隠遁薬師は山に在り

あつき

文字の大きさ
上 下
6 / 32

手土産

しおりを挟む
 明けて翌朝、すぐに町を発った。
 薬師の家族は、食べ物を長持ちさせる薬草を織り込んだ、大きな袋を土産にくれた。これが満ちるほど大きな獲物を捕ったことがないと苦笑したが、出番はすぐに訪れた。
 隣の町から戻る道中、熊が出た。
 朝もやの中でその姿を見止めた時、みんな息を呑んだ。黒い塊が、街道をもそもそと歩いていた。成獣の雄。木の実か茸でも探すように、地に鼻をつけて、時折うごめかせている。独り立ちしたばかりで、まだ一匹での行動に慣れていないように見えた。
 仲間たちと見交わす。
 熊はいい金になる。危険だが、欲しい。ふらふら歩いて行商を邪魔されても困る。
 宿の人間は馬車に隠れるように言って、銃を扱える手練れの二人が、準備を始める。自分を含めた弓を持った者は少し前に出て、銃が使えるようになるまで鏃の先を熊に向けた。
 相手はこちらに気付いたようだが、ヒトを食料としては認識していないようだ。馬車の影が大きく、警戒している。
 熊の唸り声に、馬が狼狽えた。馬車が揺らめく。熊の顔つきが、馬を食料として見た。牙が見える。
 その時、どう、と音がして、熊が悲鳴を上げた。続いて、もう一度、どう、と轟く。銃声だった。
「打て」
 手練れの声がする。二発の鉛玉を受けた熊は怯えの色を消し、敵意を向けてくる。弦を引き、黒い獣の眉間へと矢を放つ。仲間たちの矢も、次々と射られてゆく。
 熊はこちらへ向かおうとしていたが、やがて血を吐いて倒れた。
「やった」
 喜びの声を、誰からともなく上げる。
「鈍間で良かったな」
 手練れの猟師が笑った。こんな大きな獲物は初めてだ。歳の近い物たちと見交わすと、皆嬉しそうにしていた。
「さあ、早く帰ろう」
 全員で協力して、熊を持ち上げる。重い。馬車の荷台に引きずり上げると、馬が血と肉食の獣の臭いを怖がって嘶いた。
 それを宿の御者が落ち着かせてから、出発した。
 村には昼過ぎに戻った。何人か、猟師仲間が迎えてくれた。思いがけない荷物にみんな驚いたが、解体を手伝ってくれた。
 猟師小屋では狭いから、外で肉と皮とを分けた。皮は毛皮屋の息子を呼んで、すぐ金に換えてもらった。仕留めた者たちでそれを分け、肉はそれぞれに必要なだけ切り分けると、あとは仲間や旅籠へ売ることにする。骨や内臓は使える者だけで分けることになり、自分は胆を貰い受けた。琉璃の顔が脳裏にちらついていた。熊の胆嚢は、良い薬の材料になる。
 家へ戻ると、アキがひょいと顔を出した。俺の顔を見ると、ぱっと顔を輝かせる。
「兄ぃ、ありがと! 旅籠の人が喜んでたよ」
「ああ、お前の報酬にもなったかい」
「そんなのないよ」
 笑いながら言って、アキは俺の携えた大きな荷物を持って目を丸くした。
「どうしたの、それ」
「帰り道の収穫だ。塩漬けにしておいてくれないか」
「うん、わかった」
 彼女には重すぎるから、自分が台所まで運ぶ。食べ物を入れた棚から、溢れてしまいそうだ。
「ねえ兄ぃ。母さんがお使いをしてほしいって。薬師のところに、行ってくれる?」
 アキは懐から、小さな帳面を出した。薬の種類が、いくつか書き付けられている。
「行くのはいいけど、会えるかはわからないよ」
「そっかあ。しばらく市が出ないから、無くなっちゃいそうなのよね」
 困ったように眉を寄せたアキから、帳面を受け取った。
「会えるようにするよ。……燻製にした肉、少し持って行っていいかい?」
「いいよ」
 切り分けてもらったシカの肉をもらって、山へと向かった。

