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二章
叶わぬ想い 2
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◆◆◆
自室にある小さなテーブルには、ところ狭しと料理が並べられている。
その半分はアルトが食べるはずだったもので、ミハルドは一心不乱にそれらを口に詰め込んでいた。
普段は大柄な容姿に似合わず楚々としている国王の側近は、その実大食いだという一面を知る者はごく少ない。
普段からあまり人前で食べないのはもちろんだが、一度口に入れてしまえば最後、止まらなくなる時があるからだった。
しかし今回ばかりは腹が減っていたのは紛れもない事実で、こうでもしていないと想いが溢れてしまいそうなのだ。
(食べても食べても足りない)
旬のものをふんだんに使ったスープやメインディッシュの魚とは別に、二人分以上は優にありそうなパンがバスケットに入っていた。
給仕をする使用人に無理を言って、あるだけのパンを貰ってきたのだ。
『本当に一人で全部食べられるのか……? 俺が言うのもなんだが、あまり食べては……その』
ミハルドが一人で食べるとは思っていなかったようで、使用人──ラジェルマはかすかに目を瞠りながら言った。
時々顔を合わせる程度ではあるが、敬語を使わずに軽口を叩けるほど仲が良い人間の一人だと思う。
言葉の続きはなんとなく予想出来るが、すべて言わない辺りはこの男らしいと思ったものだ。
『構わない。今日は食べたい気分なんだ』
止めないでくれるのを有難いと思いつつ、やはり少しの罪悪感と羞恥心というものがある。
国王、それもその側近自ら厨房へ来る事はほとんどなかった。
けれど王太子だけは例外で、甘いものが好きなアルトのために、とエル自ら厨房に立って菓子を作っている。
今となってはエルが厨房に居ても咎める者はいないが、エル以外は基本的に滅多な事がない限り寄り付かないため、ほんの少し厨房内が騒がしかったのはしばらく思い出すだろう。
(ラジェルマや他の使用人に、今度何か奢らないと)
このパンも本来ならば余っていたもので、厨房に勤める使用人やメイドらの朝食になっていたものだ。
それを横から国王の側近が『すべてくれ』と言ってきたのだから、驚かないのも無理からぬ事だろう。
なんとも言えない気持ちになりながら、ミハルドはバスケットの中から適当にパンを摑む。
手に持つとかすかに温かく、焼き立てとはいかないが口に入れるとまだ柔らかくて、ふんわりとしている。
大口を開けて三口足らずで食べるとまた次、また次とパンに手を伸ばす。
合間にスープや魚を口に含み、しかしどれほど食べてもいつもより空腹感が満たされない。
その理由に心当たりはあるが、それでも尚知らないふりをして一心不乱に食べ物を口に詰め込むのは、この想いが外に出てしまうのが嫌だからだ。
それは何もライアンに対する感情だけではなく、得体の知れない恐怖がミハルドの心をじわじわと支配していくのだ。
その原因は時々、いや近頃頻繁に、幼い頃の夢を見るからだと思う。
それまではほとんど夢を見ないか、朝になれば忘れてしまう日々だったのだ。
しかし普段は頭の奥深くに閉じ込めている断片的な記憶が、夢を見た時だけ鮮明に呼び起こされてしまう。
疲れが関係しているのかと思い、無理を言って休みを貰い──ライアンは『もっと休んで欲しいくらいだ』と言っていたが──一日のほとんどを寝て過ごした時があった。
それでもあまり眠った気がせず、起きてから脳裏に蘇るのは怒りに身を任せた父の顔だった。
幼い頃、ミハルドは父や使用人に邪険に扱われるか、そこにはいない者と見なされ、時には理由を付けて殴られる事があったのだ。
父が手を上げたのは数え切れないほどあったが、幼いながら己の容姿が関係していると気付くきっかけになった。
けれど母だけがいつも味方でいてくれたのは、今でもはっきりと覚えている。
