美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第一章 定食屋で育って

父と娘 2

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 病院の診察室は、扉に銀色のピカピカしたパイプのような大きな取手がついていて、それを握ってスライドさせる。
 すすーと音がして診察室が開くと、目の前に折り畳み式のベッドがあってお父さんが寝かされていた。

「お父さん!」

 私の声に、驚いたお父さんの顔がこっちを向く。

「おお、利津に祥太。遠かっただろ」

 あまりに普通の口調で、まるで何もなかったかのようにベッドから声をかけてくる。

「ああ、ご家族の方ですね?」

 白衣のお医者さんは、私にそう尋ねて診察室の椅子に座るように促した。
 レントゲンみたいな写真が裏側から光で照らされていて、脳の写真だと分かる。

「これが脳のCTです。特に問題は見られませんでした」

 それを聞いて、私と祥太が安心して胸を撫でおろす。とりあえず脳の病気ではないのだろうか。

「心電図から不整脈もなさそうでしたから、恐らく神経調節性失神でしょう」
「神経調整性失神……」
「年を取ると増える、割と件数の多い失神です。自律神経がうまく機能しないため起こるんです」

 年を取ると、と言われてしまうと返す言葉もない。お父さんはもうすぐ60歳で、老人ではないにしても、若くはない。

「治療や気を付けることはあるんでしょうか?」

 きっと、日常生活で気をつけなきゃいけないことがあるのだろう。

「薬物治療などはないんです。気を付けることは、今回のようなケースでまた失神が起きる可能性があるということ。ですから、これからは食後に失神が起きる可能性を意識した行動を取っていただかないとなりません」

 食後は、注意か……。普段は私がいるから大丈夫かな……。

「立ちっぱなしを避けていただきたいのと、急に倒れた時に周りにあるもので大けがをされるケースが多いということですかね」
「いや先生、私は立ち仕事なんですよ。しかも火や刃物や油を日常的に使うんですが」

 お父さんの言葉に、先生が詰まる。

「そういう方には、座りながらでも作業ができるようにしてもらったり、なるべく火や油の近くに行かないようにしていただいていますね」

 要するに、もうお父さんはキッチンで火や油の前には立たない方が良いのだ。
 次に急に倒れた時、火や油があると危険だということだろう。
 そして、立っている時間を減らすために、包丁を使う時は椅子に座っていなければならない。

「いや……いまさら座ってなんて……」
「お父さん、これからのやり方を考えなきゃダメでしょ?!」

 この状況でも普段通りに生活させてくれと言わんばかりで、私はつい大声が出た。

「もう、若くないんだよ。この先、また今日みたいなことが起きるかもしれないんだよ。お願いだから……」

 その後が続けられなくなった私の背中を、祥太がさすっている。
 お父さんはバツが悪そうに「ああそうか」とだけ放るように言った。

 これまで、私が甘え過ぎてきたせいだ。
 多分、そのせいでこんなことが起きたのだと思う。

 先生が「もう今日は普通に帰っていただいて大丈夫ですよ」と言ったので、お父さんはベッドからゆっくりと起き上がってゆっくりと立ち上がった。
 
 そのお父さんを祥太が支えていて、「祥太、ありがとな」と嬉しそうにしている。
 そうやって診察室を出ると、斉藤さんが焦ってこちらに駆け付けた。

 お父さんは斉藤さんの姿を見るや否や、頭を下げて「申し訳ない」と「ありがとうございます」を繰り返していた。
 斉藤さんは「何を言ってるんですか、気にしないでください」とだけ言うと、本当に良かった、と先程よりも砕けた表情を浮かべる。

「お陰様で、特に大きな病気が原因ということもありませんでした。自律神経の調整機能が衰えて? とかで、日常生活は気を付けなきゃいけないらしいんですけど」

 私が斉藤さんに説明すると、それは良かったと本当に喜んでいた。
 お父さんも案外、いい仲間が外にいるらしい。斉藤さんはお父さんの手をぐっと握ってから、「ゴルフは難しいのかな? でもまた食事でも行きましょう」と言って病院から去っていく。

 私たちは会計を待って待合スペースに座っていた。
 ふと「会計を待って」いることに焦る。検査もいくつかしているし、病院のお金って、結構高いんじゃなかったっけ……。お財布が心許ない。

 そうしているうちに名前が呼ばれて、どうしようと思っていたら財布を渡された。

「利津、お前が払うとこじゃない」

 ああ情けないな、とほんのり落ち込んで、その財布を持って会計に向かう。やっぱり検査項目が多くて3万円を超えていたから、私の財布ではお金が足りなかった。

 お父さんの黒い皮革の長財布には5万円程度は入っていて、初めて普段から現金を持ち歩いていたのだと分かった。
 もしかするとゴルフのために持って来たお金かもしれない。
 でも、この病院は現金しか使えなかったから助かった。

 私が会計をしていると、後ろの席で祥太とお父さんが話しているひそひそ声が聞こえてくる。
 お父さんがすまなかったなと祥太に言って、なに言ってんすかと祥太は笑った。
 お金をトレーに置いていると、「約束したじゃないですか。おじさんがいないときは、俺が利津を支えるって」と祥太の声が耳に届く。

 そこで私は今日の祥太の全てを悟った。
 祥太は、お父さんと約束をしていたのだ。頼りない私が、このままでもずっと生きて行けるように。
 お父さんはきっと、自分に何かあった時のことを考えて、祥太にそんな余計なことを言っていたのに違いない。

 腑に落ちた瞬間、でも誰を責めることもできないのだと小さく笑う。
 お父さんがいなければ路頭に迷いかねない私が、全ての原因だから。
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