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第4章 来客
閑話
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「ああ、こんなことは初めてだ。臣下と茶など楽しんだことはなどなかった。人間の貴族社会も上下が厳しいものだと思っていたのだが、この邸は違うのだな」
満足げに茶をすするジェームズに、ジュナの冷静な声が返る。
「今日だけは無礼講だとグレイ様が仰いますので。この機にジェームズ様を囲み、つつき、フリージア様をさらった罪をより反省していただこうと」
「目的はそちらか」
ジェームズの目が窄む。
「ジュナ、ジェームズ様も悪気があってのことではないのだし、何もなかったのだからもう責めるのはやめましょう」
フリージアがたしなめるが、リッカも「いいえ」と冷たい目と声をジェームズに向けた。
「グレイ様とフリージア様には従いますが、私の心はまだ許していません」
「そなた、そんなに冷たかったか? ただのドジッ娘だと思っていたが、変わるものだな」
ジェームズが改めてまじまじと見れば、リッカはすっと目を細めた。
「主に危害を加えるものは例外です。すなわち、敵ですから」
フリージアもリッカがこれほどまでに豹変するとは思ってもいなかった。
意外ではあったが、やはり根底にあるのは真っ直ぐな心だ。
「うーん、いいな。やはりそなたがいい。フリージアは諦める代わりに番になれ」
リッカはもはや言葉で答えることすらせずに、首をかき切る仕草をした。
「クールだな。よし、時間をかけて口説くとしよう」
見かねたグレイが念を押す。
「フリージアだけでなく、うちの大事な使用人たちに無理に手を出すのも禁止ですよ。わかってますね?」
ジェームズは「もちろんだ、ははは」とわかっているのかわかっていないのか、楽しげに笑った。
「ところで。この邸にあれはおらんのか。ほれ、あの、ジュリアンナとかいうツンケンとした女だ」
グレイの名前すら覚えないジェームズだが、女性の名前はよく覚えているらしい。
だがグレイとフリージアは顔を見合わせ、困った顔になった。
「いえ、今はそのような名の者はいませんが」
「そうか。もうそれなりの年だろうからな、とっくに引退したか。それとも結婚して辞めたか?」
つまらなそうに、だがどこか探るようにジェームズが呟く。
「ジャームズ様が仰るジュリアンナとは、もしやハーピーでしたか? それなら私の叔母だと思いますが」
ジュナがそう答えれば、ジェームズは少々面食らったような顔をした。
「だがそなたは鳥だろう? ハーピーではなかったではないか」
確かにフリージアが読んでいた資料にも、ハーピーとは手足だけが鳥なのだと書かれていた。
「血が薄れたせいなのか、他の血が混じったせいなのかはわかりませんが、確かに私は鳥か人の姿にしかなりません。ですが母はハーピーの姿に変わっていましたから、叔母もそうだったのだと思います。私は会ったことがありませんが」
「そうか、なるほどな。やはり私を避けて逃げ出したまま邸には戻らなかったのだな? まったく、竜である私を怖くないなどと軽口を叩いておきながら、いざ求婚すれば尻込みしおって。私がどれだけ――」
ジェームズがぶつぶつとぼやいたが、ジュナは「いえ」と静かに答えた。
「叔母は私が生まれる前に亡くなったのです」
その言葉に、ジェームズが動きを止めた。
凍ってしまったように抜け落ちた表情で、ゆっくりとジュナを見る。
「病だったと聞きました。誰かに嫁ぐこともなく、叔母は独りでこの世を去ったそうです」
ジェームズはジュナを見つめたまま、何も言葉を発さなかった。
どれだけ時が経ったのか。
ジェームズはただ、「そうか」と小さく呟いた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
パラリ、と紙をめくる音だけが、静かな室内に響いていた。
部屋にはジュナとフリージア、それからジュリアンナの日記に目を落とすジェームズだけ。
「叔母は結婚もしておらず、子供もおりませんでしたから、遺品は私が受け継いでおりました。とは言え、日記ですからこれまで開いたこともありませんでしたが」
「あれは……、私がこの邸に来た時はもう、病に侵されていたのだな」
以前ジェームズが訪れたとき、ジュリアンナはまだ年若い娘だった。
あれこれとうるさく文句ばかりを言ってきたが、不思議とそれがまた楽しかった。
