美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第二章 夢なんかみなくても

江の島 2

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 そんな真樹ちゃんが飽きるまで展望台にいると、昼時を逃してしまいそうになる。俺も真樹ちゃんも普段から昼が遅めで、全然気付いていなかった。

「祥太さん、お昼は何の気分?」
「江の島だからシラスじゃない?」
「江の島ってシラスが有名?」
「うん。生シラスとか」

 展望台を降りて、江島神社参道にある食堂に入る。まだ生シラスを食べられる季節らしく、真樹ちゃんも俺も生シラス丼を注文した。
 お店は特に洒落てもいないけど、普通の食堂で利津の家を思い出す。
 やっぱり、こういう素朴な家みたいな店に入るとホッとした。

「ねえ、祥太さん。今日、楽しいね?」

 不意に真樹ちゃんは言った。さっきの様子からして楽しそうなのは伝わって来たけど、こうやって改めて言われると来て良かったなと思う。

「やっぱり人生には旅が必要だ」
「ナニソレ、誰の言葉?」
「坂井祥太」
「あんたかい」
「でも、松尾芭蕉も人生は旅って」

 真樹ちゃんは自分で聞いたくせに、俺が松尾芭蕉の名前を出した頃には話を聞いていなかった。ぼーっと店内を眺めながら、昼時を過ぎても忙しく働く店員さんをじっと見ている。

「うちの近所にさあ、まあ同じ商店街の並びなんだけど、ここに似たような定食屋があって。そこの一人娘と幼馴染だったりするんだ」
「へえ、幼馴染ってどんな感じ?」
「まあ、兄妹っていうか」

 そこで、俺と真樹ちゃんのシラス丼が到着した。生シラスにショウガが乗ったシンプルな丼もの。キラキラした銀色の小さな魚が、とびきりのご馳走に見える。

「で? その定食屋が?」
「ああ、その定食屋は、幼馴染のお父さんがやってるんだけど、この間、おじさん倒れちゃってさ」
「うわ……そっか、じゃあお店がなくなっちゃうの?」
「幼馴染はね、そうするしかないって言ってるんだけど」

 俺と真樹ちゃんは醤油をかけて早速シラス丼をほおばる。会話の最中だったけど「わあ、おいしー」と声が上がるとほっとする。
 今日の真樹ちゃんは素なのか、本当に昨日の真樹ちゃんと同一人物だろうかとすら思う。

「その幼馴染の意見に、祥太さんは反対?」
「うん。幼馴染はその店を手伝っててね。1回社会に出てるんだけど、人間関係で躓いて結局家に戻って来てる奴で」
「店をやめたら、働き先が心配とか?」

 真樹ちゃんは順調に生シラス丼を減らしながら、利津のことに興味津々だ。
 改めて聞かれると、つい先日の利津を思い出す。

「働き先っていうか、居場所がなくなるのが心配で。おばさんは小さい頃亡くなってて、おじさんの男手ひとつで育ってるんだよね」
「ああ、そういう……」
「でも、俺が心配したら憐れみだって言われて。今までそんなこと言われたことなかったから、それなりにショックだったかな」

 最後に話した時の利津は、ハッキリと俺のことを拒絶した。
 確かに俺は利津のことを同情みたいな目で見ていた自覚はあるけど、未だに納得できないところはある。

「まあ、かわいそうって思われてるなとか、言われるのって結構きついからね」

 真樹ちゃんはボソリと言った。目の前の女の子は同性から見ても恐らくかなりかわいい部類で、そんな彼女からかわいそうという言葉が出るのは違和感があった。真樹ちゃんでも、憐れまれて嫌な気分になったことがあるのだろうか。

「まあ、そんなわけで兄妹喧嘩? みたいな状態になってる」
「祥太さんみたいな人でも、喧嘩するんだね」
「するよ。気心が知れてる分、お互い容赦ないしね」

 なるほど、と言いながら真樹ちゃんは食事を進める。「はあ、久しぶりにこんなにおいしいもの食べたなあ」と完食したのを見た時に、昨日の飲み会の時に真樹ちゃんは積極的に食事をとっていなかったかもしれないと思い出す。

「うちの店、体型変化に厳しくてね。そういうの意識してたら食事が楽しくなくなっちゃって」
「うわ、もしかして体重チェックとかある店?」
「流石にないよ。昔はあったらしいけど」

 アパレルはそういうのもあるんだなあと、不意に服を買った店を思い出した。
 確かに店員さんってお洒落なイメージはあるけど、そのために体型を気にしていなければならないなんて。いや、でも友基なんかもインストラクターとしてのプロ意識で常に体型気にしてた。俺は節制とか苦手だから尊敬する。

「食べることが楽しいって、こんなに幸せなんだなあ……人生損してる気がする」
「ほんとだね。毎食美味しくご飯を食べて、お風呂に浸かってゆっくり寝られる幸せって、大人になってみると意識してようやく手に入るものなんだって気付いたけど」

 お互いに空になったどんぶりを前に、そんな話をしていた。
 真樹ちゃんは「なんか変な日」と笑うと、提供されたお茶をすする。

「日本茶の実家感。あー私も日本人なんだなあ」
「俺はコーヒーが飲みたい」
「コーヒー好きなの?」
「ん。コーヒーショップの店長が結構好き」
「よく分かんないけど、なんか分かる」

 その後、何となく俺たちは黙っていた。
 一緒に店を出ると当たり前のように真樹ちゃんは俺の腕にしがみつく。
 それが普通になりつつあって、別に気にもならなくなった。

 フィクションの関係で始まった俺と真樹ちゃんは、いつの間にかその辺のカップルよりも自然に触れ合ってはしゃいでいた。
 真樹ちゃんは男と付き合う気が無いと宣言していたから、これも割り切った関係なのかもしれない。

 時折強風が真樹ちゃんの髪を揺らす。
 カラーやパーマが、何か月前に行われたかはすぐに分かる。
 美容師相手に本気にならないと言い切ったのは、予防線のようなものなのだろうか。

 何も始まっていない関係だけど、一緒に寝て一緒に食事をして一緒に歩いている。
 俺はこの女の子が「相良真樹」という名前だということと、勤めているアパレルのお店以外のことは何も知らない。
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