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1章 風と山と雲のとき

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息を潜め、周囲の風景に溶け込むように気配を消す。
 始めた当初は全く要領を得ず、獲物である鹿や猪に容易に逃げられていた義高だったが、数ヶ月もすると、元来の弓の名手の血筋が目覚めたのか、今では二百歩離れた猪の眉間を過たずに射貫く事が出来るようになっていた。
 大和の外れ、吉野の山奥に義高が預けられたのが、元和元年五月。
 世間の流れは京に鎌倉殿のご舎弟、範頼殿と義経殿が木曽義仲の軍勢を蹴散らし駐屯。勢力を盛り返した平家を一の谷で蹴散らした頃の事だ。
 武蔵国の街道で神獣に出会いそこで意識を無くした義高は、奥州と京を結ぶ商人の集団に、何故か三河で保護されここまで連れてこられた。
聞けば夜半に一人で道に倒れていたらしく、身なりが良く源氏の紋と見られる守り刀を握って離さなかった為、それを奇禍とした商人の棟梁に助けられたと言うことだ。
 商人達の棟梁は吉次と言い、奥州藤原氏と京の朝廷を、砂金と官位で結ぶという重鎮だが、義高はまだそこまでは知らない。
ただの行商人ではなかろうな、と思っているだけだ。
「ふむふむ、そうか童は木曽義仲殿の嫡男とな、それが意味するところがどんな事か判って話しおるのか?」
「無論です老公、私は紛れもなく義仲が一子義高、鎌倉殿にも京にも祟り神と毛嫌いされる父、義仲の嫡子です」
 神獣と出会って以来、体の芯に力が入りにくいと感じている義高だったが、無理に体に気合を入れ、吉次に言い切った。自身を救ってくれた吉次には真を告げなければと思っていたのだ。
 父が京で、何をしたか詳しくは知らない。
だが、鎌倉殿の、源氏の棟梁の軍勢に討伐されたのは事実である。
「そう卑下する事もないぞ童、お父上はまぁそれは残念な事であったが、確かな源家の将軍、一時は日が昇るようだと眩しく見ていた武士も多々おる」
「しかし、父は・・・・・・」
「そうさな、やりすぎた、だが鎌倉殿のやりようもまた、褒められたものではないの」
 吉次はそこでため息をつき、緊張と疲労で強張っている義高に柔らかい笑みを向ける。
 これが唯の田舎武士の息子であるだけならば騙されただろう。吉次の柔らかい笑顔にほだされて、頼りにする気持ちが湧き上がり、終にはその言に無二の信頼を置くことになっただろう。
 だが、義高は違った。
 木曽から鎌倉へ人質として送られた彼は、鎌倉殿の周囲に蠢く有象無象の輩を見ているのだ。
 信じられたのは木曽から一緒に来た友と、わが妻大姫の周囲だけだった。
 この吉次の様な笑みで、義高に鎌倉謀反を促してきた武士も一人や二人ではない。
 もし義高が同意でもしようものなら、即座に密告し首をはね、手柄を独占した事と思う。
 そしてその後、義高を密告した武士もいずれ滅ぼされてしまうのも義高にはわかっていた。それが鎌倉と言う場所で、鎌倉殿というお人だった。
 今振り返ればそうした有象無象の企みから、義高の妻である大姫は部屋から出ることなくその様な危険な機微を察知しあらゆる手段を使って、夫である義高を守ってくれていた。
義高にとって大姫は妻であるだけでなく、政略、謀略に於ける師の様なものでもあったのだ。
だから義高はこの吉次の笑顔にほだされる事無く、より一層心の防壁を厚くする事を心がけることにする。
「ありがたい仰せなれど、今は義高一身の身しかござらぬ、唯の流浪の武士であり、出来ることの一つもなし」
「おお、なんと気弱な、この吉次がおりますれば、童・・・・・・いや御曹司に流浪などさせませぬぞ」
 今までの童扱いから、いきなりの御曹司扱い。
 更に義高は警戒の度合いを増した。増したが、自らは語った通りに寄る辺なき流浪のただ人だ。ここで吉次に見放されたら野たれ死ぬか、鎌倉殿に首を撥ねられるか、良くても二度と大姫に会うことは出来なくなる。
 だから、義高は決意した。
 吉次の望みがあれば、それを叶え、其の上で、命を繋ぎわが妻に会おうと。
「その言葉、痛みいりまする」
 当たり障りのない事を言いつつ、吉次の思考を読む。
 なぜ、自分を鎌倉殿に突き出さないのか?
 突き出せば、少なくとも今後の商売には良い方向に働くのは間違いない。利に聡い商人がなぜそれをしないのか?もしくは朝廷でも良いだろう。木曽義仲の一子となれば都を荒らした田舎者の子供だ。首をねじ切りたい公家の一人もいるだろうに、なぜだろうか?
 そもそも、この吉次とは何者か?
