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一章
美しい人 3
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◆◆◆
(……懐かしい夢を見たな)
慣れ親しんだ揺れに身を任せながら、ミハルドはうっすらと瞳を開いた。
仮にも職務中にうたた寝をした事実は覆せないが、思い出すと知らずミハルドの口角が緩む。
まだ幼かった自分と弟はもちろん、ライアンはノア──アルトの従者であり自身の部下だ──と同じくらいだっただろうか。
(思えば長く生きたものだ)
生家を追い出され、あのまま野垂れ死ぬかと思っていたがレオンハルトは三十の節目を超えたばかりだ。
同時に自分も年を喰い、そのぶん周囲の環境や人も変わっていくのが世の常だと知った。
真正面に見える小窓、小さなカーテンを隔てた向こう側では御者が馬を操っており、心地いい揺れが規則正しく身体に響いている。
共に来ていたアルトとは孤児院で別れた。
行きの馬車で孤児院を出たあとはムーンバレイ公爵邸へ滞在し、一週間後に王宮へ戻ると聞かされたのだ。
『あいつがいないうちに色々進めておきたいことがあるんだ。ほら、いつもだったら今日中に帰って来いって言うから……』
やや濁されたもののアルトが公爵邸で何をしようとしているのか、ミハルドは知っている。
つい数日前に王太子の生誕祭があったため、エルには内密に自身の手だけで事を進めようとしているのだ。
アルトは周囲に隠しているらしいが、エルが『誕生日なのに、夜になっても何もしてくれなかった』と嘆いていた、とレオンハルトを伝って知っているからだった。
ミハルドが把握しているとは露知らず、アルトは終始楽しそうに鼻歌を歌っていたのは微笑ましい。
そもそも出向いている先が隣国とはいえ、エルが王宮へ戻るのは早くても二週間は掛かる。
そこは昔から親交のある国の一つで、やや身体を酷使している節のあるライアンの代わりにエルが代理を買って出たのだ。
前々から『是非とも我が国へ』とライアンと同年代の王が言っていたためすぐには断れず、最終的に王太子が向かう旨の手紙を書いた。
『本当に陛下は……父上は、最初からこうするつもりだったのでしょう』
呆れともつかない溜め息を吐き、エルが父王に言ったのはつい三日前。
王太子としての務めをやれるだけ終え、一日の雑務を終えようとしている時の事だった。
『はて、なんのことだ』
ライアンは手を動かすのを止めず、どこか他人事のように尋ね返す。
『とぼけるのもいい加減にしてください。私に任せるのは一向に構いませんが、一度くらいご自分の足で出向かれてはどうです』
あの方の落胆する顔が目に浮かぶ、とエルはやり切れないふうに嘆息した。
事実、ライアンは来賓で招かれた時以外は基本的に国外へ出向かない。
あくまで私的な友人としての関わりを厭い、よっぽどの緊急でない限り、普段はライアンの代わりにミハルドが遣いに行っている。
長期的に留守にする事が多く、これも王の側近として大切な務めではあるが、ここ数ヶ月は特に顕著だった。
つい昨日も身体が悪いのかと尋ねたが、出会った頃から変わらない優しい笑みで『大丈夫』と笑うのだ。
こちらとしては休んで欲しいものの、あまり強く言えないためやきもきしているのも悲しいかな、また事実だった。
(殿下とはまた別だな)
ミハルドは御者に気付かれないよう、小さく息を吐く。
この三十年でライアンの人となりはよく分かっているつもりだが、本当に辛い時ですらミハルドにも本音を隠すため、常に気を配っていなければならない。
反対にエルはいい意味でも悪い意味でも、素直な性格の部類だった。
生まれた時から知っているからか時に苛立つ事はあるが、可愛らしい弟の一人でもある。
