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9. 今世の私の日常は

69枚目 贈り物の道すがら

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 麗と郁を家の近くまで送り届けると、時刻は十六時前になっていた。

「この分だったら車で行くかなぁ」

 家に帰る道のりを歩きながら、千秋がぼやくように言う。

「え、別に明日でも良くない? 父の日まで時間はあるんだし」

 五月も後半に差し掛かっていた。
 数日前、「貴仁が帰ってくる」と百合から言われた日よりも二週間ほど早い。
 だから父の日まで三週間強の時間があった。

「明日は用事。しばらくは土曜も大学に行くから、ほとんど家にいないと思う。ま、夜になったら帰ってくるけど」
「そうなの? それ、母さんに言った?」
「勿論」

 それよりも、と千秋が少し高い声音で続ける。

「俺らに追い付くまで遅かったけど何を話してたんだ、二人は」

 二人というのは、葵と麗を指す。
 少し目尻の下がった表情からして、確実に葵の反応を楽しんでいる証だと言えた。

「な、何って色々よ、色々!」

 散歩する時、ゆっくり歩こうと言ったのは他でもない千秋からだが、曖昧に言ったとて遅くなった理由の言い訳にならないのは事実だ。

「色々、ねぇ。俺からしたら胸焼けするくらいの、甘ぁい言葉でも言い合ってると思ったんだがなぁ。いやぁ、それにしてもお熱いことで」

 甘い言葉と聞いた瞬間、頬が染まっていくのがわかった。

「おっと、図星か?」

 含み笑いをしながら、千秋が問い掛けてくる。

「ち、ちちち違うわよ!」
「にしては動揺してますけど?」

 にこにこと歌うように、さも楽しげな瞳で葵を見下ろす。
 前世で初めて会った時はわからなかったが、思い当たる節はある。
 緋龍にも、あれよあれよと言葉巧みに乗せられた事があったが、そこは腐っても本人だ。
 今世でも千秋は身内は勿論のこと、気に入った人間で遊ぶ癖があるらしい。

「それより出ちゃ駄目なオーラ漏れまくってるんだけど!? 兄さん、ちょっとは抑えて!」

 こうなっては誰にも止められないと分かっているから、葵は頭をフル回転させ、千秋の口を止める言葉を弾き出した。
 実際に昨日から、妖艶な色香を撒き散らしているのは事実なのだ。
 あまりこのままの状態が続けば、葵の思考がストップしてしまう。

「さて、なんの事やら」

 鼻歌を歌いながら千秋が先に歩き出す。
 そうして、葵は終始遊ばれつつ一度帰路に着いた。
 手早く髪をととのえ、小さなショルダーバッグを持って玄関に向かう。

 すると、これまた貴仁が居た。今日は部下の姿はなく、一人らしい。
 貴仁は葵の姿を見つけると、にこにこと駆け寄ってくる。

「ただいま、葵。誰かとお出掛けかい」
「デート」

 今にも花が飛び出してきそうな甘い声に、少しの不快感を覚えるつつ、すれ違うように呟く。

「成程、デートか。楽しんでおいで」

 そう言って、貴仁は手を振る。
 たっぷり一拍以上の沈黙は、葵に十分な時間を与えた。
 履き古した白いミュールをシューズボックスから出し、トントンと爪先を馴染ませる。

「じゃあ行ってきます」
「──は、デート!? おい待て葵、そこんところ詳し」

 その音で、声で、はたまた両方なのか。我に返った貴仁が、すぐさま葵を止めようとしてくる。
 しかし貴仁が言い終わるよりも早く、玄関の扉が閉まった。

「葵ーーーー!」

 扉一枚を隔てた向こうで、貴仁の悲痛な叫びだけがこだました。


 結局、千秋の運転する車で繁華街までやってきた。
 昔ながらの飲食店は勿論、最新のファッションや古着屋まで様々な店が建ち並んでいる。

「さて、何するかなぁ」

 車を近くの駐車場に止め、肩を並べて練り歩く。
 葵の目に映るものはどれも新鮮で、自分があまり賑わった場所へ来ない事を思わせた。

「定番だったらネクタイやお酒だけど、どっちも喜びそうよね」
「ただ喜ぶだけならいいんだけどな……」

 二人の間に、貴仁のデレにデレた顔が浮かぶと同時に、ハグや頬にキスをされるなどと過度なスキンシップを想像して、お互いに頭を振って思考を打ち消した。

「あ、兄さん」
「ん?」
「あれ、良さそうじゃない?」

 葵の目線の先には、ショーウィンドウに飾られた万年筆があった。
 定番のものは表面が漆黒の色をしているが、それはほんのりと茶色く透明な色をしている。
 傍にある値札には、プラチナ万年筆と書かれていた。