 義高が、吉次の名をはじめて聞いたのは鎌倉だった。
その時の話を、必死に思い出す。
 名を聞いたのは、わが妻の大姫からだったと思う。
 大姫は体が弱い為に、外出する事もなく屋敷の奥に臥せっている事が多かったが、なぜか様々な話を知っていた。
 情報元はわが娘を心配して、度々やってくる政子様だったかもしれない。
 奥州藤原氏、源九朗義経殿、平重盛殿等などの話の中に吉次と言う名が確かにあった。
 源氏嫡流の義朝が常盤なる女性に産ませ、平治の乱で平家にて助命された義経殿を鞍馬山からもらいうけて奥州藤原氏に送り届けたのが吉次と聞いた。その話を聞いたときに義高が思ったのは平家のなんという甘さであろうかと言う事だった。源氏では親兄弟であろうと戦となれば一族郎党の命を奪い合うのが通例であるのにだ。義高の祖父も同じ源氏であり源義朝の息子である悪源太吉平に斬られている。
 吉次なる人物が、何故義経をかばい奥州まで逃がしたかについて大姫は
「わが父はそのころ蛭ヶ小島に幽閉されていまして、源氏の棟梁たる片鱗は見せていなかったと母より聞いておりました、ゆえに吉次殿は義経兄を保護して源氏の命脈を保ち、あわよくば、遥か遠く始皇帝を見出した商人宰相殿の様になりたいと思し召したのでしょうね」
 微かに頬に浮かぶ、やわらかい笑顔。吉次や義高を誑かそうとした武士とは違う、薄い感情が表情を自然と動かした透明な笑顔だった。
 その笑顔と言葉を思い出し、義高は想像する。
 義経殿に棟梁として立たせて立身出世を図った吉次殿であったが、案に相違して鎌倉殿が棟梁として立ってしまった。
 対抗馬であるわが父義仲も討たれ、このままでは目論見が外れてしまう。
 ならば将来の為に、同じ源氏内に義経派を形成するため、今は浮いてしまった義仲勢力を義高に糾合させ、義経に協力させようという腹か。
 商人は投資した相手をそうそう見限らないとも聞く。鎌倉殿亡き後の棟梁を義経に、ということなのだろう。
その時の義経に、木曽派と呼べる力があれば、と。
その様に義高は吉次の思惑を結論付けた。
 しかし、この時の義高は知らない。
 すでに吉次の中では、鎌倉殿亡き後の意味が違うことを。
 義経と頼朝の相克が始まりつつある事を、吉次は商人特有の嗅覚で感じていたのだ。
「して、この後、御曹司はどうなさるお積りで?」
 どうせ何もないのであろう?と笑顔の中の瞳が物語っている。
 思わず反発しそうになる義高だったが、ぐっとこらえ、思案をめぐらせる。
「そうですね、特に行かなければならない場所も今はなし、せめて義経殿に同道し平家討伐に功を挙げ、鎌倉殿の許しを請う方法は取れませんか?」
 案に、吉次殿ならば義経殿に会わせてくれる力をお持ちだろうと言う要求である。
 義高にしても、義経は会って損の無い人だ。会った事はないが、大姫の話から、会ってすぐに捕らえられて鎌倉に護送されるという事ないと思える。うまくすれば大姫の夫として鎌倉へ戻れる手立てを考えてくれるかもしれない。
「それは重畳、早速手配いたしましょう、義兄弟とは言え力を合わせて平家を倒せば、鎌倉殿の勘気も薄れましょう」
 これで決まった。
 義高は義経殿に会ったことはなかったが、鎌倉殿と比べ、表裏無き爽やかな心根と聞いている。
 父の汚名を雪ぎ、平家討伐にはせ参じたと言えば、快く迎えてくれるかも知れない。
 しかし、義高が想像した義経との面会は、すぐには実現しなかった。
 一つには義経が朝廷対策と平家討伐で忙しい事と、鎌倉殿に従順な範頼殿の影響だ。
 範頼殿は鎌倉殿から捕縛命令が出ている義高を同族であっても許さず、即座に捕まえようとするだろう。
 また、もし義経が義高を引見した上で同道したら、どのような讒言を鎌倉に送るかわからない。平家が西国で健在な内に、頼朝と義経の決定的な対立は避けたいところだ。
 その事を危惧した吉次は、草深い吉野の村に義高を預け、自らは京へと向かった。
 それから二ヶ月、吉次から何の連絡もなく義高は吉野とその周辺で、時を過ごしている。
 最初の数日は大人しくしていた義高だったが、まだまだ若い体だ。
 じっとしていることに耐えられず、弓を片手に狩に参加するようになり、同じ年くらいの狩を生業にしている家の少年少女と共に、獲物を追う日々を続けている。
 父に似ず白かった肌が自然に日に焼け、柔らかかった手も硬くなってきた。
 戦に連れて行くような馬が村に居なかった為、馬術は鍛えようが無かったが、弓術は獣相手の実践も含めかなり上達していった。
 もともと弓を射るのは上手だが、術として弓術を習得して居なかった村の狩人達は、義高に弓術を教わり、義高は狩人から獲物を射る方法、狙いは何処か、気配の消し方は、獣道の歩き方は、などを教わった。
義高は不意にこのまま村で過ごしても悪くないと思ってしまう時があったが、すぐに妻である大姫の薄い透明な笑顔を思い出して、頭を振る。