それはアルトも同じことで、しかしエル以上に顔に出やすいため何を考えているのか予想するのは容易い。
口では悪態を吐いていても愛しい男のことを話す時、やや伏し目がちになって頬を染めるのだ。
束縛をするのもエルが出来る我儘の一つだと分かっているが、やり過ぎるのは如何なものかと思う。
(行き過ぎるのは関心しないが、殿下のように感情のまま動いて欲しいものだ)
一度だけ何らかの理由でアルトを困らせてしまったのか、王太子の寝室の隣りに位置する執務室で、エルが項垂れている場に出くわした事があった。
『俺が悪い。全部、全部……』
机に顔を伏せたままぶつぶつと同じことを繰り返し、ミハルドはもちろん呆れたレオンハルトに強く肩を揺すられても、頑として顔を俯けたままだった。
結局のところ小さな喧嘩──エルが一度にする回数が多いからだと分かり、アルトはそれが恥ずかしくて自室に引き篭ってしまったのだという。
その時はレオンハルトと共に無言で『元気だな』と目配せをし合ったが、アルトに対して重いほどの感情を持つ男の相手が大変なのも頷けると思った。
(そういえば今日も腰を庇っていらした)
孤児院の近くへ向かう道中では浅く腰掛け、傍目から見れば分からない程度だが、時折ミハルドの目を盗んで腰を摩っていた。
指摘するのも悪い気がして言わずにいたが、これも目をあまり開いていないから為せるものなのだと思う。
事実、ミハルドが特定の誰かの前で、血によりもずっと赤くどす黒い瞳を開く事はなくなっている。
どうしてもという時──それこそ相手を脅す時か、不意打ちを喰らった時だけだった。
アルトは普段と何ら変わらないふうを装っていたが、ゆっくりとした動きは見る者が見ればすぐに分かるのだ。
それ即ち昨夜エルに狂おしいほど愛されたも同義で、それほどの強い愛情を向けられていても尚、笑顔でいるアルトにいっそ尊敬の念を抱く。
無論、やり過ぎて時に喧嘩をしている事はあるが、それ以外であれば世界中のどの王族よりも仲が良いだろう。
エルがアルトにするように、ライアンに触れられたい。
愛おしそうに名を呼ばれ、それに応えたい。
何より、そういう対象としてライアンの傍に居たいのだ。
「──アルト様が羨ましい」
それと同時に小さく放った言葉がいやに大きく響き、ミハルドはやや俯けていた顔をがばりと上げた。
(な、何を考えた!? 俺は今……なんてことを)
じわじわと顔に熱が集まっていくのが分かり、しかし考えていたことや放った言葉は紛れもない本音でもあった。
「違う、お二人に昔のことを話したせいだ」
ふるりと一度首を振り、誰にともなく独り言ちる。
一人きりの馬車で思い返すのは、ルシエラの一言でアルトとメシア、その他にも昔話に興味を示した子供達の前で話した事だった。
生家から追い出され、ライアンと初めて出会った日の出来事は昨日の事のように思い出せる。
あの時の自分は無我夢中で、ただただライアンが『助ける』と言ってくれた言葉をすぐに信じた。
初対面も同然な人間を信用するのは幼心に気が引けたが、今思えばあれが運命だったのだと思う。
あのまま誰にも手を差し伸べられなければ、レオンハルト共々死んでいてもおかしくはなかったのだ。
(いつ好きになったのか、なんて思い出せない)
昔話を終えると、ルシエラは『陛下のどこを好きになったんだ』と再三聞いてきた。
その時は曖昧に濁してしまったが、本当に分からないのだ。
なにぶん王宮で過ごした年月が長過ぎて、いつ好意を抱いたのかすら定かではない。
手を差し伸べてくれたあの時であれば、命の恩人と言った方が説明がつく。
けれどそのまま王宮で過ごす事になるとはミハルドはもちろん、まだ乳飲み子だったレオンハルトに至っては記憶に無いだろう。
それに呼応して、生家の記憶など最早ほとんどないに等しい。