子供だった時ですら容姿に劣等感を抱き、いつしかあまり瞳を開かなくなった。
最初の頃は慣れない事が多くて苦労したが、元々視力と聴力が人より優れていたのは幸いだった。
やや薄目のまま物事をこなす練習をすると、やがて問題なく日常生活を送れるようになった。
それもこれも、すべては増悪を向けてくる父に微笑み掛けて欲しいから──幼い子供の考えそうなことだ、と今なら一笑に付すだろう。
なのに父は目を合わせるどころか、いっそうミハルドを避けるようになった。
さすがにレオンハルトには何もしなかったが、ミハルドと同じく目もくれず、赤子というのを抜きにしても微笑み掛けたところを見た事は終ぞ無かったように思う。
(あの人は俺やレオンハルトを……いや、母様だって邪険に扱っていた。それに)
「──よく食べるなぁ」
不意にどこか間の抜けた低い声が聞こえ、それまで思考の海に沈んでいたミハルドはびくりと肩を震わせた。
「っ、へい……!? ごほっ!」
嫌な気配がして声がした方を見れば、細く開けられた扉の向こうにライアンその人が居た。
にこにこと人好きのする笑みでこちらを見ており、食べていたものが喉奥のどこかへ入り込んで反射的に噎せる。
「ほら、水だ。……驚かせてすまない」
慌てつつも目の前に差し出された水をありがたく受け取り、ごくごくと流し込む。
「い、え……すぐに気付かなかった私に、非が……ありますので」
はぁ、と腹の奥から深く息を吐いて、努めて普段通りの口調で言った。
なぜかライアンの顔を見る度、幼少期の記憶が呼び起こされてしまうのだ。
孤児院へ向かう前は何もなかったが、まさか帰城した側近が主の顔をまともに見て話せなくなっているなど、この男は露ほども思っていないのだろう。
常からライアンはどこか抜けているところがあるからか、けれどそれ以上にこの想いまで自分の口で伝える自信は無い。
「……あの。何か、急ぎの用でもありましたか?」
このまま黙っているのも不自然な気がして、ミハルドは俯きがちのまま小さく唇を動かす。
ミハルドに用があれば国王付きの使用人が呼びに来るはずだが、ライアン自ら出向く事はほとんどなかった。
「いいや」
しかしライアンはミハルドの問いに首を横に振ると、淡い笑みを浮かべる。
まるで『お前個人に用がある』と言われている気がして、意図せずして小さく喉が鳴った。
「な、っ」
ならばなぜ、と言い出してしまいそうな唇を反射的に噛み締める。
余計なことを言って普段の軽口をいなす事も、また気の利いた言葉を今の己が言えるとはとても思えない。
「腹を空かせているのは分かってたんだが、何をしてるのかと思ってな」
「……見れば分かるかと」
テーブルにはミハルドの分、そしてアルトの分だった空の皿が置かれている。
旬の魚を使ったソテーは食欲を唆り、しかしいかんせん小さいので食べた気がしない。
先程でスープは飲み干してしまったため、メインディッシュである魚のソテーが少しと、バスケットに詰め込まれたパンが両手で数えられるほど残っているだけだ。
正直なところもう少し欲しい気もするが、あまり食べては翌日の職務に支障が出る。
しかしそれ以上にミハルドを居た堪れなくさせるのは、ライアンがさも愛しそうに声を掛けてきたからだった。
「ラジェルマから聞いたが、安心したよ」
「え、っ……?」
言葉の意図が分からず、ミハルドは軽く目を瞠る。
こうしてライアンの前で『だけ』無意識に瞳を開くのは最早お決まりで、それをおかしそうに笑うまでが常だった。
けれどこの時のライアンは普段とは違い、その表情が憂いを帯びているように見える。
「わざわざ部屋まで出向いた理由、気付いているか?」
「い、いえ」
緩く口角を上げて問われた言葉に、今度はミハルドが首を振る番だった。
「……そうか」
その仕草がおかしかったのかライアンは破顔し、やがて細く息を吐くと唇を開く。
「──そろそろ結婚した方がいいと思ってな」
「っ……は、い?」
