美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第一章 定食屋で育って

美容室 前田 2

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 最初に霧吹きで髪が濡らされる。祥太は最初に髪を濡らしてからカットをして、その後で乾いた髪で全体を整える切り方をする。

 私の顔周りで、ハサミが細かく動く。
 軽快なハサミの音が続き、濡れた髪がクリーム色の床を黒くしていった。
 いつも思うけど、髪の毛って量が多いしすぐに伸びるし、私にとってなんの役に立つんだろう。

 祥太は言葉が少なくなって、鏡の中の私を真剣に見ている。
 集中すると、案外無口になるタイプだよなあとその顔を時々盗み見た。

「昨日、日葵さんに会ったよ」
「えっ?? マジで?」
「ナツさんの店に来てた」

 祥太は私の後ろで可動式の椅子に座って髪を切りながら、「何しに来たんだろうね」とだけ言った。

「なんか、仕事で近くに来てたみたい。お店でコーヒー飲んでバタバタと出て行ったから、本当に合間に立ち寄ったんじゃないかな」
「そうなんだ」

 思ったより祥太の反応が薄くて、何を考えてるんだろうと気になる。

「もしかして、祥太も会いたかった?」
「なんでだよ」
「ほら、そういう時は呼べよーってことなのかと」
「別に」

 私の髪に櫛を入れながら、眉ひとつ動かさない様子が何となく面白くない。
 日葵さんが店頭に立っていた時には、あんなに嬉しそうだったくせに。

「反応鈍いね。日葵さんみたいな綺麗な人、なかなかいないよ?」
「綺麗な人が嫌いなわけじゃないけど、別に日葵さんが好きなわけじゃない」

 祥太はそう言いながら私の前髪を前に降ろし、ハサミを入れ始めた。目の前に髪の毛が落ちてくるから、目を瞑らないわけにいかない。

 ーー好きなわけじゃない、かあ。なんだか意味深な言い方をしてくれる。
 
「それになんかさ、日葵さんの考えてることがよく分かんねえなあとか思って」
「日葵さんの考えてること?」
「なんつーか、振った男の周りをウロウロするとか、俺はちょっとそういうの怖い」

 祥太は相変わらず鏡の中の私を、髪型チェックのために見ている。左右のバランスを確認したり、後ろに回って長さを見たり。

「ナツさんのことを振った日葵さんが、またナツさんにアプローチしてるってこと??」

 私はナツさんと日葵さんの関係に詳しくない。恐らく祥太はその辺をナツさんから聞いているらしい。もったいぶらないで教えて欲しい。

「詳しいことは言えないけどさ。どういう神経してんだろとは思うよ」
「どういう神経……」
「その点、利津はちゃんとしてるって。安心していいから」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだけど」

 髪を切られている間、祥太とは鏡越しでしか目が合わない。
 だから、会話をしている間もどこか他人行儀な感じがするし、いつもよりも人として距離があるような感じがしてしまう。

 祥太の知っている事情と、私が目の前で見たナツさんと日葵さんの様子。
 振られたのがナツさんなら、日葵さんさえ良ければ復縁……なんてことになるのかもしれない。
 
「お店で話をしているナツさんと日葵さん、カップルみたいだったよ」
「ふうん、それで連絡が来たってことか。髪切りたくなるくらいの衝撃だったわけだ」

 祥太は納得しながら私の髪を切っている。
 私は図星すぎて反応に困った。「そんなんじゃないけど」と否定はしたものの、明らかに動揺している。

「いいよ、動機がそれでも。利津が髪を切りたくなるってのは、歓迎だから」

 祥太はそう言うと私の頭を両手でぐっと持って、顔が真っ直ぐになるようにした。鏡の中の私をじっと見て、髪型をチェックしている。
 前髪は、すっかり短くなっていた。

「美容室って、やっぱり定期的に来てなきゃダメだなあって思うんだけどね。この大きな鏡で自分を見ると、やっぱり日葵さんには程遠いなあって思ったりさ、現実を見せつけられる」

 私が苦笑いしていると、おばさん、つまり祥太のお母さんがじろりと私を見た。

「りっちゃん。誰と比べているのか知らないけど、綺麗の定義は人それぞれ、そして好みも千差万別でしょ」

 それはよく分かるけど、実際に日葵さんみたいな圧倒的な美人を目の前にすると、この世はなんて不公平なのだと思ってしまう。
 好みや価値観は人それぞれだと言うけれど、女に生まれた以上、美人は有利に生きられる。
 好きでもない人に言い寄られたりする苦労は絶えないんだろうけど。