 琉璃の庵からは、細く煙が上っていた。いるようだ。
「おおい、入っても良いか」
 厚い布の暖簾を叩くと、返事がない。そっと覗くと、囲炉裏の傍で、黙って何かをすり潰していた。
「いるんじゃないか」
「入られたら迷惑だ」
 仏頂面で不機嫌な声が返ってくる。相変わらずで笑ってしまう。
「用があって来たんだ。つれないことを言うな」
 構わずに上がり込んだ。持ってきた包みの一つを、琉璃の傍らに置く。
「これ、お前なら使えるだろ」
 琉璃は手を止めて、静かに包みを膝に乗せて、開いた。蝋を引いた油紙から、内臓が出てくる。生臭いにおいが漂った。琉璃は眉一つ動かさない。
「……熊の胆嚢か。なんだ、何か作ってほしいのか」
 見てすぐにわかるのか。感心しながら、首を横に振る。
「そうじゃない。俺たちじゃ持て余すから、使ってほしい。……それから、これも」
 ほら、とシカ肉の入った袋を渡す。
「……何のつもりだ」
 怪訝そうに俺の手元を見る。
「お前を抱いても硬くて仕方がなかった。少しは脂をつけろ」
 琉璃は露骨に嫌な顔をした。
「抱かせるための体じゃない」
「知っている。それにしたって痩せすぎだ」
 燻製のシカ肉を押し付けて、服の袷に入れていた帳面を取り出す。
「琉璃、薬も分けておくれ。傷薬と毒消しと、それから鼠取りが欲しい」
 ぶすっとした顔のまま、琉璃は手元の擂り鉢を足で退かし、肉の塊を囲炉裏の上に吊るした籠に入れた。そうして、俺から帳面を受け取ると、壁に作られた棚にずらりと並んだ行李をいくつか開けて、小箱を取り出した。
「傷薬だけこれから作る。待っておれ。入れ物はあるか」
 薬の入れ物は、紐のついた二枚貝の貝殻を使っている。すっかり底をついた殻を渡すと、琉璃はそれを小脇に置いた。彼は使い込んだ小鍋を取り出して、水瓶から水を入れた。囲炉裏に鍋をかけて、沸くまでに毒消しの湿布になる乾いた薬と、鼠取りの餌を作るための毒を、紙に包んで寄越してくれた。
 それから、深い陶器の皿を出してきて、湯が沸いた鍋の上に載せた。琉璃はそこに薄黄色の石のようなものを放り込む。じわじわと石は溶けだして、やがてどろりとした黄色の水になった。
「薬師の仕事を見るなんて初めてだ。それはなんだい」
 黄色の水に、琉璃はさらに透明な黄色の水を落としていく。さらに陶器の匙で、ゆっくりと混ぜる。
「……蜜蝋と椿の油だ」
「自分で採るのか、そういうのも」
「ああ。……蜂の巣は、たまにお前みたいな猟師が金の代わりに置いていく」
 蜜蝋を得るには、蜂の巣を取ってきて、砕いて煮なければならない。蜂の退治は、熊と同じくらい厄介だと、年かさの猟師仲間が言っていた。琉璃のような男では、手に入れるのも大変だろう。
 じいと手元を見ていると、琉璃はちらりと顔を上げた。そして、俺と目が合うと、少し眼を細くした。
「ケイ、お前の家族は?」
 彼から何かを問われるのは、初めてではないだろうか。少し面食らったが、口を開いた。
「母と妹だけだ。父は早くに死んだ。十五年ほど経つかな。妹が母の胎にいたころだ」
「……ほう。母君はご苦労されたと見る」
 琉璃の口から、誰かを労わる言葉が出てくるとは。
「そうみたいだ。俺もまだ五つかそこらだったしな」
 ゆるゆるとかき混ぜながら、琉璃は会話を続けた。
「……ケイは、いつから狩人になった?」
 彼とこんなに平和に話が続くのが、不思議だ。戸惑いながらも、自分のことを話す。
「十三だ。父の仲間が親切に教えてくれて、早く独り立ちできたよ」
「そうか。筋がいいんだな」
 褒められるのも初めてではないだろうか。
「琉璃の家族は?」
「いない。俺一人だ」
 そう答えた琉璃は、陶器の器を火からおろす。傍らの小箱から粉薬を出して、さらさらと器の中へ混ぜ込んでいった。
「寂しくないか」
 問うと、琉璃は馬鹿にしたように笑った。
「おれがそんな玉に見えるか」
「……見えんな」
 そうだろう、と笑いながら、琉璃は手を止めない。匙で器の中身が混ぜられると、黄色の中にうっすらと灰色の渦ができ、やがてきれいに混ざり合って、少し濁った黄色の薬になる。火から下されるとすぐに薬は固まり始め、出来上がるころには、自分が見慣れた軟膏になっていた。
 琉璃は手早く匙で薬を貝殻に移す。俺の手のひらほどの貝が黄色い薬で満ちると、ちょうど陶器も空になった。最後に琉璃は指で匙についた薬を集めて貝に盛ると、かちりと閉めて紐で巻いた。
「ほらよ」
 渡された薬は、ほんのりと温かかった。
「ありがとう」
 琉璃は沸かした湯に布をひたして、薬を作っていた器を磨き始める。愛想もなく、抱いた時は少し人間臭くも見えたものだが、薬師として生きる彼の横顔は、善いものとして自分の目に映った。
「琉璃、支払いは」
「それで十分だ」
 尋ねると、先ほど自分が渡した肉を指で示される。
「そうかい。十日くらいはもつからしっかり食ってくれ」
 琉璃は器とさじを拭き終わると、囲炉裏のふちに立てかけた。
「……十日じゃ食い切れん」
 俺なら三日で無くなる量だ。小食だろうと思って減らして持ってきたが、それでも食い切れないなど、想像もつかなかった。
「なあ琉璃、肉ももう少し食べた方がいい。お前の両親が浄土で心配していたら気の毒だ」
 血肉を作るのは、ほかの獣の血肉だ。琉璃はふんと鼻を鳴らす。
「そんな殊勝な親じゃない」
「だったら、村の者として頼む。健康でいてくれ」
 彼の薬は村の命綱だ。病気も怪我も、彼の薬が頼りになる。
 琉璃はうっすらと笑った。
「貰っても調薬に使うかもしれんぞ」
「構わない。味見でお前の口にも入ろう」
 それを聞くと、琉璃は小さく息を吐いて、俺が来たときに使っていた鉢を手元に寄せる。そして、また黙って薬のもとであろう乾物を擦り始めた。
「――琉璃、突然来たのにありがとう。また頼む」
 声をかけて立ち上がったが、彼はこちらを見もしない。彼らしくて、少しばかり笑いながら、庵の重い暖簾を持ち上げた。
 彼の羽織について見れば良かったと気づいたのは、山を下り始めた時だった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

最初に私を蔑ろにしたのは殿下の方でしょう?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14,093pt お気に入り:1,963

プレゼンターはテディベア

BL / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:5

グラティールの公爵令嬢

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:14,494pt お気に入り:3,343

今日もまた孤高のアルファを、こいねがう

BL / 完結 24h.ポイント:527pt お気に入り:157

1年後に離縁してほしいと言った旦那さまが離してくれません

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,330pt お気に入り:3,761

会長様を手に入れたい

BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:79

処理中です...