であるライアンに会わせたかった。
ミハルドはそっと目を開き、まだ書きかけの書類に指を這わせる。
「……今日は徹夜かもしれないな」
はは、と無意識に自嘲じみた声が出る。
目の前に積まれた膨大な書類の山は、向こう二週間分は雑務に追われることはないだろう。
その分を今やるべきではないと頭では分かっている。
けれど、無理にでも手と頭を動かしていないと考えてしまうのだ。
ライアンのこと、自分の結婚相手のこと、そして母のことを。
この瞳と髪がある限り、母は──サナーシャは息子だと気付いてくれる。
けれどもし覚えておらず『気持ちが悪い』と言われてしまえば、立ち直れる気がしなかった。
無論、そんな事はないと信じたい。
しかし一番懸念すべき事は、この数日のうちに結婚相手と会い、近い将来ライアン以外の相手を愛さねばならないことだった。
(なぜいきなりあんなことを仰ったんだ)
これまで色恋一つライアンの口から聞いたことはなく、叶わぬ恋だとしても傍に居たいと思っていた。
けれど真面目なきらいがあるライアンのことだ、何を言うのか今回ばかりは予想できない。
仕草や言葉の抑揚で、ある程度言いたいことが分かる時がある。
それでも自分の恋愛に関することに、主君自ら口に出すのはあまり無いのではないか。
少なくとも、ミハルドが好意を寄せていると気付いていての言動だとは思いたくなかった。
ややあって椅子から立ち上がると、ライアンの後を追うように執務室を出た。
「ミハルド、パーティーの件だが」
「申し訳ございません、後で伺います」
なるべく顔を見ないよう、ミハルドは極力視線を机に固定したまま口早に言った。
それもこれも目の前にライアンが居ると理解しているからで、自分達以外に人が居れば多少は態度を変える。
ただ、まだ隣国へ出向いているエルやレオンハルトはもちろん、気心の知れたディアンまでもおらず広い執務室には二人しかいない。
(なんで今なんだ……! この書類が終わってからでもいいだろう)
そう言ってしまいたいのをなんとか堪え、しかしライアン以外にもミハルドを悩ませるものがあった。
「そういう訳にはいかない」
とん、と俯けている視界にライアンの指先が映る。
「……本当にどうしたんだ、いつもならすぐに答えてくれるだろう。ここ最近は特におかしいぞ」
はぁ、とライアンが短く嘆息する。
声音から心配しているのが伝わってくるが、面と向かって言えるのならば既にそうしていた。
「普通です。……もし疲れていらしたら、少しお休みになられてはどうですか」
後はやっておきますので、と普段よりもわずかに低い声で続ける。
手早く昼食を食べてから執務室へ来たが、そこから十分も経たないうちにライアンが入ってきた。
今日は公式的な行事はなく、本来であればライアンは一日自由なのだ。
季節の変わり目の今頃、休める時に休んでおかなければ体調を崩してしまうのは目に見えている。
主の体調を気遣うのも側近の務めだが、今日ばかりは何かしていないとライアンのことばかり考えてしまう。
午前は王宮直属の衛兵であり国王の取り次ぎとして、午後は国王の側近として日々を過ごしているが、数日後にパーティーを控えているとミハルドの休みは無いに等しい。
