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「え……?」

彼の名を聞いた瞬間、忘れたはずの記憶が一斉に押し寄せ私に襲い掛かる。汗が噴き出し、脈拍が上がり、喉が渇いた。手が震えたせいでインクの瓶を倒してしまった。蓋を閉じておいてよかった。瓶を直しながら考えた。どうして。どうして……

「何故、私にお尋ねになるのですか?」
「誰よりもあなたが深い関係だったと知って」
「ええ。でも、だからこそ、私は……」
「探さなかったのですか?」
「ええ」
「居所を知っていたからでは?」
「いいえ」

眩暈がして執務机の椅子に座り込む。
来客中にあってはならない態度だとわかっていても仕方がなかった。執事は部屋の外で待つようにとマクミラン司祭が希望したために、彼は応じていた。私一人きりだった。

「エスター」

マクミラン司祭は私を名前で呼んだ。
神の使途であるマクミラン司祭からすれば、私が一時的な役職めいた呼び名で呼ばれている等どうでもいい事なのだ。私は只のエスター。捨てられた花嫁。

「エスター。大丈夫?」

思いがけずマクミラン司祭は優しかった。

「ええ。大丈夫です。申し訳ありません」
「辛い事を思い出させてしまいこちらも心苦しいのですが、急いで探さなくてはいけない事情があるので」

益々優しい声になったのはどうしてかと考えながら、自分が頭を抱えているのに気付いた。これでは心配してくださいと言っているようなものだ。しっかりしなくては。

「申し訳ありません」

無理にでも笑顔を浮かべ、顔を上げてみる。
案外うまくやれた気がする。

「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。身内には、誰も名前を口にする者がおりませんので」
「ではあなただけでなく誰も追わなかった?」
「いいえ。クリスは探そうとしてくれましたが」
「それはいつ?」
「当日です。結婚式の……」

当時の光景が鮮明に蘇り、私は過去へと引き戻されてしまった。
期待と興奮と幸福に胸を膨らませて座っていた控室の椅子。鏡に映る幸せそうな私。付添人のドレス姿で私にお祝いを言ってくれたミシェル。

それから、花婿の姿で私にさよならを言ったルシアン。

「エスター?」

マクミラン司祭の声には思いやりがあった。
私は目を閉じて今日に帰るよう努めたけれど、思い出の方が強く私を引き摺り込んでいく。出会った頃のルシアン、私に釣りを教えてくれたルシアン、そのせいで父に怒られたルシアン、私は庇って、彼との絆を感じた……あれが始まりだった。

「その男を思い出しているの?」

マクミラン司祭の声は穏やかで、まるでそれを促しているようでさえある。だから抗えた。私は誰ともルシアンとの思い出を分け合う気はなかった。

「ええ。久しぶりに名前を聞きましたので」

目を開けると、私を気遣うような表情で佇む美形すぎる司祭がそこにいた。私は若く美しすぎる司祭に事実を告げる。

「結婚式の当日に私が言いました。もう忘れたいから探さないで、皆も忘れてと」

軽やかなノックの音が緊迫感を打ち砕く。

「エスター。僕だ」
「クリスです」

私は即座に腰を上げ、マクミラン司祭の脇をすり抜け扉を開けた。
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