美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第一章 定食屋で育って

日曜日の朝

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 目が覚めると、見覚えのない床が目の前にある。
 ラグが敷かれていて、その上に寝転がっていた私は慌てて起き上がった。

「よー。よく寝たなあ」

 祥太の声でハッとする。そういえば、昨日私は祥太の家に来てナツさんと語っていたのだ。
 周囲を見回して、祥太の姿だけを目に入れる。

「ナツさんなら、始発で帰ったよ」
「うそっ。ちょっと、起こしてよ!」
「いや、別に起こすほどのことでもないと思って。どうせまた明日から利津とナツさんはお隣さん営業だろ」
「そうだけど……」

 まんまと寝過ごしてしまったのが恥ずかしいやら、昨日はついでにナツさんの連絡先を聞こうと思っていたのにと焦る。

「良かったな。これでもう、普通に話せるようになるだろ」
「……祥太のお陰か」
「そんなことないけど、まあ感謝させてやってもいいぜ」

 私は「ばーか」とだけ言って息を吐く。

「ナツさん、日葵さんが好きなんでしょ?」

 昨日寝付く前に聞こえた会話の続きを聞こうと思った。きっとあの話の続きは、そういうことだったのだ。

「さあな。多分、違うと思うけど」
「ええ……? 怪しさ満点」
「俺に聞くなって……。おい、まなべの朝定食ってねえの? 朝、定食が食べたい」

 明らかに話を逸らした。下手くそめ。もっと話題は無かったのか。

「いいけど、単に私がお店のキッチン使ってお店の材料で定食用意するだけの話だよ」
「ちょうど利津んち送ってくついでだから、よろしくー」

 図々しいなあ、と思ったけど祥太と私はこの位の関係でいい。
 お互いが図々しいことを言い合って、嫌だと思ったらそれを遠慮なく伝える間柄。だから私たちは長いこと一緒にいられている。

「まあ、いいけど。お父さんもしかしたら今日、お友達と早朝からゴルフかも」
「おじさんいねえの? うわあ、ちゃんと帰したか証明できないと恨まれる」
「平気でしょ」

 お父さんはあれで祥太のことを結構気に入っている。
 祥太の実家でお世話になったと伝えれば嫌な顔はしないはずだ。

 私たちは無言で朝の商店街を歩く。
 どのお店も開いていない中、コンビニだけが営業していた。
 視界に「定食まなべ」とナツさんのお店が見えてくると、随分遠くから帰って来た気分だ。

「ただいまー」

 お店の鍵を開けて中に入る。お店奥にある住宅の入口を開けてみると、お父さんは既に出掛けた後だった。

「やっぱりお父さん、いないや」
「そっか」

 祥太は店の席に着いてすっかり定食を待つ客状態だ。はいはい、と私は半ば諦めたようにキッチンに入る。
 鮭の塩焼きでもして、朝定食として出せば良いだろうと出汁とお米から準備を始める。

 暫くキッチンで支度をしていたら祥太が入って来た。

「何? 手伝いたくなった?」
「ああ、なんかやる」

 私は祥太に大根をすりおろしてもらおうと頼んだ。この仕事は手が大きい男性の方が向いている。
 祥太が大根をおろすシャリシャリという音がキッチンに響いた。

「利津の夢って、何?」
「え? 急に何」
「社会人辞めてここに戻って来て、将来どうなりたいとか」

 そういう意味かと納得して、将来か……と考える。
 長い間、考えたことが無かった。

「なんだろうな。夢とか、考えなくなってたかも。祥太はあるの?」
「あるよ、そりゃ」
「えっ意外」

 私が出汁を引き終わって味噌汁を作り始めると、祥太は大根おろしの手を止めた。

「可愛い奥さんがいて、俺は毎日美容室で働いてる」
「現実的な夢だね」
「毎日営業が終わると、奥さんがおかえりって抱きしめてくれんの。できれば犬も飼いたいな」

 祥太の夢が思った以上に控え目で、「明日にでも夢の通りになりそうじゃない?」と笑ってしまった。
 彼女を作らない割に、彼女がいなきゃ叶いそうにない夢だ。

「叶うと思う?」
「いや、祥太なら叶うでしょ」

 私はあおさの味噌汁に味噌を溶いていた。そろそろ鮭を焼こうと塩を振っていた鮭を目視する。

「大根おろし終わった」
「ああ、ありがと……」

 祥太は私の仕事をじっと見ていた。私はあんまり台所仕事を見られるのに慣れていなくて、祥太相手だというのになんだか緊張する。

「大人になるとさ、夢って見られなくなるよな」

 祥太は自分に言っているのか、私に言っているのか。
 私は確かに夢なんか見られない。現実を毎日やり過ごすのに精一杯で、できればこのまま何も考えずに終わって欲しいとすら願う。
 
 私はうまく返事すらできずに、約束通り鮭を焼いて焼鮭定食を仕上げた。

「鮭が旨そうだな」と喜ぶ祥太に、「うちの魚はそれなりにいいやつだから」と答える。こんな風に祥太と一緒にいるのは、いつぶりだろうか。

 小学校の頃は、当たり前のように毎日一緒にいた。中学校に入ると、やけにモテ始めた幼馴染の側にいることが攻撃対象になっていった。
 兄妹のようだった距離の近い私たちは、思春期の女の子から見ると異様で理解ができないものらしい。

 男女の幼馴染という人間関係は、属する組織の影響で形を変えなければならないのだと思い知ったけど、恐らく私がそんなことに悩んでいたことを祥太自身は知らない。祥太はいつだって、人から好かれてうまいこと生きていた。

 お盆に並べた鮭定食。
 祥太にも運んでもらい、店の席で向かい合う。

「いただきます!」
「……どうぞ」

 自分の料理というほどのものではないけれど、最初から全部私が準備した料理を他人に振舞うのは久しぶりだった。

「うま。ほんと利津の味噌汁って世界一」
「……立派なお世辞をどうも」

 褒められると、悪い気はしないな。
 そう思っていたら、店の電話が鳴った。
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