ただ、ライアンの公務がある時はほとんど追従しており、それ以外の時間に急ぎで確認する書類や公務が無い時はミハルドも休むことになっている。
そういう取り決めを側近になる時、他でもないライアンと約束したのだ。
ミハルドの負担にならない程度に側近を務めてもらいたい、だから自分の隣りに居てほしい、と。
本来ならば、側近という肩書きは自分のような者が持つものではない。
そもそも側近になって随分経った頃に聞いた話だが、ライアンは『ミハルドを守るためだ』と言って、周囲にほとんど相談なく決めたという。
身元も分からず有力な後ろ盾もない自分が、王の側に侍るなど本来ならばあり得ない話だ。
しかし幸いとでもいうのか、ライアンの教育係だった男──エリック・シュヴァルツは、血の繋がりのないミハルドを快く迎え入れてくれた。
娘は居たが息子がいなかったエリックにとって、ミハルドを本当の息子同然に可愛がってくれた。
『あの小さかった殿下が立派になられて……』
自分を側近にしてくれた、とエリックに言うと涙ながらにライアンの昔話をしてくれたのは、今でも鮮明に思い出せる。
ライアンからすればたまったものではないだろうが、それほど嬉しかったというのが伺えたものだった。
「──俺の心配をしている場合か」
「っ」
ふと、いやに近くで冷たさのある低い声が聞こえたかと思えば、いつの間にかライアンの顔が眼前に迫っていた。
図らずも間近で視線が合い、ミハルドは小さく息を呑む。
「お前こそ疲れてるだろう。今すぐにでも休んだ方がいい」
柔和な面立ちには普段とは違う渋面を作っており、眉間の皺も深く刻まれている。
「い、え……」
青い瞳がまっすぐにこちらを見ているのに加え、有無を言わせぬ口調に図らずも言い淀んだ。
言える訳がない。
幼い頃の夢を最近になって立て続けに見るだけでなく、ライアンの手で絶頂に追いやられてしまった時の『現実』の夢を見たなんて。
そもそも、その頃の自分の性の知識はあまりに朧げで、また教えてくれる者も教わる者もいなかった。
今となっては黒歴史以外の何物でもないが、まさか自分がこの年になって夢精してしまうとは思わなかったのだ。
不快感で起きると下着を汚しており、人知れず洗い場へ出向いてこっそりと処理したのが数時間前。
今思い出しても恥ずかしく、加えて夢に出てきた人物が若い頃のライアンなどと口が裂けても言えなかった。
まだ使用人が寝静まっている夜明け前に気付いたのが不幸中の幸いだと思いこそすれ、ライアンの顔を数日前よりも見れなくなっている。
あながちライアンの指摘も間違っていないと思うが、認めたくなかった。
そうミハルドが思っているとは露知らず、ライアンは尚も言葉を重ねる。
「……命令だと言っても駄目なのか」
半ば呆れたように言いながら、ライアンが離れていく。
「午後は庭園に居る。疲れたらおいで」
しかしすぐににこりと笑みを浮かべ、普段と変わらない穏やかな声で言った。
「あ……は、い」
小さく頷いたのを見ると、やがて安堵の息を吐いてライアンが退室していく。
一人きりになって少し息がしやすくなったが、こちらの挙動不審な態度や言動で心配を掛けたのは事実だ。
面と向かって朝の出来事を言えたら苦労はないが、ライアンとの関係が気まずくなるのは明白で、仮にそうなってしまうのは絶対に嫌だった。
(早く帰ってきてくれ……!)