ゆっくりと紡がれた言葉に、大きく肩が揺れる。
(ライアン様、が)
それはいつか来ると危惧していた事だった。
仮に来なくても周囲の高官が『王太子以外の世継ぎを』とせっつき、他の──それこそ年若い女を娶る事になると。
ライアンは五十を過ぎてから日が浅く、しかし同年代に比べればずっと壮健な人間だと思う。
毎日とはいかないながらも鍛錬を欠かさず、暇さえあれば騎士らの相手もするため、豪奢な衣服の下は鍛え抜かれている。
加えて眉目秀麗で誰に対しても柔らかな口調は、世の男女が放っておかないだろう。
そんなライアンの口から『結婚』という言葉が出るのは、いつか来ると分かっていた。
言葉の意味を理解していても尚、頭が追いつかないのはこの男を好いているからだろうか。
リネスト国は身分問わず同性との婚姻を認めており、それは王族とて例外ではない。
ただ、それはあくまで『正妃以外の』立場に収まる事を条件にしているのだ。
そもそも次期国王の立場だというのに、半ば無理矢理いち公爵の男との婚約を推し進めた王太子が例外中の例外だった。
もちろん建国された歴史の中で、同性を正妃とした王も存在する。
正当な血筋を貴方の代で壊す事になる──というのは古い考えの者達の言い分なのだが、他国の王女を正妃として据えるところをエルは断固として拒否した。
『私の決定に意を唱えるのは、陛下をも敵に回したと同義だ』
冷静な口調や瞳に、それまで騒々しかった古株の貴族らは震え上がった。
若き王太子の背後には国王が着いているとなると、正面切って否やとは言えないのだ。
そうした事情の中、仮定であってもアルトとの婚約が決定したのだが、そこからは実際のところあまり覚えていない。
水面下で婚約を推し進め、表に出さない程度に否を唱えた高官らを落ち着かせたのは自分とレオンハルトだ。
今でこそ王太子らの周囲に敵という敵はいないが、何かあれば自分は真っ先に動かなければならない。
現にエルは既に後継者を決めているも同然で、今は何も無くとも反発が起こるのは必至だ。
第二王子に収まっているケイトは、母親である第二王妃がつい最近ライアンだけでなくエルの反感を買い、既に離縁され故郷の城に幽閉されている。
それだけでなくとも、ケイトの容姿は奇異なため高官らの間であまりに心証がよくない。
そこで未だ壮健なライアンに改めて王女を、となるのも頷けるだろう。
「──何を考えているのか知らんが、他でもないお前に言っているんだぞ?」
「はい!?」
ふと聞こえたライアンの言葉に、それまで思考の海に沈んでいたミハルドは素っ頓狂な声を出す。
「な、俺……いえ、なぜ」
私が、と紡ぐ前にふっとライアンが淡く口角を上げた。
「昨年だったか、確か三十五を超えただろう。このまま一生一人で居るのもよくないと思ってな」
その表情が、声が、悪夢を見ているのかと思うほどだった。
普段と何ら変わらない軽口だと思う事も出来たが、今のミハルドには酷以外の何ものでもない。
「好いた相手がいれば話は別だが、お前ならすぐに相手が見つかるはずだ。こんなに綺麗で──」
そこから先をミハルドの耳は言葉として受け付けず、むしろ聞こえてくるのは雑音ばかりで、次第にこめかみが痛んでくる。
それはやがて目眩がするほど酷くなり、椅子に座っているというのに自分の重みをしっかりと支えられない。
なのにライアンは普段通りの口調で淡々と何かを言うばかりで、これが悪い夢であればいいと願わずにはいられない。
もちろん、仮に夢だったとしてもそれで己の溜飲が下がるとはとても思えないのだが。
(俺はずっと……ずっと、貴方が好きだったのに)
三十年という長い年月で、いつライアンを好きになったのかと問われれば曖昧だ。
初めて出会った時かもしれないし、ある程度の分別がつく頃だったかもしれない。
もしくはエルが生まれ、赤子を抱いて涙している横顔をほど近くで見た時からか。
ミハルドはきゅうと唇を噛み締めた。