けれど母だけは今でも気掛かりで、なのに未だに何かしらの理由を付けて一度も帰っていない。
もう母がこの世にいなければ、生家の門を叩いた先に居た人間が父だけだったら、と考えると足が進まないのだ。
ライアンは『折を見て顔を見せてやれ』と言わなかったものの、こうして短くない年月が経ってみれば里心というものが嫌でも付く。
ただ、そこまで行動する勇気はまだなかった。
(いや、悩んでいるだけ無駄だ)
狭い馬車の中で無意識に脚を組み替えると、ぎしりとソファの軋む音が大きく響く。
どちらにしろライアンにたった一言『生家に戻る』と言えば、すぐに許可を出してくれるはずだ。
そもそも許可など不要だと思うが、そうしなければいけないという漠然とした感情が湧き上がる。
「……引き止めて欲しいのか、俺は」
はっ、と自嘲気味に小さく呟く。
もしただの一度でも、自分のことで焦ったライアンの顔を見られたならば。
若い頃よりもがっしりとした身体で、痛いほどこの身を抱き締められたならば。
年を重ねてますます美しさを増したこの国の王は、今やミハルドの中では到底抑え切れないほど、大きな存在となっていた。
それは親愛よりもずっと深く重い感情で、この気持ちを受け取って欲しいとすら思う。
けれど、それはできないのだ。
(何度も何度も伝えてきた。その度に、貴方は……何も言ってくれない)
分かっている。
ライアンの心のどこかには、常に亡き王妃──ミシェルが居るということくらい。
同時にミシェルは、ミハルドとレオンハルトの恩人なのだ。
生家を追い出されてひもじい思いをしていた自分達に、しばらくの間とはいえ食べ物を分け与えてくれた。
ライアンに連れられた先が王宮で、まさか最初に手を差し伸べてくれた女性がその男の妻で、王太子妃だとは露ほども思わなかったのだが。
ライアンと並び立つ姿はよく似合っていて、そんな二人に憧れがあったのだと思う。
ミシェルは心優しく、強かな女性だった。
腰まである柔らかそうな黒髪を背中に下ろし、優雅な所作で紅茶を飲む姿は今でも覚えている。
かと思えば高い位置で結い上げ、剣を執るさまは女騎士のそれだ。
ころころとよく笑う表情や心地いい高音が、こちらを慈しむ黒目がちな瞳がどこか母に似ていて、ミハルドもついついミシェルの傍で過ごしているのが常だった。
しかしエルを産んですぐに亡くなってしまったため、唐突な事に何が起きたのか分からなかったところもある。
けれど今ならばライアンの気持ちや、物心付いた時から母がいないエルの気持ちが痛いほど分かるのだ。
大切な存在が己の手の届く場所から突然いなくなり、方や産みの母の愛を知らぬまま成長した。
それでもライアンは毅然としていて、エルに至ってはやや歪みはあったものの、好いた男と生涯を共にする覚悟を決めている。
王太子の血を残せないのは何事か、と未だに一部で憤慨する貴族らとは違って自分の息子が幸せならば、ミシェルは祝福するだろう。
けれど今のライアンはもちろん、ミハルドを見ればどう思うのか──そんな事を最近になってよく考えてしまうのだ。
(ミシェル様は怒るだろうか。あの時助けた子供が、仮にも自分の夫を好きになるなど)
既に亡い人に問い掛けても無駄だと理解しているが、ライアンとてエルのためにと他国から二人の妃を娶ったのだ。
一人はつい最近の王配暗殺未遂事件によって王太子の怒りを買い、それだけでなくライアンから直々に離縁を言い渡された。
今は故郷の城のどこかで幽閉されているか、もしくはという場合も十二分にあるだろう。
もう一人はエルが五歳の頃、お忍びで向かったというある店の中で何者かによって刺し殺された。
その人はその場で亡くなり、戻るのが遅くて停めていた馬車から店まで走ってきたエルは、殺した『らしい』男をずっと恨んでいた。