「日葵さんは確かに美人の類だと思うけど、綺麗な人ってのは自分をよく分かってる人だと思うな」

 それは、身の程をということだろうか。
 それとも、日葵さんは自分が美人だとよく分かっているということだろうか。

「メイクや髪型は、自分の良いところを強調させたりするだろ」
「自分の、良いところ……」
「欠点のない顔なんてないけど、髪型とメイクで良いところを強調させればいい」
「祥太って、メイクも出来るんだっけ?」
「専門(※学校)でちょっとかじった程度だから、出来るとは言えないかな」

 私の髪に祥太の梳きバサミが入って行く。梳かれている間は髪が引っ張られるようなカット。ギギ―という振動が伝わって長い髪がハラハラと落ちる。
 どんどん髪は軽くなっていく。

「ねえ、今度さあ……メイク用品買いに行くの付き合ってくれないかな……」
「別に構わないけど、市販品のことほとんど知らないからなあ。化粧品カウンター行った方が良い気がするけど」
「だってそれだとさあ、売りたいもの買わされそうじゃん……」
「じゃあ、メイク紹介動画とかで勉強した方が良い気がする」

 祥太の言いたいことは分かる。メイク紹介動画だって、観たことが無いわけじゃない。でも、あれを観ても自分に似合いそうだと思えないからこうなっているわけだ。

 結局、自分で何とかしろってことなのだろう。久しぶりに頼ろうと思えば冷たいなと、私は祥太に期待するのはやめた。
 
 髪にドライヤーが当てられている。さっき受付をしてくれた女の子が一緒にブローに入ってくれた。祥太と2人がかりで私の髪が乾かされていく。

「軽くなりましたね」

 彼女はそう言って、少なくなった私の髪をくるくると巻くように乾かしていた。

 単にドライヤーで乾かされただけだったけど、随分印象が変わっていた。
 祥太は乾いた髪を丁寧に確認しながらハサミを入れている。

「メイク道具、専門の時のやつが一式残ってるから、実験してみる?」
「実験?」
「久しぶりだし上手くできるか自信ないけど、俺、メイク得意だった」
「大丈夫?」
「知らん」

 祥太は無責任に言ったけど、協力してくれるなら客観的な意見が聞けるかもしれない。

「どうよ、これで。試しにコテ当ててみる?」

 そんな話をしていたところで、もうカットは終わっていた。
 私が頷くと、祥太は手のひらにスタイリング剤なのかトリートメントなのかを手に取って私の髪の内側から馴染ませる。

 いつも思うけど、美容室って場所は客と美容師の距離が近い。
 パーソナルスペースに入られるのを了承しなければいけないから、生理的に受け付けない相手だと髪を切られるだけの行為すら苦痛だろう。
 ってことは、美容師って女性から生理的に無理だと思われたら成り立たないのだろうか。

 祥太は店の道具が乗ったワゴンからヘアアイロンを持ってきて、そのコードを解きながらコンセントを入れて私の後ろに立った。

「うん、いんじゃね?」
「何が」
「似合う」
「そうですか」

 素直に喜ぶことができず、鏡の中の自分と見つめ合う。
 さっきに比べたら、ぐっと垢ぬけた感じはする。
 祥太は手元でヘアアイロンの温度を軽く確認すると、私の髪にヘアアイロンを滑らせていった。

「アイロン、そうやって綺麗に滑らせるの難しいよね」
「そうか? まあ、摩擦で刺激を与えちゃうと一気に痛むからなあ」

 私がヘアアイロンを使って同じようなことをすると、髪から「ザラ」と嫌な音がすることがある。多分、あれが摩擦で刺激を与えるというやつだ。

 アイロンが通されると、私の髪に艶が出た。いつか祥太に綺麗な髪に憧れると話した時、そんなのは表面上だけ取り繕っている場合が多いからヘアアイロンを使いこなせと言われたのを思い出す。

 毛先だけを巻いて外ハネになった私の髪は、さっきまでの重さなど無かったように動きを得ていた。これを自分で再現出来たら最高なんだけど。

 私にとって祥太はやっぱり兄弟の類で、だけど誰よりも信頼できるのは間違いがない。
 スタイリングを終えて別人になった私は、祥太と2人で受付に歩いた。会計をしている間、祥太はずっと乾かし方だとかスタイリングの方法なんかを教えてくれる。

「じゃあ、メイクのことはまた。今日はサンキューな」
「こちらこそ、いつもありがとう」

 祥太が店の外まで出て、私が見えなくなるところまで立っていてくれた。

 こっちを見ているひょろっと細長い男性の影。
 女として自信のないところを幼馴染に相談できるなんて。
 私の幼馴染が祥太で良かった。

 商店街の端っこに、『定食屋まなべ』が見える。
 昭和レトロで古くても味のある『美容室 前田』に比べて、ただただ時間の経った家のような店。

 これから夜の営業が始まる前に、折角だからテイクアウトのコーヒーを買おう。

 湿気を帯びた町の空気に、私はコーヒーショップのアイスコーヒーを混ぜることに決めた。
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