美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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終章 人生の酸いも苦いも

美味しいコーヒーの愉しみ方 1

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 私とナツさんは、普段じっくり話をしたりはしない。
 店内でも仕事の話ばかりだし、家でも必要最低限の会話だけだ。

 私は初めて作ったブレンドコーヒーを前に、ナツさんに聞きたかったことを尋ねることにした。

「ナツさんは、コーヒーを選びましたよね。それは、コーヒーだったら自分のクリエイティブが活かせると思ったからだと」
「はい。コーヒーはすごくクリエイティブだと思ったんです。色々な飲みかたや焙煎があって。その割に、料理人のようなスキルが要るわけでもなく」

 料理人のようなスキルが要るわけでもない、そうか。
 もしスキルがあったら、そっちの道も考えていたんだろうか。

「私も、最近それが分かるようになって来たんです。コーヒーってそれぞれの個性が美味しくて、発見が多い飲み物だなって」
「利津さんは、覚えが早いですからね。すぐに僕の知識を追い抜いて、一流のブレンダーになりそうです」

 ナツさんは、確認するようにまたコーヒーを飲んだ。
 この人が負った傷は、私が理解できるものではない。
 だけど、それを癒すためにコーヒーを選んだのだろうなと何となく思った。

「ナツさん、コーヒーを表すのって、コクと酸味と苦味ですよね」
「そうですね、世界共通言語でbody、acidity、bitterness」
「食の世界でコクはよく意識されますが、酸味と苦味を重視しているケースって、珍しいってご存じですか?」
「?」

 最近、私には気付いた事がある。
 コーヒーって実は珍しい。

「人間は、生まれてきたら甘味、塩味(えんみ)、うま味しか受け入れられないようになっているんです」
「赤ん坊の話ですか?」
「はい。人は酸味は腐敗、苦味は毒として避けるようにプログラムされて生まれてきます。つまり、私たちが酸味や苦味を受け入れられているのは、『経験』によるもの」

 赤ん坊は判断力が無く何でも口に入れることから、酸味と苦味を避けることで生存率を上げている。洗剤などは子どもや赤ん坊が口に入れないように、極端に苦い味の味付けをされているくらいだ。

 人は食経験で酸味と苦味の許容度が増す。
 経験によって苦味と酸味を身体が覚えていく。
 
 ストレスを感じると味覚の受容体が変化して苦味を感じにくくなるという特性までついているくらい、苦味は感情と密接な味覚だ。ビールが美味しく感じる仕組みもここにある。

 全ての味覚の中で、経験を要する味覚が酸味と苦味。コーヒーは、その酸味と苦味が味の指標になる。

「人間は生まれてきた時には誰もが酸味も苦味も嫌いだったはずなんです。なのに、私達はコーヒーをこんなに美味しく飲むことができるじゃないですか」
「経験の賜物、ってわけですか」

 私は頷いてコーヒーを飲む。ナツさんが好きだと言ったケニアの豆がメインのブレンドコーヒー。
 ケニアは、美人な女の人のイメージがする。強くて綺麗で、後ろ姿がスッキリとした、どこか後を引くような香り。

「私は、歳をとるのが怖かったんです。社会人経験がないまま時間が経って、年齢だけを重ねていったら、どんどん社会から取り残されてしまう」

 就職活動をしようと思ったことは何度もある。
 その度、なぜ前職を辞めたのかを問われるのだと気付いた。

 前に踏み出すためには、過去を身体に刻み付けなければならない。
 それが、どれだけ自分にとってストレスだったか、今なら冷静に分かる。

「どうして、一度失敗するとこんなにも再起は難しいんでしょうね」

 ナツさんは、私のことなのか自分のことなのか、そう言ってどこかを見つめていた。

「本当ですね」

 私たちは、過去に一度失敗している。
 その経験を味覚に表せば間違いなく「苦く」て、人生にも味があるのだと本能的に分かっていた。

 それなのに、どうしてだろう。
 コーヒーは苦くても、受け入れることができる。

「年を重ねたことでコーヒーが美味しくなったんじゃないかとも思うんです」

 私が最近思うこと。コーヒーは、自分が大人になればなるほど、美味しくなるのかもしれない。

「実は僕、コーヒーってあんまり好きじゃなかったんですよ」
「そうなんですか?」
「例の件で色々あって、喫茶店で人と話す機会に恵まれて……いつの間にかコーヒーが飲めるようになっていました」
「じゃあ、ナツさんとコーヒーの出会いって……」
「歴史は浅いんです」

 人と人の出会いと同じように、食との出会いにもタイミングやその時の環境がある。
 大人がコーヒーに惹かれるのは、出会い方とも関係しているのかもしれない。

「私も、コーヒーのことが好きになったのはナツさんのお店に通うようになってからですよ」

 もともと私は紅茶派だった。コーヒーは胃に負担が掛かるイメージで、あまり積極的には飲まなかったくらいだ。

「それが今や、焙煎士ですか」
「世間的に、ちゃんと焙煎士が出来ているか分かりませんけど」
「利津さんは既に僕より焙煎のセンスがあるじゃないですか」

 焙煎士というのは、特に資格が要る職業ではない。
 豆の焙煎をするのにあたって、その特徴を把握したりお客様に勧められる説得力さえ持っていれば割とできる仕事なのだと知った。

「僕がケニアのコーヒーを好きだと言って、このブレンドが作れるんだから……焙煎士としてもブレンダーとしても凄腕ですよ」

 私に焙煎士やブレンダーの優劣は分からない。凄腕と言われてもそれを否定も肯定できなかった。

「一般的には大したことないかもしれませんし」
「じゃあ、挑戦してみても良いんじゃないですか?」
「……?」
「他のお店に就職してみても」

 ナツさんはカップに口を付けたまま、表情を変えずに言った。
 私は目の前が真っ白になって、何も考えられなくなりそうだ。

「私が……負担になりましたか?」

 これだけ四六時中一緒にいると、ナツさんも嫌になるんじゃないかと思っていた。私は人付き合いに自信がないし、ナツさんに迷惑をかけていてもおかしくない。

「そうではなくて。外に出て活躍してみたら、自信になるかもしれない」
「でも私は、外に出る勇気が……」
「履歴書や面接の対策は、僕も協力しますし。コーヒーの世界になら、飛び出せるかもしれないって思いませんか?」

 そんなの、全く自信が無い。そもそも人付き合いが怖い時点で、新しく出会う人たちのことを考えると足が震えてきそうだ。
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