今でこそどちらの問題も解決しているが、ミハルドの記憶が間違っていなければライアンは独り身だ。
それも『幼い王太子を想って』結婚しただけに過ぎず、その二人を愛していたかは──第三王妃のことは多少なりとも好意を抱いていたのだろうが──結局分からず終いだが。
ライアンが何を思ってこちらの返事を濁すのか漠然としか分からないながらも、最初の考えが当たっている場合も否めないのだ。
実際にミシェルとの睦まじさを間近で見ていた身としては、その可能性の方が高かった。
けれど生家に向かう事以上に、ライアンへ明確な想いを伝える方が莫大な勇気と心の強さが必要だった。
(もしも軽蔑されたら、もうお傍にはいられない)
己の内に湧き上がる感情を自覚していても尚、どちらかが死ぬまでに隠し通す事は到底できなかった。
濁すことも微笑みではぐらかすことも許さず、かといってライアンに体のいい逃げ道を用意しておきたいのは矛盾しているだろうか。
(……本当に俺は弱くて悪い奴だ)
仮に言えたとしてもライアンの瞳をまっすぐに見られるか、自信は無いに等しい。
けれどこんな気持ちのままではライアンの側近としてはもちろん、いつか顔を合わせて話すことさえできなくなるだろう。
それほどいつも以上にライアンに焦がれてしまうのは、ひとえに孤児院でアルトやルシエラ、子供達の前で話を聞かせたからだろう。
「──馬鹿か」
手の平で目元を覆い、ミハルドはそのままがくりと項垂れた。
一生隠し通せるほどの思いであれば良かったが、こればかりは拗らせ過ぎてしまった己の責任だ。
たとえライアンから色いい返事が来なくても、すべては叶わないであろう相手を好きになってしまった自業自得だと言える。
しばらくは不自然な言動をしない方が良さそうだな、とミハルドがひそかに心に留めると同時に、ガタガタと一際大きく馬車が揺れた。
王宮を通る道中は庶民の住まう街と貴族らの住まいとを明確にするため、石畳が敷かれている。
その石畳を抜けて少しした先が王宮で、生家以外でミハルドが帰る場所の一つだった。
(……懐かしい夢を見たな)
慣れ親しんだ揺れに身を任せながら、ミハルドはうっすらと瞳を開いた。
仮にも職務中にうたた寝をした事実は覆せないが、思い出すと知らずミハルドの口角が緩む。
まだ幼かった自分と弟はもちろん、ライアンはノア──アルトの従者であり自身の部下だ──と同じくらいだっただろうか。
(思えば長く生きたものだ)
生家を追い出され、あのまま野垂れ死ぬかと思っていたがレオンハルトは三十の節目を超えたばかりだ。
同時に自分も年を喰い、そのぶん周囲の環境や人も変わっていくのが世の常だと知った。
真正面に見える小窓、小さなカーテンを隔てた向こう側では御者が馬を操っており、心地いい揺れが規則正しく身体に響いている。
共に来ていたアルトとは孤児院で別れた。
行きの馬車で孤児院を出たあとはムーンバレイ公爵邸へ滞在し、一週間後に王宮へ戻ると聞かされたのだ。
『あいつがいないうちに色々進めておきたいことがあるんだ。ほら、いつもだったら今日中に帰って来いって言うから……』
やや濁されたもののアルトが公爵邸で何をしようとしているのか、ミハルドは知っている。
つい数日前に王太子の生誕祭があったため、エルには内密に自身の手だけで事を進めようとしているのだ。
アルトは周囲に隠しているらしいが、エルが『誕生日なのに、夜になっても何もしてくれなかった』と嘆いていた、とレオンハルトを伝って知っているからだった。
ミハルドが把握しているとは露知らず、アルトは終始楽しそうに鼻歌を歌っていたのは微笑ましい。
そもそも出向いている先が隣国とはいえ、エルが王宮へ戻るのは早くても二週間は掛かる。
そこは昔から親交のある国の一つで、やや身体を酷使している節のあるライアンの代わりにエルが代理を買って出たのだ。
