美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第三章 足りない僕とコーヒーと

平日の営業 1

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 一日の営業を始めるのは午前10時。
 この時間にお店に来るのは、ほぼ学生さんだった。本や勉強道具を持って、店内で勉強をしている人が多い。といっても、今日の客は3人だ。

 この人たちは、12時頃になると一旦店を出る。12時半頃からサラリーマンの人たちで店内が溢れるのを知ってくれているのだろう。

 僕が学生時代には、こんな単価の高いコーヒーなんて飲んだことはなかった。
 貧乏な芸大生だったせいもあるけれど。
 ファストフード店や安いコーヒーショップだってあるのに、わざわざここに来てくれるんだなあといつも有難いやら申し訳ないやらだ。

 割と頻度高く来てくれる学生さんらしき若い男性が、12時前にお店を出ようと会計をする。

「いつもありがとうございます」

 僕がお礼を言うと、その人はびっくりして「あ、いえ」と言ったのでまずかったかなと焦った。

「このお店で勉強すると、なんか捗るっていうか……なんで、こちらこそありがとうございます」
「あ、そうなんですね……?」

 お互いなんだかぎくしゃくした感じで挨拶をして、「またよろしくお願いします」と見送った。勉強が捗る、か。考えたこともなかったなあ。

 僕はお客さんが帰った席を片付けて、テーブルを拭く。
 洗い物をしていると、もう一人の男性も帰る支度を始めた。
 こちらも、若い男性だ。

「ご馳走様でした」
「ありがとうございました」
「あの、夏木ユウタロウさんですよね??」
「えっ……?」

 お客さんの顔をじっと見るけど、僕の知っている人ではない。
 なんで急に名前を……?

「すいません、実は僕、芸大のメディア映像学科にいて」
「あ、ああそれで?」
「授業で夏木さんの作品を観る機会があって、興味が沸いたので調べてみたら……このお店に辿り着きまして」
「あ、わざわざこちらまでお越しいただいたんですか?」

 ひえー。今の大学って僕の映像を見せたりするのか。
 っていうか、使用許可とか僕のところに来ていないけど、勝手に教材として見せてるんだな。まあ、教材になるってのは断る理由がないから別に良いけどね。

 あれ? ということは、僕の名前を検索すると、この店って分かるんだ。
 ああそう言えば、この間の取材で答えたな……あれ、確かWeb版でも記事になってるし、検索したら辿れるのか。

「夏木さんの映像、めっちゃかっこよかったです。あの、サインもらっていいですか??」
「あ、え。いや、僕もうコーヒーショップの店長なので……」
「まだ、クリエイティブディレクターもされているんですよね??」
「あ、はい、まあ……」

 噓は言ってない。実際にクリエイティブディレクターでもある。
 本業はコーヒーショップの店長だけど。

「あの、ノートにサインしていただきたくて。僕も、夏木さんみたいな映像が作りたいなって思ってまして」

 僕の知らないところで、僕の作ったものがこの男性のモチベーションになっているらしい。
 今、この人にとって僕の仕事は目標だったりするのだろう。

「大したサインは書けませんよ?」
「ありがとうございます!」

 僕は、仕事で適当に使って来たサインをノートの最後のページに書いた。
 その男性は嬉しそうにそれを見ながら、「大切にします!」と言って会計をして去っていく。

 僕は、若いひとりの女性の人生を壊してしまったけれど。
 こうやって人に希望を与えられたらと、ずっとどこかで思っていた。

  *

「やっほー天才」

 その日、利津さんが来る前に日葵が店に来た。

「何しに来たの?」
「コーヒー飲みに来てあげたんでしょうよ」

 いつも通り態度の悪い日葵に、僕はカウンター席を案内する。利津さんが来たら、2人は隣同士で座ってもらうことになるわけだ。

「近くで仕事?」
「そう。この間のは、なんだったの? あの変な電話」
「ああ、ちょっとね。友達が僕のことを天才肌だって言うから日葵はどう思ってるか気になったんだよね」
「で、私が天才肌だって言ったから満足した?」

 声のボリュームが大きい。早くコーヒーを注文しろよと思いつつ、僕は頷く。
 日葵といると、僕はつられて態度が悪くなりそうだ。

「ナツが自分のことをそんな風に気にするなんてね。芸大出て、クリエイティブの世界で第一線を走ってた割に変なこと言うなと思ったわ」

 日葵はそこでようやくメニューを眺める。

「アイスコーヒーで飲むのは、どれがお薦め?」
「ミルク入れるんだっけ?」
「うん、入れたい」
「じゃあ、今日の日替わりのマンデリンにしようか」
「手抜きしたでしょ?」

 失礼だな、この客。店長のお薦めに対して手抜きなどと。
 さっき若い子にサインを求められていた時、日葵がいなくて本当に良かった。

「手抜きじゃないよ。ホントにお薦め」

 僕はローストを少し深めにしたマンデリンを用意し、ドリッパーの下に氷をセットする。やかんに火をかけてドリップの準備をしていたら、お店に利津さんがやってきた。

「こんにちは。……あ、日葵さん」
「どうもー」

 利津さんの姿を見て、日葵はカウンターからひらひらと手を振った。
 それを見て軽く会釈をした利津さんは、恐る恐る日葵の隣の席に着く。

「何にしますか?」
「あ、じゃあ……うーん、今日はちょっと違うのが良いなあ……ケニアで」
「はい」

 利津さんのオーダーを聞いて、ケニアの豆をグラインドしていると、そういえば日葵に言っていなかったと思い出す。

「実は僕、利津さんの家に居候してるんです」

 他のお客さんにも聞こえそうだったから、日葵に向かって言ったけど丁寧語だ。

「えっ? そうなの? 同棲??」
「あ、いえ、違います。同棲じゃなくて下宿っていうか」

 利津さんが慌てて口を挟んだ。まあ、そうだよな。普通は同棲って思うよな。
 日葵の言いたいことはよく分かる。男女が一緒に暮らすって大体それだよ。

「僕がおっさんで体力が限界なのを見かねて、空いている部屋を貸してくれたんです。利津さんのお父さんとも一緒に暮らしているような、本当に下宿先と言う感じで。通勤時間が無くなって健康になって来ました」
「やだー。爺臭い。年近いのにそういうの止めてよ。一緒にされるでしょ」
「えっ?? 日葵さんて、ナツさんと同年代なんですか?」

 利津さんが驚いている。まあ、日葵は確かに若く見えるかもしれないよね。そこに価値を感じるのは人それぞれだし、僕がおっさんなら日葵は……。

「私は、ナツの一個下だからおばさんじゃないもん」

 いや、そこは変わらないだろ……。っていうか、誕生日半年違いだし。
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