好きになった過程がどうあれ、数々の『匂わせ』をしても時にはそういう事に誘ってみても、ライアンは頑として笑みを絶やさなかったのだ。
それだけでなく幼い子供にするように、まるで昔と同じ手つきで頭を撫でてくる始末だった。
そんな事が一度や二度続けばそこで止めればいいものを、頭のどこかで自分が眼中に無いことくらい理解していた。
ライアンが知らないふりをしている可能性もある、という一縷の望みを今の今までずっと抱いていたのだ。
(……俺はいつもこうだ)
ライアンに抱いている気持ちの一つすら言えず、むしろ相手から気付いて気持ちに答えて欲しいというのは我儘だろうか。
臆病な自分に一番腹が立つと同時に、自己憐憫に駆られた。
「……ライアン様」
「ん?」
そろりと名を呼ぶと、応えがすぐに返ってくるのはいつもと変わらない。
しかし今ばかりはそれが悲しくて、けれどミハルドは意を決して顔を上げる。
「っ、……」
優しげな青い瞳と間近で視線が交わり、とくんと心臓が小さく音を立てる。
吸い込まれそうなほどの色彩に魅入られるまま、気付けばミハルドはライアンの形のいいそれに口付けていた。
立ち上がった拍子に椅子と床が擦れ、やや耳障りな音を立てる。
唇から温かな熱が伝わり、周囲の音や自分の息遣いさえも聞こえなくなった。
「……ミハ、ルド?」
「っ」
やがてかすかな吐息と自分を呼ぶ声を感じ、ミハルドはそこで現実に引き戻された。
互いの睫毛が触れ合いそうな距離に加え、自分の起こした行動を瞬時に理解する。
「あ、っ……」
無意識だったのはもちろんのこと、普段よりもずっと近くにライアンの顔がある事実は、他でもないミハルドを冷静にさせた。
「ごめ、なさ……俺、っ」
堪らず半歩、次に一歩と距離を取るも、自分以外の体温と柔らかな唇の感触が蘇り、意図せず顔が熱くなる。
その温もりが唇から全身に広がっていき、これは紛れもない現実なのだと理解するのに時間は掛からなかった。
(こんな事、するはずじゃなかった。なかったんだ……!)
必死に頭の中で弁明しようにも、言葉にしないと伝わらないのは分かりきっている。
自室にある小さなテーブルには、ところ狭しと料理が並べられている。
その半分はアルトが食べるはずだったもので、ミハルドは一心不乱にそれらを口に詰め込んでいた。
普段は大柄な容姿に似合わず楚々としている国王の側近は、その実大食いだという一面を知る者はごく少ない。
普段からあまり人前で食べないのはもちろんだが、一度口に入れてしまえば最後、止まらなくなる時があるからだった。
しかし今回ばかりは腹が減っていたのは紛れもない事実で、こうでもしていないと想いが溢れてしまいそうなのだ。
(食べても食べても足りない)
旬のものをふんだんに使ったスープやメインディッシュの魚とは別に、二人分以上は優にありそうなパンがバスケットに入っていた。
給仕をする使用人に無理を言って、あるだけのパンを貰ってきたのだ。
『本当に一人で全部食べられるのか……? 俺が言うのもなんだが、あまり食べては……その』
ミハルドが一人で食べるとは思っていなかったようで、使用人──ラジェルマはかすかに目を瞠りながら言った。
時々顔を合わせる程度ではあるが、敬語を使わずに軽口を叩けるほど仲が良い人間の一人だと思う。
言葉の続きはなんとなく予想出来るが、すべて言わない辺りはこの男らしいと思ったものだ。
『構わない。今日は食べたい気分なんだ』
止めないでくれるのを有難いと思いつつ、やはり少しの罪悪感と羞恥心というものがある。
国王、それもその側近自ら厨房へ来る事はほとんどなかった。
けれど王太子だけは例外で、甘いものが好きなアルトのために、とエル自ら厨房に立って菓子を作っている。
今となってはエルが厨房に居ても咎める者はいないが、エル以外は基本的に滅多な事がない限り寄り付かないため、ほんの少し厨房内が騒がしかったのはしばらく思い出すだろう。
(ラジェルマや他の使用人に、今度何か奢らないと)