それに態度は悪いが悪意はまったく感じず、それどころかなんやかやと自ら世話を焼いてくれた。
そのうちジェームズがジュリアンナに冗談交じりに求婚すれば、「それはできない」とにべもなく答えたきり、態度が硬化した。
急によそよそしくなり、冷たくなった。
言い合いにもならない。
そのうち冗談が本気になり、何度求婚しても苦しそうに無理だと答えるだけで、そのうちジュリアンナは長い休みを取って邸を出てしまった。
ジュリアンナなら受け入れてくれる。そう思っていた。
正体を知っても、変わらず軽口を叩いていたくらいだったから。
だからこそジェームズは打ちのめされ、彼女が戻るのを待たずにこの邸を去った。
「休みだなどと言って、誰かと駆け落ちでもしたのかとも思った。それとも、それほど私の顔を見るのも嫌になったのかと思った。だが病のせいで、まともに立ち働くこともできなくなっていたからだったのだな。療養のつもりが……そのまま帰れなくなったのだな」
ジェームズの双眸からぼろりと涙が零れ落ちた。
これまでのように声をあげ、喚くこともなく、ただ静かに涙を零した。
ジュリアンナもまた、ジェームズに好意を抱いていたのだ。
だが、永い時をそばにいてくれる者を探しているジェームズにとって、病で先の長くないジュリアンナは悲しみを増やすだけ。そう考え、想いを隠したのだ。
「私以外の奴と幸せにしているところなど見たくなかった。だからすぐにこの邸を去ったし、気になってもあれこれ理由をつけて来るのを先延ばしにしていたのだ」
ジェームズは嗚咽を堪え切れぬように小さく吐き出した。
「最後までそばにいてやればよかった。断られてもしつこく後を追いかけてやればよかった。なぜあの時ばかりは、あんなにも臆病になってしまったのだろうな」
本当に好きだったから。
特別だったから。
だからこそ、想いが返されないことがあまりに辛かったのかもしれない。
「私は彼女にそばにいて欲しいと望みながら、ジュリアンナの最後のときを一人にしてしまった。まるで自分しか見えていなかったのだな。この世で最も愛した女を、寂しく一人で逝かせてしまった」
ジュナも、フリージアも、かける言葉が見つからないまま、ただそばにいることしかできなかった。
そこにコンコン、と軽いノックの音が響いた。
フリージアがそっとドアを開けて首を振ってみせたが、お茶をのせた盆を持ったリッカは中の様子をうかがい、つかつかと中に踏み入った。
「水分補給にどうぞ。干からびますから」
そう言って、お盆からカップをそっと持ち上げ、ゆっくりとテーブルに置いた。
成功した、と見守っていたフリージアもほっとした瞬間、ピキリ、とヒビが入りぱかりと割れた。
ばしゃりと零れたお茶はテーブルに広がり、ジュリアンナの日記はそれをみるみる吸い取った。
慌てて避けたものの、インクはあっという間にぼやけてしまった。
「あ!! ご、ごめんなさい! いえ、わざとじゃないんです! さすがにそこまで意地の悪い仕返しをしたりはしません! あの、大事な物を、申し訳ありません!」
慌てて布巾で拭いたが、紙とインクばかりはもうどうにもならない。
リッカは顔を青ざめさせていたが、ジェームズはぽかんと滲んだインクを見つめ、それから解けたように笑った。
「いや、気にしなくていい。想いを知れただけでよい。あれがもうどうにもならん過去になどこだわるなと言っているのだろう」
「で、でも、ジュナさんが受け継いだ大事な遺品ですのに……」
「まあ、血がつながっていると言っても会ったこともないしね。母は叔母のことは知っていたようだし、この日記はもう役目を果たしたのでしょう。だから気にすることはないわ、リッカ」
両者から気にするなと言われても、リッカの顔は晴れない。
そんなリッカに、ジェームズがにやりと笑った。
「では、お詫びに私とデートすればいい。そうしたら許してやろう」
リッカはキッと顔をあげて言った。
「そうやって弱みにつけ込むような人だから受け入れられないのです」
ジェームズが楽しそうに笑って、リッカは眉を寄せながらも少しだけ決まりが悪そうにお盆を抱えた。
「でも、そうやって次へ次へと進んでくれた方が、ジュリアンナさんも安心すると思います。私がお断りなのは変わりませんが」
「そうだな。まあ、私の時は永い。のんびり行くさ」
ジェームズは素直にそう頷いて、濡れた日記をそっと閉じた。
「これは私がもらってもいいか?」
そう聞いたジェームズに、ジュナは「はい」と微笑んで頷いた。
もう会えなくとも。
変わらない過去であっても。
