美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第二章 夢なんかみなくても

海を眺めて 1

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 まだ午後3時半を過ぎたところだった。
 俺たちは近くのコーヒーショップで買ったコーヒーを持って歩いている。

 あと2~3時間滞在したら帰ろうと思いながらも、どう過ごすか迷っていた。

 もう夏も終わりだ。日は短くなっていてきっと夕方以降の海辺は冷えるけど……夕陽は綺麗なんだろう。

 こんなことなら最初の店で一緒に羽織ものでも買っておけばよかったかなと薄着の真樹ちゃんを見ながら思う。

 もうすぐこの時間が終わる。この関係も全て終わって、それぞれの日常に戻って行ったら……もう、お互い関わることも無くなるのだろう。

「祥太さん、どうする?」
「夕陽だけ見て、帰ろうか」
「……そだね」

 海が見える場所で何となく腰を下ろして、2人でくっついて海をみていた。
 彼女じゃない子とこんな風に過ごして、そしてもうすぐ全部が終わる。

「昨日から、人生で起こってこなかったようなことがずっと起きてたなあ」

 カモメが飛んでいる。風はやっぱり強い。江の島の海は真っ青ではなかったけれど、都会からこんなに近いのにちゃんと自然だった。

「祥太さん、今も……私の顔が理由でここにいる?」
「まさか」

 なんで真樹ちゃんと一緒にいるかを深く聞かれると、実はよく分からない。
 だけど、もう顔がどうとか見た目がどうとかは関係がなかった。

「ありがとう。私の我儘に付き合ってくれて」
「うん」

 ポツリポツリと終わりの言葉が紡がれていく。真樹ちゃんは、祥太さんは優しいねと何度も言った。その度に俺は、憐れんで一緒にいたわけじゃないよと笑った。

 なんで彼氏欲しくないのに合コンに来てたのか尋ねたら、祥太さんこそでしょと突っ込まれた。
 
 俺は単に剛にはめられただけだからと説明したけど、真樹ちゃんは「でも今までも同じようなことがあったわけだから、予想してなかったわけじゃないんでしょ?」と何かを知っているような口ぶりで言った。

 真樹ちゃんはいわゆる体育座りをして、小さな背中で海をじっと見つめて波の音を聴いている。シャツワンピースにスリムタイプのジーンズを履いたカジュアルな格好が、砂浜の背景によく映えた。

 俺は親指と人差し指で直角のLを作ると、両手で画角にして真樹ちゃんを捉える。

「なにそれ?」
「画になるなと思って」

 昨日からずっと、真樹ちゃんは写真に残したくなるような子だった。
 だけど一度も携帯電話で写真を撮ったりはせず、真樹ちゃんの記録が残っているのは記憶の中だけだ。

「海を見てると、泣きたくなるね」
「波の音が、ちょっとね」

 母親の胎内が波の音に似ていると言ったのは誰だったか。今なら、それがちょっと分かる。何故だか懐かしくてここから来たような気がして、そのまま還って行けそうな音がする。

「なんで今、生きてるんだろうね」
「哲学的な意味で?」
「消えちゃいたいなあって、何度も思ってるのに」

 真樹ちゃんは、目を離したら本当に消えてしまいそうだと思った。
 この子の中にあるものは、海のように底が見えない。
 それを掘り出してしまうと大きな傷をつけてしまうのが分かって、あえて見えない振りをした。

「私ね、学生時代、彼氏に……」
「いや、無理して言わなくて良いよ」
「……ここまで来たら言わせてよ」

 真樹ちゃんは何かの覚悟を決めたように、俺に話をした。

「2万で売られたの」
「……それって」
「先輩にさ、言われたんだって。お前の彼女の顔が好みだから貸せよって」
「は……?」

 耳を疑った。冗談でそういうことを言うやつは確かにいる。
 でも、それを行動に起こした話は聞いたことがない。少なくとも、そんな下衆た話は身の回りで起きたことはなかった。

「普通にさ、いつも通り彼の家に呼ばれて。私もその頃は健気だったから、コンビニで差し入れなんか買って、一人暮らしの家に行くじゃない? そしたらさ、2回位しか会ったこと無い彼氏の先輩が出てきてさあ。部屋間違えたかと思って焦ってるうちに、訳も分からず」

 学生時代、ということはほんの数年前のことだ。まだ新卒の真樹ちゃんは卒業してから1年も経過していないはずで、割と最近のことなのかもしれない。

「ずっと彼氏の名前をね、呼んだの。だってよく見るとやっぱりそこは彼の家じゃない? きっとどこかから帰って来て、助けてくれるって思って」

 この話は、一番最悪な結果になる。それが分かって、俺は言葉が出ない。

「そしたら先輩が言ったわけ。お前あいつに売られてんのに何言ってんの、って。来るわけないから、結局お前はあいつにとってそんなもんだからって。万札2枚の価値で叫んでんなよってすごい笑ってて」
「なんだよそれ」

 胸糞悪い、というのはこういう時に使う言葉なんだ。
 真樹ちゃんが何をしたんだと、そいつに突っかかって行くことも後悔させることも、俺にはできない。

「最悪でしょ。一番惨めなのはさ、その瞬間まで付き合ってた男がそんな屑だと知らなくてずっと信じて好きだった自分。コンビニで買ったスイーツはずっと私の隣で袋に入ったままだった。もう自分が世界で一番嫌い。この世の男の人が、みんな嫌いになった」

 無理もない。真樹ちゃんが受けたショックを考えれば、世の男が全て敵に見えても仕方がない。何しろ、一番好きだった男に裏切られたんだ。

「ずっと耐えて耐えて、相手が飽きるまでずっと我慢して……私は『帰っていいよ』って解放された」

 きっと、警察沙汰にはしなかったんだろう。つまり、真樹ちゃんをこれだけ傷付けた根本の男2人は、今ものうのうと何食わぬ顔して生きているんだ。

 それがやりきれない。
 何で傷付いたこの子がずっとこんな想いを抱えて生きて行かなきゃいけないんだ。

「どうしたらいいのか分からなかった。ただ私が男を見る目なかっただけだって……。自分を責めることしかできなくて」

 性犯罪は、こうやって被害者が自分を責めて殻に閉じこもって行くんだろう。本当は明確な加害者がいても、それが狭いコミュニティや知人の犯行だと言い出せないということが起きる。

 こんな犯罪、許されるわけがないのに。人の心を殺す行為なのに。
 加害者への罰に比べて失うものが大きすぎる被害者に、俺はやりきれなさを覚えていた。

「それなのに何で、昨日は俺を誘うようなことをしたのか……気になるんだけど」
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