ミハルドは心の中で絶叫する。
未だ帰城する兆しのない王太子の側近──無性にレオンハルトの顔を見たくて堪らない。
エルは一も二もなくアルトの元へ向かうだろうが、一応は話を聞いてくれる。
反して兄の願いを叶えるためならば、レオンハルトは誰が相手であっても真っ向から意見するほどだ。
心強い弟だと思う反面、時として傷付ける言葉を平気で言うところが玉に瑕なのだが。
ただ、昨日の夕方になってアルトが公爵邸から帰ってきた。
『ごめんな、ミハルドさん。ちょっと色々あったんだ』
顔を合わせたアルトは気まずそうに謝罪すると、ノアを引き連れて自室へ向かっていったように思う。
わざわざ自分が公爵邸にノアを寄越したと思っているのか、まだしばらくノアを借りるという意味なのか、何に対する謝罪なのかは分からない。
そもそもノアはアルト付きの従者のため、今更断る必要はないからこの予想は違うだろう。
まだ姿の見えない王太子のために、ノアと二人でエルを驚かせる準備を進めようとしている──と推測する。
その様子を見れば微笑ましいと思う反面、一週間前に比べてあまりそう思っていない自分が居るのも事実だった。
(疲れてるんだ、ほとんど寝ていないから)
自分でも正常に頭が働かないのは感じていて、普段ならばなんとも思わなくとも、小さな事でも妙に苛立ってしまうのだ。
更に眠れなくなったのは、ライアンに言われた結婚の件を了承してからだ。
生涯を共にする相手が男であれ女であれ、ライアンと同じ気持ちを抱けるかと言えば曖昧だった。
目を閉じればぐるぐるとそのことを考えてしまい、しかし眠れば幼い頃の出来事を中心に、ライアンとのそういう夢を見る。
仮にも主君に懸想しているだけでも罪深く、また同性なのだ。
ライアンにその気がなくとも、日に日に好意は増していくばかりで、どう接すればいいのか分からない。
同性でも結婚が出来るのは救いだが、もし同じ気持ちを返されでもしたら自分はなんと返すのだろうか。
(……絶対に間違いだと思うだろうな)
ミハルドはライアンのいなくなった執務室で、はぁと小さく溜め息を零す。
これまで言外に好意を伝えなかったと言えば嘘になるが、あまりに鈍感なふうだからか、強行突破したいと何度考えたか数えていない。
そのどれも実行には移せなかったが、一つだけ理解しているのはライアンに『その気』が無いということだ。
不意打ちで口付けてしまった時ですら普段と変わらず、気遣ってくれたのが何よりの証拠だった。
「──そういえば」
背凭れに身体を預け、ミハルドはひっそりと先日の出来事を思い出す。
その時は遠い領地から来たという貴族の取り次ぎをしており、ふと門を守る衛兵が同僚と密やかに話をしていたのだ。
『知ってるか、ミハルド様のこと』
聞こえてきたのは自分の名前で、聞き耳を立ててしまったのは無理からぬことだった。
『あの人は孤児で、見兼ねた陛下が王宮に連れてきたらしいんだよ。衛兵になったのも、助けてくれた恩を返すためだったとか』
『ええ、あのミハルド様が? 嘘だろ、シュヴァルツ公爵のご子息だって聞いたぞ』
話題を振ってきた同僚の言葉に驚き、しかしその反応に衛兵は味を占めたのか尚も続ける。
『いいや、本当だね。なんでも元々は由緒ある伯爵家の人で、その父親が酷い奴だったとか。んで、レオンハルト様と一緒に命からがら逃げ出してきたんだ。……俺が聞いた話だと小さい頃っつってたから、三十年近く前かな?』
衛兵はさも得意げで、まるでこの目で見てきたかのような口調だった。
けれどところどころはミハルドの記憶と違う話もあり、加えて自分の出自の噂が王宮に出回っているなど考えたこともなかった。
職務中に同僚と話し込むのは関心しないが、聞こえないように努めても聞いてしまうのは仕方ないと思う。
『──そういや、生きてるって噂もあったなぁ』
『なんだよ、まだあるのか』
ふと聞こえてきた衛兵の言葉に、貴族に向けて取り次ぎをしていたミハルドの口が止まる。
説明を聞いていた貴族が目に見えて困惑しているのが視界に入ったが、それ以上に衛兵の言葉をミハルドの耳は機敏に反応した。
『ほんとなんだっけ、伯爵の名前。ど忘れしちまってるんだよなぁ』
ここまで出てるんだけど、と衛兵が首の辺りに手を添えて続ける。
