美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第一章 定食屋で育って

過去

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 3人の男性は各々の携帯電話を出していじりはじめ、会話がなくなっていた。
 私は普段通り閉店作業をしているだけで、先程の衝撃的な話以外にナツさんの話は出ていない。

 人を、ひとり、殺しかけたーー。

 私の人生で、そんな犯罪めいた話は聞いたことがない。
 それに、あの穏やかなナツさんが人殺しなんて想像が付かない。

 けれど、今まで凄惨な事件が起きるとニュースに出てくるインタビューを受けた人たちが口々に言っていたのを思い出す。

『そんなことをする人だとはとても思えないような人で』『挨拶をしてくれる感じの良い人でした』

 ナツさんにはそんな過去があるのだろうか。
 でも、ああしてコーヒーショップの店長さんが出来ているくらいなんだから、犯罪者ではないのだろう。

 それに、私自身がナツさんは人を殺すような人だとはとても信じられなかった。
 そんな怖い人だったらここにいる3人もわざわざナツさんを頼ったりしないだろうし、これまでの言動を取ってみてもナツさんは優しかった。

 ただ、最後に私を拒絶した時に明らかに知られたくない過去に近付いた気配があって、もしかするとそれが……と思ってしまう。

 ナツさんがここにいる3人の話をした時に、私との距離感を間違えたと言ったのは……。

 そんな余計なことがぐるぐると頭を巡っていたら、店内で静かに携帯電話をいじっていた3人が「お会計お願いします」と声を上げる。
 どうやら、予定よりも早くお店を出ることにしたらしい。

「はーい」

 私は3人分の会計を済ませると、「ありがとうございました」と見送った。

「本当に美味しかったです」
「また来ます」

 そう言って出て行った3人は、その足でナツさんのお店に向かったようだ。

 私は今日、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと思う。
 人にはそれぞれ知られたくない過去や失敗があるものだけれど、そういうのとはまた次元が違う「前科」みたいなもの。

 そういうものを背負った人に会ったことがないから、私にはまだよく分からないけれど。
 ナツさんはこの町で新しい人生を歩み始めているのだから、それを妨害するようなことはしたくない。

 私はナツさんのことを知りたい。知った上で、一緒にいることができないだろうか。

 あの3人は、ナツさんの過去を知りながら一緒に仕事をしているに違いないし、ナツさんを頼っているようだった。

 ねえ、ナツさん。
 苦味の強い豆は、ミルクに合わせると甘みが増すじゃないですか。
 コーヒーは果実だからフルーティな酸味も魅力だって、今なら分かります。
 
 私は今のナツさんを知っているから、過去に何があったとしても、ナツさん自身を信じられると思うんです。

 どんな過去を語られたって、嫌いになったりしないのに。

  *

 ランチの営業は、相変わらず多忙だ。
 食事が終わると早々に店を出て、隣のコーヒーショップに向かう会社員も多い。

 1杯が決して安くないのに、よく買えるなあなんて思いながら。
 そういえば私にも、毎日あのコーヒーを飲みに行っていた日々があったのだ。

 今なら分かる。食というのは単純に空腹を満たすだけじゃなく、そこに体験や記憶、前向きになれる要素だったりが存在している。

 隣の店『The Coffee Shop Natsu』というのは、ナツさんのクリエイティブが詰まっていて、そういうものを体験できる場所なんだろう。単にコーヒーを飲むだけではなく、ナツさんのデザインしたカップやお薦めの豆があって、それが気持ちを上げたり刺激をくれたりする。

 1杯の値段は普通より高いかもしれないけれど、ナツさんが売っているのはコーヒーという液体だけではない。
 ナツさんが、前職を辞めてコーヒーショップの店長を始めた理由が分かった気がした。


 今週末、夏祭りがある。

 「定食まなべ」は店の前で鮭とばとエンガワの炙り焼を売りながらビールを販売することになった。なんというか、色気どこに置いてきたのだろうという品揃えが定食屋らしい。

 ナツさんのところでは、この日に限定のコーヒーフロートを出すらしい。祥太から聞いた。

 ああ、コーヒーフロートに合わせるアイスコーヒーって、どんな味なんだろうと気になってしまう。もしも今まで通り私がお店に通っていたら、ナツさんはそういうことも相談してくれたのだろうか。

 ナツさんと話をしなくなって、もう2ヶ月が経っている。
 今日くらい、お店にコーヒーを買いに行ってもいい頃かもしれない。
 会話は出来ないかもしれないけれど、ナツさんの元気な姿が見たかった。

 挨拶だけでも、できたらいい。
 隣同士なんだから、自然に……。

 そう思っていた私は、どれだけ自分が楽観的で何も考えていなかったのかを思い知らされることになる。
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