「ちょっと高くないか? ってかあの人が万年筆使うところなんか……あったわ」

 貴仁は外交官という仕事柄、海外赴任も多い。
 書類整理などで使っている文房具はボールペンとのことだが、最近新しくて性能も良いものを買おうかとぼやいているのを、それとなく百合から聞いていたのだ。

「ね、これにしましょうよ」
「お前もお前で思い切りがいいよな、良い事ではあるけど」

 苦笑しつつ、千秋は遠い目をする。
 商品の下の値段は一点物なのか、それともただ高級な店なのか、葵や千秋の思っていた値段よりも遥かに値が張っていたのだ。

「早く決めて帰ろうって言ったのは兄さんでしょ。どうして急ぐのかは分からないけど」

 繁華街までの道中、小さな声で「早いところ帰るか」と呟いていたのを葵は聞き逃さなかった。
 この後予定があるとは言っていなかったように思うが、急ぐ理由でもあるのだろうか。

「お前は知らなくていいよ。ま、せっかくだし入るか」
「わ」

 優しい手つきで頭を撫でられる。加えて千秋の微笑みは一枚の絵のようで、心臓が脈打った。

(って何よ、今日だけでどれだけドキドキしてるの!)

 葵は心の中で頭を抱える。
 昨日、千秋から前世の事を聞いてから自分はおかしいようだ。

 そんな妹に気付く事なく、千秋が店内に続くアンティーク調の扉を開ける。頭上にある鈴が、涼やかな音を奏でた。

「だからオーラが出過ぎなのよ」

 葵は小さく独り言ち、千秋の後に続いて店の扉をくぐる。
 店内には木の香りがただよい、知らずのうちに張り詰めていた心が少し落ち着いた。

「へぇ、色々あるなぁ」
「わぁ……綺麗」

 ショーウィンドウの外からでは分からなかったが、店内には何倍も美しい万年筆の数々が、ショーケースに納められている。
 そのどれもが高そうで、葵は知らずの内に尻込みしてしまう。

(お店の前にあったものより安いものもあるけど、私のお小遣いじゃ足りなさそうね)

 店に入ろうと言ったのは千秋だが、予算の都合もある。
 このまま購入に踏み切るとも考えにくく、何件か梯子する事になるだろう。
 それに、景観と同じくして客の一人もいない──所謂いわゆる閑古鳥が鳴いている、そんな店だった。

「おや、いらっしゃい。プレゼントかい?」

 その時、店の奥から眼鏡を掛けた初老の男性が姿を現した。
 にこにこと笑みを浮かべ、いかにも好々爺という雰囲気だ。

「そうですね、そろそろ父の日なので。お勧めってありますか?」

 この店の店主らしき人に、千秋は様々な万年筆に目を留めつつ問い掛ける。

「お父さんにか。好みにもよるが、これなんかどうだい」

 そう言って、店主は千秋の目線の先──螺鈿らでん細工の施された、青みのかった万年筆を指し示した。

「少し割高ではあるが、長く使ってくれたらこいつも喜ぶだろうね」

 店主がにこりと微笑すると、目元に笑い皺が刻まれた。
 眼鏡の奥にある瞳は前世、初めて会った時の緋龍と同じで。

「じゃあこれをください」

 ああ、やっぱりと葵は心の中で思う。
 元々が根っからの職人気質なのだろう千秋は、店主と一言二言交わしただけで即決した。

「おや、いいのかい? もう少し色々と見てからでも遅くはないと思うけどねぇ」
「これがいいんです。だって、貴方は俺の好きなをしているから」
「うん? よく分からないが……気に入ってくれたのなら良かった」

 葵が少しも口を挟む暇もなく、ものの数分で父の日にあげるプレゼントが決まった。
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