前々から『是非とも我が国へ』とライアンと同年代の王が言っていたためすぐには断れず、最終的に王太子が向かう旨の手紙を書いた。
『本当に陛下は……父上は、最初からこうするつもりだったのでしょう』
呆れともつかない溜め息を吐き、エルが父王に言ったのはつい三日前。
王太子としての務めをやれるだけ終え、一日の雑務を終えようとしている時の事だった。
『はて、なんのことだ』
ライアンは手を動かすのを止めず、どこか他人事のように尋ね返す。
『とぼけるのもいい加減にしてください。私に任せるのは一向に構いませんが、一度くらいご自分の足で出向かれてはどうです』
あの方の落胆する顔が目に浮かぶ、とエルはやり切れないふうに嘆息した。
事実、ライアンは来賓で招かれた時以外は基本的に国外へ出向かない。
あくまで私的な友人としての関わりを厭い、よっぽどの緊急でない限り、普段はライアンの代わりにミハルドが遣いに行っている。
長期的に留守にする事が多く、これも王の側近として大切な務めではあるが、ここ数ヶ月は特に顕著だった。
つい昨日も身体が悪いのかと尋ねたが、出会った頃から変わらない優しい笑みで『大丈夫』と笑うのだ。
こちらとしては休んで欲しいものの、あまり強く言えないためやきもきしているのも悲しいかな、また事実だった。
(殿下とはまた別だな)
ミハルドは御者に気付かれないよう、小さく息を吐く。
この三十年でライアンの人となりはよく分かっているつもりだが、本当に辛い時ですらミハルドにも本音を隠すため、常に気を配っていなければならない。
反対にエルはいい意味でも悪い意味でも、素直な性格の部類だった。
生まれた時から知っているからか時に苛立つ事はあるが、可愛らしい弟の一人でもある。
それはアルトも同じことで、しかしエル以上に顔に出やすいため何を考えているのか予想するのは容易い。
口では悪態を吐いていても愛しい男のことを話す時、やや伏し目がちになって頬を染めるのだ。
束縛をするのもエルが出来る我儘の一つだと分かっているが、やり過ぎるのは如何なものかと思う。
(行き過ぎるのは関心しないが、殿下のように感情のまま動いて欲しいものだ)
一度だけ何らかの理由でアルトを困らせてしまったのか、王太子の寝室の隣りに位置する執務室で、エルが項垂れている場に出くわした事があった。
『俺が悪い。全部、全部……』
机に顔を伏せたままぶつぶつと同じことを繰り返し、ミハルドはもちろん呆れたレオンハルトに強く肩を揺すられても、頑として顔を俯けたままだった。
結局のところ小さな喧嘩──エルが一度にする回数が多いからだと分かり、アルトはそれが恥ずかしくて自室に引き篭ってしまったのだという。
その時はレオンハルトと共に無言で『元気だな』と目配せをし合ったが、アルトに対して重いほどの感情を持つ男の相手が大変なのも頷けると思った。
(そういえば今日も腰を庇っていらした)
孤児院の近くへ向かう道中では浅く腰掛け、傍目から見れば分からない程度だが、時折ミハルドの目を盗んで腰を摩っていた。
指摘するのも悪い気がして言わずにいたが、これも目をあまり開いていないから為せるものなのだと思う。
事実、ミハルドが特定の誰かの前で、血によりもずっと赤くどす黒い瞳を開く事はなくなっている。
どうしてもという時──それこそ相手を脅す時か、不意打ちを喰らった時だけだった。
アルトは普段と何ら変わらないふうを装っていたが、ゆっくりとした動きは見る者が見ればすぐに分かるのだ。
それ即ち昨夜エルに狂おしいほど愛されたも同義で、それほどの強い愛情を向けられていても尚、笑顔でいるアルトにいっそ尊敬の念を抱く。
無論、やり過ぎて時に喧嘩をしている事はあるが、それ以外であれば世界中のどの王族よりも仲が良いだろう。