それを大事に抱いていくことは決して後ろ向きではない。
その過去があるからこそ、また前に進んでいけるということもあるのだから。
満足げに茶をすするジェームズに、ジュナの冷静な声が返る。
「今日だけは無礼講だとグレイ様が仰いますので。この機にジェームズ様を囲み、つつき、フリージア様をさらった罪をより反省していただこうと」
「目的はそちらか」
ジェームズの目が窄む。
「ジュナ、ジェームズ様も悪気があってのことではないのだし、何もなかったのだからもう責めるのはやめましょう」
フリージアがたしなめるが、リッカも「いいえ」と冷たい目と声をジェームズに向けた。
「グレイ様とフリージア様には従いますが、私の心はまだ許していません」
「そなた、そんなに冷たかったか? ただのドジッ娘だと思っていたが、変わるものだな」
ジェームズが改めてまじまじと見れば、リッカはすっと目を細めた。
「主に危害を加えるものは例外です。すなわち、敵ですから」
フリージアもリッカがこれほどまでに豹変するとは思ってもいなかった。
意外ではあったが、やはり根底にあるのは真っ直ぐな心だ。
「うーん、いいな。やはりそなたがいい。フリージアは諦める代わりに番になれ」
リッカはもはや言葉で答えることすらせずに、首をかき切る仕草をした。
「クールだな。よし、時間をかけて口説くとしよう」
見かねたグレイが念を押す。
「フリージアだけでなく、うちの大事な使用人たちに無理に手を出すのも禁止ですよ。わかってますね?」
ジェームズは「もちろんだ、ははは」とわかっているのかわかっていないのか、楽しげに笑った。
「ところで。この邸にあれはおらんのか。ほれ、あの、ジュリアンナとかいうツンケンとした女だ」
グレイの名前すら覚えないジェームズだが、女性の名前はよく覚えているらしい。
だがグレイとフリージアは顔を見合わせ、困った顔になった。
「いえ、今はそのような名の者はいませんが」
「そうか。もうそれなりの年だろうからな、とっくに引退したか。それとも結婚して辞めたか?」
つまらなそうに、だがどこか探るようにジェームズが呟く。
「ジャームズ様が仰るジュリアンナとは、もしやハーピーでしたか? それなら私の叔母だと思いますが」
ジュナがそう答えれば、ジェームズは少々面食らったような顔をした。
「だがそなたは鳥だろう? ハーピーではなかったではないか」
確かにフリージアが読んでいた資料にも、ハーピーとは手足だけが鳥なのだと書かれていた。
「血が薄れたせいなのか、他の血が混じったせいなのかはわかりませんが、確かに私は鳥か人の姿にしかなりません。ですが母はハーピーの姿に変わっていましたから、叔母もそうだったのだと思います。私は会ったことがありませんが」
「そうか、なるほどな。やはり私を避けて逃げ出したまま邸には戻らなかったのだな? まったく、竜である私を怖くないなどと軽口を叩いておきながら、いざ求婚すれば尻込みしおって。私がどれだけ――」
ジェームズがぶつぶつとぼやいたが、ジュナは「いえ」と静かに答えた。
「叔母は私が生まれる前に亡くなったのです」
その言葉に、ジェームズが動きを止めた。
凍ってしまったように抜け落ちた表情で、ゆっくりとジュナを見る。
「病だったと聞きました。誰かに嫁ぐこともなく、叔母は独りでこの世を去ったそうです」
ジェームズはジュナを見つめたまま、何も言葉を発さなかった。
どれだけ時が経ったのか。
ジェームズはただ、「そうか」と小さく呟いた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
パラリ、と紙をめくる音だけが、静かな室内に響いていた。
部屋にはジュナとフリージア、それからジュリアンナの日記に目を落とすジェームズだけ。
「叔母は結婚もしておらず、子供もおりませんでしたから、遺品は私が受け継いでおりました。とは言え、日記ですからこれまで開いたこともありませんでしたが」
「あれは……、私がこの邸に来た時はもう、病に侵されていたのだな」
以前ジェームズが訪れたとき、ジュリアンナはまだ年若い娘だった。
あれこれとうるさく文句ばかりを言ってきたが、不思議とそれがまた楽しかった。
それに態度は悪いが悪意はまったく感じず、それどころかなんやかやと自ら世話を焼いてくれた。
そのうちジェームズがジュリアンナに冗談交じりに求婚すれば、「それはできない」とにべもなく答えたきり、態度が硬化した。
急によそよそしくなり、冷たくなった。