このパンも本来ならば余っていたもので、厨房に勤める使用人やメイドらの朝食になっていたものだ。
それを横から国王の側近が『すべてくれ』と言ってきたのだから、驚かないのも無理からぬ事だろう。
なんとも言えない気持ちになりながら、ミハルドはバスケットの中から適当にパンを摑む。
手に持つとかすかに温かく、焼き立てとはいかないが口に入れるとまだ柔らかくて、ふんわりとしている。
大口を開けて三口足らずで食べるとまた次、また次とパンに手を伸ばす。
合間にスープや魚を口に含み、しかしどれほど食べてもいつもより空腹感が満たされない。
その理由に心当たりはあるが、それでも尚知らないふりをして一心不乱に食べ物を口に詰め込むのは、この想いが外に出てしまうのが嫌だからだ。
それは何もライアンに対する感情だけではなく、得体の知れない恐怖がミハルドの心をじわじわと支配していくのだ。
その原因は時々、いや近頃頻繁に、幼い頃の夢を見るからだと思う。
それまではほとんど夢を見ないか、朝になれば忘れてしまう日々だったのだ。
しかし普段は頭の奥深くに閉じ込めている断片的な記憶が、夢を見た時だけ鮮明に呼び起こされてしまう。
疲れが関係しているのかと思い、無理を言って休みを貰い──ライアンは『もっと休んで欲しいくらいだ』と言っていたが──一日のほとんどを寝て過ごした時があった。
それでもあまり眠った気がせず、起きてから脳裏に蘇るのは怒りに身を任せた父の顔だった。
幼い頃、ミハルドは父や使用人に邪険に扱われるか、そこにはいない者と見なされ、時には理由を付けて殴られる事があったのだ。
父が手を上げたのは数え切れないほどあったが、幼いながら己の容姿が関係していると気付くきっかけになった。
けれど母だけがいつも味方でいてくれたのは、今でもはっきりと覚えている。
子供だった時ですら容姿に劣等感を抱き、いつしかあまり瞳を開かなくなった。
最初の頃は慣れない事が多くて苦労したが、元々視力と聴力が人より優れていたのは幸いだった。
やや薄目のまま物事をこなす練習をすると、やがて問題なく日常生活を送れるようになった。
それもこれも、すべては増悪を向けてくる父に微笑み掛けて欲しいから──幼い子供の考えそうなことだ、と今なら一笑に付すだろう。
なのに父は目を合わせるどころか、いっそうミハルドを避けるようになった。
さすがにレオンハルトには何もしなかったが、ミハルドと同じく目もくれず、赤子というのを抜きにしても微笑み掛けたところを見た事は終ぞ無かったように思う。
(あの人は俺やレオンハルトを……いや、母様だって邪険に扱っていた。それに)
「──よく食べるなぁ」
不意にどこか間の抜けた低い声が聞こえ、それまで思考の海に沈んでいたミハルドはびくりと肩を震わせた。
「っ、へい……!? ごほっ!」
嫌な気配がして声がした方を見れば、細く開けられた扉の向こうにライアンその人が居た。
にこにこと人好きのする笑みでこちらを見ており、食べていたものが喉奥のどこかへ入り込んで反射的に噎せる。
「ほら、水だ。……驚かせてすまない」
慌てつつも目の前に差し出された水をありがたく受け取り、ごくごくと流し込む。
「い、え……すぐに気付かなかった私に、非が……ありますので」
はぁ、と腹の奥から深く息を吐いて、努めて普段通りの口調で言った。
なぜかライアンの顔を見る度、幼少期の記憶が呼び起こされてしまうのだ。
孤児院へ向かう前は何もなかったが、まさか帰城した側近が主の顔をまともに見て話せなくなっているなど、この男は露ほども思っていないのだろう。
常からライアンはどこか抜けているところがあるからか、けれどそれ以上にこの想いまで自分の口で伝える自信は無い。
「……あの。何か、急ぎの用でもありましたか?」
このまま黙っているのも不自然な気がして、ミハルドは俯きがちのまま小さく唇を動かす。
ミハルドに用があれば国王付きの使用人が呼びに来るはずだが、ライアン自ら出向く事はほとんどなかった。