『ウェルク? スタージス? 伯爵夫人は元々身体が弱かったんだと。けど結婚して何年か経った時、伯爵があんまり暴力するもんだから心の病になっちまった。ま、要はこわぁい夫から逃げ出して、今は遠い異国で生きてるって噂だな』
『──その話は本当ですか』
『うおっ!?』
『み、ミハルド様!? お疲れ様です!』
音もなく衛兵らの背後に立つと、二人は文字通り飛び跳ねるようにして顔の横へ手を翳す。
衛兵の話はミハルドから父の話、そして母の話に移っていった。
伯爵の名前はうろ覚えのようだが、もしその言葉が本当であれば、母は──サナーシャは今も生きている可能性が高い。
あの日、母の眠っている顔を見る暇もなく、半ば無理矢理追い出されたも同然なのだ。
成長するにつれて、既に身体が弱くなっていた母は無理が祟って死んでしまった、と心のどこかで思っていた。
だから生家には適当な理由を付けて帰らず、己の考えが現実になるのを恐れた。
死んでしまったとすれば、どれほど親不孝なのだと自分を呪ってしまいそうだったから。
衛兵が語った話は真偽は不明だが、こうして母の安否を噂であろうと聞けるだけ嬉しかった。
じっと二人を見つめていると、やがて同僚の話を興味深そうに話を聞いていた衛兵が申し訳なさそうに言う。
『あ、あの、俺誰にも言わないので! だからその、減給だけは……!』
はたと違う方向に謝罪しようとする衛兵に、最初に会話を始めた衛兵共々目を丸くする。
『……私の母は昔から壮健ですから、あくまで噂でしょう。それよりも、仮にもお客人の前で話していい内容ではないかと思いますが』
努めて諭す口調で言いながらも、内心では心臓が痛いほど脈打っていた。
母が生きているという可能性が少しでもあるのならば、自分のいない所であっても幸せに暮らしているのならば、これ以上嬉しい事はない。
そもそも父と離縁して新たな人生を歩んでいると仮定すれば、ミハルドの入り込む余地など無いだろう。
そう思い込もうとしたが、時間が経つにつれてひと目でもいいから遠くからでも母の顔を見たかった。
仮にもいい年をした大人が何を、と普段の己が聞けば一笑に付すかもしれない。
しかし一度でも『会いたい』と思ってしまうと、そのことばかり考えてしまうのが人の性というものなのだろうか。
「──母様」
ミハルドは母の顔を思い浮かべながら、ぽつりと呟く。
その時の母はレオンハルトよりも少し年下だったと思うが、年を取っても変わらぬ優しい笑みは健在だろう。
三十年という気が遠くなるような長い年月が経ってしまったが、もしも機会があるのならば遠くからではなく、直接顔を合わせて話をしたいのが本音だ。
何をしているのか、どこに住んでいるのか、貴方は今幸せなのか。
叶うならば王宮に招待して、命の恩人であり好いた男であるライアンに会わせたかった。
ミハルドはそっと目を開き、まだ書きかけの書類に指を這わせる。
「……今日は徹夜かもしれないな」
はは、と無意識に自嘲じみた声が出る。
目の前に積まれた膨大な書類の山は、向こう二週間分は雑務に追われることはないだろう。
その分を今やるべきではないと頭では分かっている。
けれど、無理にでも手と頭を動かしていないと考えてしまうのだ。
ライアンのこと、自分の結婚相手のこと、そして母のことを。
この瞳と髪がある限り、母は──サナーシャは息子だと気付いてくれる。
けれどもし覚えておらず『気持ちが悪い』と言われてしまえば、立ち直れる気がしなかった。
無論、そんな事はないと信じたい。
しかし一番懸念すべき事は、この数日のうちに結婚相手と会い、近い将来ライアン以外の相手を愛さねばならないことだった。
(なぜいきなりあんなことを仰ったんだ)
これまで色恋一つライアンの口から聞いたことはなく、叶わぬ恋だとしても傍に居たいと思っていた。
けれど真面目なきらいがあるライアンのことだ、何を言うのか今回ばかりは予想できない。
仕草や言葉の抑揚で、ある程度言いたいことが分かる時がある。
それでも自分の恋愛に関することに、主君自ら口に出すのはあまり無いのではないか。
少なくとも、ミハルドが好意を寄せていると気付いていての言動だとは思いたくなかった。
ややあって椅子から立ち上がると、ライアンの後を追うように執務室を出た。
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