エルがアルトにするように、ライアンに触れられたい。
愛おしそうに名を呼ばれ、それに応えたい。
何より、そういう対象としてライアンの傍に居たいのだ。
「──アルト様が羨ましい」
それと同時に小さく放った言葉がいやに大きく響き、ミハルドはやや俯けていた顔をがばりと上げた。
(な、何を考えた!? 俺は今……なんてことを)
じわじわと顔に熱が集まっていくのが分かり、しかし考えていたことや放った言葉は紛れもない本音でもあった。
「違う、お二人に昔のことを話したせいだ」
ふるりと一度首を振り、誰にともなく独り言ちる。
一人きりの馬車で思い返すのは、ルシエラの一言でアルトとメシア、その他にも昔話に興味を示した子供達の前で話した事だった。
生家から追い出され、ライアンと初めて出会った日の出来事は昨日の事のように思い出せる。
あの時の自分は無我夢中で、ただただライアンが『助ける』と言ってくれた言葉をすぐに信じた。
初対面も同然な人間を信用するのは幼心に気が引けたが、今思えばあれが運命だったのだと思う。
あのまま誰にも手を差し伸べられなければ、レオンハルト共々死んでいてもおかしくはなかったのだ。
(いつ好きになったのか、なんて思い出せない)
昔話を終えると、ルシエラは『陛下のどこを好きになったんだ』と再三聞いてきた。
その時は曖昧に濁してしまったが、本当に分からないのだ。
なにぶん王宮で過ごした年月が長過ぎて、いつ好意を抱いたのかすら定かではない。
手を差し伸べてくれたあの時であれば、命の恩人と言った方が説明がつく。
けれどそのまま王宮で過ごす事になるとはミハルドはもちろん、まだ乳飲み子だったレオンハルトに至っては記憶に無いだろう。
それに呼応して、生家の記憶など最早ほとんどないに等しい。
けれど母だけは今でも気掛かりで、なのに未だに何かしらの理由を付けて一度も帰っていない。
もう母がこの世にいなければ、生家の門を叩いた先に居た人間が父だけだったら、と考えると足が進まないのだ。
ライアンは『折を見て顔を見せてやれ』と言わなかったものの、こうして短くない年月が経ってみれば里心というものが嫌でも付く。
ただ、そこまで行動する勇気はまだなかった。
(いや、悩んでいるだけ無駄だ)
狭い馬車の中で無意識に脚を組み替えると、ぎしりとソファの軋む音が大きく響く。
どちらにしろライアンにたった一言『生家に戻る』と言えば、すぐに許可を出してくれるはずだ。
そもそも許可など不要だと思うが、そうしなければいけないという漠然とした感情が湧き上がる。
「……引き止めて欲しいのか、俺は」
はっ、と自嘲気味に小さく呟く。
もしただの一度でも、自分のことで焦ったライアンの顔を見られたならば。
若い頃よりもがっしりとした身体で、痛いほどこの身を抱き締められたならば。
年を重ねてますます美しさを増したこの国の王は、今やミハルドの中では到底抑え切れないほど、大きな存在となっていた。
それは親愛よりもずっと深く重い感情で、この気持ちを受け取って欲しいとすら思う。
けれど、それはできないのだ。
(何度も何度も伝えてきた。その度に、貴方は……何も言ってくれない)
分かっている。
ライアンの心のどこかには、常に亡き王妃──ミシェルが居るということくらい。
同時にミシェルは、ミハルドとレオンハルトの恩人なのだ。
生家を追い出されてひもじい思いをしていた自分達に、しばらくの間とはいえ食べ物を分け与えてくれた。
ライアンに連れられた先が王宮で、まさか最初に手を差し伸べてくれた女性がその男の妻で、王太子妃だとは露ほども思わなかったのだが。
ライアンと並び立つ姿はよく似合っていて、そんな二人に憧れがあったのだと思う。
ミシェルは心優しく、強かな女性だった。