「いいや」
しかしライアンはミハルドの問いに首を横に振ると、淡い笑みを浮かべる。
まるで『お前個人に用がある』と言われている気がして、意図せずして小さく喉が鳴った。
「な、っ」
ならばなぜ、と言い出してしまいそうな唇を反射的に噛み締める。
余計なことを言って普段の軽口をいなす事も、また気の利いた言葉を今の己が言えるとはとても思えない。
「腹を空かせているのは分かってたんだが、何をしてるのかと思ってな」
「……見れば分かるかと」
テーブルにはミハルドの分、そしてアルトの分だった空の皿が置かれている。
旬の魚を使ったソテーは食欲を唆り、しかしいかんせん小さいので食べた気がしない。
先程でスープは飲み干してしまったため、メインディッシュである魚のソテーが少しと、バスケットに詰め込まれたパンが両手で数えられるほど残っているだけだ。
正直なところもう少し欲しい気もするが、あまり食べては翌日の職務に支障が出る。
しかしそれ以上にミハルドを居た堪れなくさせるのは、ライアンがさも愛しそうに声を掛けてきたからだった。
「ラジェルマから聞いたが、安心したよ」
「え、っ……?」
言葉の意図が分からず、ミハルドは軽く目を瞠る。
こうしてライアンの前で『だけ』無意識に瞳を開くのは最早お決まりで、それをおかしそうに笑うまでが常だった。
けれどこの時のライアンは普段とは違い、その表情が憂いを帯びているように見える。
「わざわざ部屋まで出向いた理由、気付いているか?」
「い、いえ」
緩く口角を上げて問われた言葉に、今度はミハルドが首を振る番だった。
「……そうか」
その仕草がおかしかったのかライアンは破顔し、やがて細く息を吐くと唇を開く。
「──そろそろ結婚した方がいいと思ってな」
「っ……は、い?」
ゆっくりと紡がれた言葉に、大きく肩が揺れる。
(ライアン様、が)
それはいつか来ると危惧していた事だった。
仮に来なくても周囲の高官が『王太子以外の世継ぎを』とせっつき、他の──それこそ年若い女を娶る事になると。
ライアンは五十を過ぎてから日が浅く、しかし同年代に比べればずっと壮健な人間だと思う。
毎日とはいかないながらも鍛錬を欠かさず、暇さえあれば騎士らの相手もするため、豪奢な衣服の下は鍛え抜かれている。
加えて眉目秀麗で誰に対しても柔らかな口調は、世の男女が放っておかないだろう。
そんなライアンの口から『結婚』という言葉が出るのは、いつか来ると分かっていた。
言葉の意味を理解していても尚、頭が追いつかないのはこの男を好いているからだろうか。
リネスト国は身分問わず同性との婚姻を認めており、それは王族とて例外ではない。
ただ、それはあくまで『正妃以外の』立場に収まる事を条件にしているのだ。
そもそも次期国王の立場だというのに、半ば無理矢理いち公爵の男との婚約を推し進めた王太子が例外中の例外だった。
もちろん建国された歴史の中で、同性を正妃とした王も存在する。
正当な血筋を貴方の代で壊す事になる──というのは古い考えの者達の言い分なのだが、他国の王女を正妃として据えるところをエルは断固として拒否した。
『私の決定に意を唱えるのは、陛下をも敵に回したと同義だ』
冷静な口調や瞳に、それまで騒々しかった古株の貴族らは震え上がった。
若き王太子の背後には国王が着いているとなると、正面切って否やとは言えないのだ。
そうした事情の中、仮定であってもアルトとの婚約が決定したのだが、そこからは実際のところあまり覚えていない。
水面下で婚約を推し進め、表に出さない程度に否を唱えた高官らを落ち着かせたのは自分とレオンハルトだ。
今でこそ王太子らの周囲に敵という敵はいないが、何かあれば自分は真っ先に動かなければならない。
現にエルは既に後継者を決めているも同然で、今は何も無くとも反発が起こるのは必至だ。
第二王子に収まっているケイトは、母親である第二王妃がつい最近ライアンだけでなくエルの反感を買い、既に離縁され故郷の城に幽閉されている。