「義次殿、またこんな所で一人でおるのか?皆と一緒に獲物を食せば良いのに」
「ああ、これは華殿、気にしないでくれ、あまりにもここからの景色が雄大で」
 見渡すばかりの草原である坂東の景色と違い、吉野は伸ばせば手が届くほどの山々が雲を侍らせて静かに横たわっている。その姿は今の自身の境遇と合わせると、思わず眼頭が熱くなるほどだった。
 こんな空と山と雲の下を、一緒に大姫と歩ければ幸せだろうと考えてしまう。
「ふ~ん、あたしには唯の空と山だけどな、そんなことを言うなんて、やはり義次殿は都の出なのか?」
 華殿はこの村を統率する土豪、安田家の次女だ。土豪とは言え安田家は山奥で細々と狩猟を行い、毛皮などを奈良の寺社に運ぶことを生業にしており、水田を主とする他の村とは違って独立の気配が濃い。
 吉次から聞いた話では、興りは奈良大寺院の荘園武士から分家したらしい。しかし華殿の話だと、古代の奈良飛鳥宮から逃れた皇族の一人が山の民の娘と結ばれたのが、最初だそうだ。
 どちらが本当かわからないが、源氏一族の嫡流に近い自身も落ち延びてここにいる事から、華殿の話が嘘とも思わない。
 もしかしたら、遥かな過去にそんな事もあったかもしれないと、今の義高は思う。
「そう言えば、殿はやめろよ義次殿、これでもあたしは義次殿の守役だぞ?そ、それに女子でもあるし・・・・・・」
 安田家の当主である、安田家平がなぜ自分に華殿をつけたのか、その理由はわかる。
 名に平の字は入っていることから、安田家は平家と何らかの関わりがあるのだろうが、昨今落ち目の平家の状況を不安に思い、源氏との繋がりも欲しているのだ。
 それが木曽義仲の息子というのが不安でもあるだろうが、この身は鎌倉殿の婿でもあるのだ。
 吉次が話術鋭く説得すれば、そんな気分にもなるだろう。その事を華殿は知っているのだろうか?おそらく知っている。
つまり、そういう事だ。
「華殿だって、義次殿と呼ぶではないか、同じだ」
「そっそれは、義次殿・・・ってああ、だけど、よ、しつ・・・・・・あ~恥ずかしいじゃないか、この!」
 華殿が義高の背後でくるくると回ると、勢いをつけた様に背中を叩いて来る。
 大姫の様な優しい触り方ではなく、背中が赤くなりそうなほどの一撃だった。
「華殿・・・・・・」
 うじうじと考えても、仕方がないだろうと言われた気がした。
「どうせ義次・・・・・・殿はっ、あたしなど鄙の子女風情などと思っているのだろう?はしたないと」
 水干の端を華殿から握られる。夕日のせいで表情があまり見えない。
「いや華殿、そんな事はないぞ、私は誰かを卑下できる程の男ではないし」
「そうか?なら良かった」
 掴んでいた手を離さずに、華殿は義高の胸に飛び込んでくる。
 ざわりとした感触の布の向こうに、弾けそうな肉体の温かみがあった。温かさと共に華殿の匂いが鼻腔までのぼってくる。
「華・・・・・・殿・・・・・」
 脳髄に痺れるような甘さが駆け巡り、両手が自然に華殿を抱きしめようと動き出す。
「ごめん、義次・・・・・・殿」
「?」
「父上の命令で、あたしは義次殿に付きまとっていたんだ、んと、その、子を為せって、名前が義次じゃないってのもあたしは知ってたんだ」
「そうか・・・・・・」
 想像通りではあったが、やはり本人から聞かされると少し落ち込む。この時になっても義高は、好いているとか、子を為したいとかは意識していなかったが、自分が華殿に好意を持っていた事に気づく。
 寄る辺無き身で、頼りにするのは自分を利用して利を得ようとする老獪な商人のみ。華殿の父とは言っても、平家と繋がりのある安田家平殿は平家優勢になれば、待遇もどうなるかわからないのだ。
 首を取られ、晒される明日も無くは無い。
 そんな境遇の中で、わけ隔てなくこの村の子達は義高を扱ってくれた。生まれて初めて仲間を得た様な気分だったのだ。
 だが、そんな思い込みは今日で終わってしまうかもしれない。
 華殿はすべてを知っていた。偽名を使って仲間の振りをしていた自分の事を。
「謝るのはこちらの方だ華殿、私の本当の名は・・・・・・」
「言わなくていいっ!」
 両手で義高の胸を押し、距離を空ける。
「言わなくていいぞ、義次!言わなくていい、言ったら義次ではなくなってしまうじゃないか!」
「でもそれでは、私だけがずるいように思えてならない」
「うん、そうだ義次はずるいんだ、ずるい人だ、だからそれは義次への罰だ、だからあたしはずっと義次って呼ぶからな」
「華・・・・・・」
「そうだ、あたしは華だ、義次は義次だ、それで良いんだ!」
 華はそのまま踵を返すと走っていってしまう。
 夕日に染まりはじめた空に、涙を見せながら。
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