腰まである柔らかそうな黒髪を背中に下ろし、優雅な所作で紅茶を飲む姿は今でも覚えている。
かと思えば高い位置で結い上げ、剣を執るさまは女騎士のそれだ。
ころころとよく笑う表情や心地いい高音が、こちらを慈しむ黒目がちな瞳がどこか母に似ていて、ミハルドもついついミシェルの傍で過ごしているのが常だった。
しかしエルを産んですぐに亡くなってしまったため、唐突な事に何が起きたのか分からなかったところもある。
けれど今ならばライアンの気持ちや、物心付いた時から母がいないエルの気持ちが痛いほど分かるのだ。
大切な存在が己の手の届く場所から突然いなくなり、方や産みの母の愛を知らぬまま成長した。
それでもライアンは毅然としていて、エルに至ってはやや歪みはあったものの、好いた男と生涯を共にする覚悟を決めている。
王太子の血を残せないのは何事か、と未だに一部で憤慨する貴族らとは違って自分の息子が幸せならば、ミシェルは祝福するだろう。
けれど今のライアンはもちろん、ミハルドを見ればどう思うのか──そんな事を最近になってよく考えてしまうのだ。
(ミシェル様は怒るだろうか。あの時助けた子供が、仮にも自分の夫を好きになるなど)
既に亡い人に問い掛けても無駄だと理解しているが、ライアンとてエルのためにと他国から二人の妃を娶ったのだ。
一人はつい最近の王配暗殺未遂事件によって王太子の怒りを買い、それだけでなくライアンから直々に離縁を言い渡された。
今は故郷の城のどこかで幽閉されているか、もしくはという場合も十二分にあるだろう。
もう一人はエルが五歳の頃、お忍びで向かったというある店の中で何者かによって刺し殺された。
その人はその場で亡くなり、戻るのが遅くて停めていた馬車から店まで走ってきたエルは、殺した『らしい』男をずっと恨んでいた。
今でこそどちらの問題も解決しているが、ミハルドの記憶が間違っていなければライアンは独り身だ。
それも『幼い王太子を想って』結婚しただけに過ぎず、その二人を愛していたかは──第三王妃のことは多少なりとも好意を抱いていたのだろうが──結局分からず終いだが。
ライアンが何を思ってこちらの返事を濁すのか漠然としか分からないながらも、最初の考えが当たっている場合も否めないのだ。
実際にミシェルとの睦まじさを間近で見ていた身としては、その可能性の方が高かった。
けれど生家に向かう事以上に、ライアンへ明確な想いを伝える方が莫大な勇気と心の強さが必要だった。
(もしも軽蔑されたら、もうお傍にはいられない)
己の内に湧き上がる感情を自覚していても尚、どちらかが死ぬまでに隠し通す事は到底できなかった。
濁すことも微笑みではぐらかすことも許さず、かといってライアンに体のいい逃げ道を用意しておきたいのは矛盾しているだろうか。
(……本当に俺は弱くて悪い奴だ)
仮に言えたとしてもライアンの瞳をまっすぐに見られるか、自信は無いに等しい。
けれどこんな気持ちのままではライアンの側近としてはもちろん、いつか顔を合わせて話すことさえできなくなるだろう。
それほどいつも以上にライアンに焦がれてしまうのは、ひとえに孤児院でアルトやルシエラ、子供達の前で話を聞かせたからだろう。
「──馬鹿か」
手の平で目元を覆い、ミハルドはそのままがくりと項垂れた。
一生隠し通せるほどの思いであれば良かったが、こればかりは拗らせ過ぎてしまった己の責任だ。
たとえライアンから色いい返事が来なくても、すべては叶わないであろう相手を好きになってしまった自業自得だと言える。
しばらくは不自然な言動をしない方が良さそうだな、とミハルドがひそかに心に留めると同時に、ガタガタと一際大きく馬車が揺れた。
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