それだけでなくとも、ケイトの容姿は奇異なため高官らの間であまりに心証がよくない。
そこで未だ壮健なライアンに改めて王女を、となるのも頷けるだろう。
「──何を考えているのか知らんが、他でもないお前に言っているんだぞ?」
「はい!?」
ふと聞こえたライアンの言葉に、それまで思考の海に沈んでいたミハルドは素っ頓狂な声を出す。
「な、俺……いえ、なぜ」
私が、と紡ぐ前にふっとライアンが淡く口角を上げた。
「昨年だったか、確か三十五を超えただろう。このまま一生一人で居るのもよくないと思ってな」
その表情が、声が、悪夢を見ているのかと思うほどだった。
普段と何ら変わらない軽口だと思う事も出来たが、今のミハルドには酷以外の何ものでもない。
「好いた相手がいれば話は別だが、お前ならすぐに相手が見つかるはずだ。こんなに綺麗で──」
そこから先をミハルドの耳は言葉として受け付けず、むしろ聞こえてくるのは雑音ばかりで、次第にこめかみが痛んでくる。
それはやがて目眩がするほど酷くなり、椅子に座っているというのに自分の重みをしっかりと支えられない。
なのにライアンは普段通りの口調で淡々と何かを言うばかりで、これが悪い夢であればいいと願わずにはいられない。
もちろん、仮に夢だったとしてもそれで己の溜飲が下がるとはとても思えないのだが。
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三十年という長い年月で、いつライアンを好きになったのかと問われれば曖昧だ。
初めて出会った時かもしれないし、ある程度の分別がつく頃だったかもしれない。
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ミハルドはきゅうと唇を噛み締めた。
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それだけでなく幼い子供にするように、まるで昔と同じ手つきで頭を撫でてくる始末だった。
そんな事が一度や二度続けばそこで止めればいいものを、頭のどこかで自分が眼中に無いことくらい理解していた。
ライアンが知らないふりをしている可能性もある、という一縷の望みを今の今までずっと抱いていたのだ。
(……俺はいつもこうだ)
ライアンに抱いている気持ちの一つすら言えず、むしろ相手から気付いて気持ちに答えて欲しいというのは我儘だろうか。
臆病な自分に一番腹が立つと同時に、自己憐憫に駆られた。
「……ライアン様」
「ん?」
そろりと名を呼ぶと、応えがすぐに返ってくるのはいつもと変わらない。
しかし今ばかりはそれが悲しくて、けれどミハルドは意を決して顔を上げる。
「っ、……」
優しげな青い瞳と間近で視線が交わり、とくんと心臓が小さく音を立てる。
吸い込まれそうなほどの色彩に魅入られるまま、気付けばミハルドはライアンの形のいいそれに口付けていた。
立ち上がった拍子に椅子と床が擦れ、やや耳障りな音を立てる。
唇から温かな熱が伝わり、周囲の音や自分の息遣いさえも聞こえなくなった。
「……ミハ、ルド?」
「っ」
やがてかすかな吐息と自分を呼ぶ声を感じ、ミハルドはそこで現実に引き戻された。
互いの睫毛が触れ合いそうな距離に加え、自分の起こした行動を瞬時に理解する。
「あ、っ……」
無意識だったのはもちろんのこと、普段よりもずっと近くにライアンの顔がある事実は、他でもないミハルドを冷静にさせた。
「ごめ、なさ……俺、っ」
堪らず半歩、次に一歩と距離を取るも、自分以外の体温と柔らかな唇の感触が蘇り、意図せず顔が熱くなる。
その温もりが唇から全身に広がっていき、これは紛れもない現実なのだと理解するのに時間は掛からなかった。
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