言い合いにもならない。
そのうち冗談が本気になり、何度求婚しても苦しそうに無理だと答えるだけで、そのうちジュリアンナは長い休みを取って邸を出てしまった。
ジュリアンナなら受け入れてくれる。そう思っていた。
正体を知っても、変わらず軽口を叩いていたくらいだったから。
だからこそジェームズは打ちのめされ、彼女が戻るのを待たずにこの邸を去った。
「休みだなどと言って、誰かと駆け落ちでもしたのかとも思った。それとも、それほど私の顔を見るのも嫌になったのかと思った。だが病のせいで、まともに立ち働くこともできなくなっていたからだったのだな。療養のつもりが……そのまま帰れなくなったのだな」
ジェームズの双眸からぼろりと涙が零れ落ちた。
これまでのように声をあげ、喚くこともなく、ただ静かに涙を零した。
ジュリアンナもまた、ジェームズに好意を抱いていたのだ。
だが、永い時をそばにいてくれる者を探しているジェームズにとって、病で先の長くないジュリアンナは悲しみを増やすだけ。そう考え、想いを隠したのだ。
「私以外の奴と幸せにしているところなど見たくなかった。だからすぐにこの邸を去ったし、気になってもあれこれ理由をつけて来るのを先延ばしにしていたのだ」
ジェームズは嗚咽を堪え切れぬように小さく吐き出した。
「最後までそばにいてやればよかった。断られてもしつこく後を追いかけてやればよかった。なぜあの時ばかりは、あんなにも臆病になってしまったのだろうな」
本当に好きだったから。
特別だったから。
だからこそ、想いが返されないことがあまりに辛かったのかもしれない。
「私は彼女にそばにいて欲しいと望みながら、ジュリアンナの最後のときを一人にしてしまった。まるで自分しか見えていなかったのだな。この世で最も愛した女を、寂しく一人で逝かせてしまった」
ジュナも、フリージアも、かける言葉が見つからないまま、ただそばにいることしかできなかった。
そこにコンコン、と軽いノックの音が響いた。
フリージアがそっとドアを開けて首を振ってみせたが、お茶をのせた盆を持ったリッカは中の様子をうかがい、つかつかと中に踏み入った。
「水分補給にどうぞ。干からびますから」
そう言って、お盆からカップをそっと持ち上げ、ゆっくりとテーブルに置いた。
成功した、と見守っていたフリージアもほっとした瞬間、ピキリ、とヒビが入りぱかりと割れた。
ばしゃりと零れたお茶はテーブルに広がり、ジュリアンナの日記はそれをみるみる吸い取った。
慌てて避けたものの、インクはあっという間にぼやけてしまった。
「あ!! ご、ごめんなさい! いえ、わざとじゃないんです! さすがにそこまで意地の悪い仕返しをしたりはしません! あの、大事な物を、申し訳ありません!」
慌てて布巾で拭いたが、紙とインクばかりはもうどうにもならない。
リッカは顔を青ざめさせていたが、ジェームズはぽかんと滲んだインクを見つめ、それから解けたように笑った。
「いや、気にしなくていい。想いを知れただけでよい。あれがもうどうにもならん過去になどこだわるなと言っているのだろう」
「で、でも、ジュナさんが受け継いだ大事な遺品ですのに……」
「まあ、血がつながっていると言っても会ったこともないしね。母は叔母のことは知っていたようだし、この日記はもう役目を果たしたのでしょう。だから気にすることはないわ、リッカ」
両者から気にするなと言われても、リッカの顔は晴れない。
そんなリッカに、ジェームズがにやりと笑った。
「では、お詫びに私とデートすればいい。そうしたら許してやろう」
リッカはキッと顔をあげて言った。
「そうやって弱みにつけ込むような人だから受け入れられないのです」
ジェームズが楽しそうに笑って、リッカは眉を寄せながらも少しだけ決まりが悪そうにお盆を抱えた。
「でも、そうやって次へ次へと進んでくれた方が、ジュリアンナさんも安心すると思います。私がお断りなのは変わりませんが」
「そうだな。まあ、私の時は永い。のんびり行くさ」
ジェームズは素直にそう頷いて、濡れた日記をそっと閉じた。
「これは私がもらってもいいか?」
そう聞いたジェームズに、ジュナは「はい」と微笑んで頷いた。
もう会えなくとも。
変わらない過去であっても。
それを大事に抱いていくことは決して後ろ向きではない。
その過去があるからこそ、また前に進んでいけるということもあるのだから。
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