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November
17. 彼の正体
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次の日、起床したヒカリがリビングへ向かうと、二人はもう出て行った後だった。ソファの片隅に折り畳まれたブランケットが置かれている所を見ると、昨晩は二人のうちどちらかがここで寝たのだろう。一之瀬も洋介もなかなかに背が高い方だから、どちらが寝たせよ相当狭かったのではないだろうか。
それにしても出勤の一之瀬が朝早いのは当然として、洋介までこんなに早く出て行くとは意外である。
(結局昨日の夜に少し話したのが最後だったな……)
洋介を泊めるのは一泊だけだと聞いている。この後彼はまた別の目的地へと足を伸ばすのだろう。もう会うこともあるまい。
それが少し残念に思える。洋介を前にした時の一之瀬は言葉の端々や目線などにどことなく「お兄ちゃん」っぽさが顕れていて、それをもう少し見ていたいと思ったのだ。
――ところが。意外なことに洋介と話す機会は再度巡ってきた。その日の午後、洋介がガムラスタンのカフェに現れたのだ。
「あれっ洋介くん? いらっしゃい」
「どうも……」
長身の身体を小さくして少し居心地悪そうにしている。その姿を見て、彼がこの店の扉を開けるのに相当な勇気が必要だったことが見て取れた。わざわざやって来たということは、ヒカリに何か用事でもあるのだろうか。
「もう少しでわたし勤務終了なんだけど……?」
そう水を向けると、洋介は「待ってます」と言う。ヒカリは急いで仕事を片付け、洋介の所へ向かった。
席につくと、彼はいきなり頭を下げた。
「昨日はすみませんでした」
「いえいえ、お安い御用でした」
「いや、あの、そうじゃなくて……助けてもらったのに酷い態度を取ってしまって申し訳ありませんでした」
謝罪はそのことについてだったのか。確かに昨日の洋介の態度は友好的とは言い難いものがあった。とはいえ、こちらとしては特に頓着するほどのことでもない。ヒカリは顔の前で手を振り鷹揚に笑った。
「いいよいいよ。全然気にしてないから。洋介くん、びっくりしちゃったんだよね?」
「はい……隼くんが黙って結婚したなんて信じられなくて、子供じみた態度を取ってしまいました」
「うん、仕方ないよ」
「でもあの後散々叱られて目が醒めたんです。隼くんに『俺を慕ってくれるなら、俺の大事な人も同じように大事にしてくれ』って言われて……反省しました」
「うん?」
ヒカリは目を丸くした。
(俺の大事な人?)
一之瀬がヒカリのことをそう言ったなんて何かの間違いではないのか。ヒカリは期間限定の契約妻で、実態はフラットメイトでしかないはずだ。「大事な人」などと言われる所以はない。
そもそも昨晩一之瀬は洋介にいったい何を話したのか。日本に帰ってヒカリの存在を口外しないよう口止めしたのではなかったのか。
「ええとね、わたしと一之瀬先輩の結婚は……ちょっと事情があって普通の結婚じゃないの。洋介くんを蔑ろにした訳じゃなくて、誰にも言ってないんだと思うよ。先輩からもそう聞いたでしょ?」
「はあ、まあ色々混み合った事情があるとは聞きました」
(混み合った事情?)
そのまわりくどい表現にヒカリは思わず眉を顰める。昨晩一之瀬は洋介にきっちりしっかり釘をさしたのだろうか。どうにも心許ないので、釘は自分でさすことにした。
「そう、混み合った事情があるの。この結婚は期間限定で、わたし二月には籍を抜いて日本に帰っちゃうの。すぐにいなくなるから、一之瀬先輩のご実家にご迷惑は掛けないよ。だから間違っても日本でわたしのこと話さないでね!」
そう念を押すも、洋介は微妙な顔をしている。
「ヒカリさん、隼くん置いて帰っちゃうんですか?」
「ええ、帰ります」
「隼くん、めちゃくちゃいい男ですよ。かっこよくて優しくて将来性あって。何が不満なんです?」
ヒカリは脱力した。知ってる。全部知ってる。一之瀬がかっこいいことも優しいことも将来性があることも、全部きちんと知ってる。だけど。
「あのね、そういう問題じゃないから。わたしが居座り続けたら一之瀬先輩は困っちゃうよ」
「そんなことないと思うんですけど。俺、昨日びっくりしたんです。あんなに寛いでデレデレしてる隼くん初めて見たから」
「いや、デレデレはしてないでしょ」
「してましたよ。ポトフを食べるの食べないのって。びっくりしました。ヒカリさんって今まで隼くんの周りにいた女の人と全然違うんです。隼くんったらいつもピンヒールを履いた肉食獣に狩られるような恋愛ばかりで」
「ピ、ピン……?」
妙な喩えにヒカリは面食らう。彼が言い表したいのは、上昇思考の強いギラギラした女性といったところだろうか。
ヒカリはスニーカー派だし、動物に例えるならば「猫」と言われることが多い。猫なんてどこにでもいる普通の小型愛玩動物だ。つまりヒカリには華やかさもなければ、肉食獣に喩えられるような凄みなどもないのである。
「昨日の隼くん見て、ヒカリさんみたいに普通っぽい人の方が合うんだろうなぁって思いました」
「……いや、あのね、そう言われましても」
「ヒカリさんって普通っぽいですけどそれだけじゃないんですよね。度胸ありますし。昨日も落ち着いてイミグレの人に言い返していたし。政治家の妻としても適正ありますよ」
「政治家の妻?」
その唐突な言葉に、ヒカリは首を傾げてしまう。
その反応を見て、洋介は意外だとでも言わんばかりに目を丸くした。
「あれ、ヒカリさん聞いてません?」
「な、何を?」
「隼くんってそのうち会社辞めてお父さんの政策秘書を数年やったら地盤を継いで出馬するつもりですよ」
「え……?」
洋介の言うことの意味が全く分からず、ヒカリは困惑した。
(政策秘書? 地盤?)
洋介が当たり前のように出してきた単語が指し示すものといえば――
「ちょ、ちょっと待って。一之瀬先輩のお父さんって政治家なの?」
「えっ……ヒカリさん、そこから知らなかったんですか? そうですよ、一之瀬誠司って名前くらい聞いたことあるでしょう?」
確かにその名前には聞き覚えがあった。衆議院議員を何期も務める大物議員で、ここ最近は組閣の度に国務大臣に任命される政治家である。
突然知らされた新事実に驚いてしまうが、それでもどこか腑に落ちるものがあった。
(そうか、一之瀬先輩は政治家の息子さんだったのか……)
常々育ちの良さそうな人だとは思っていた。初めて話したのは学生時代。物腰柔らかく穏やかで、ヒカリの話にも丁寧に耳を傾けてくれた。常に相手を尊重するその姿勢からは天性の品の良さが窺えて、「生え抜きの付属上がりは違うんだな」という感想を抱いたものだった。周りから大切にされて育ってきたことがありありと見て取れて、きっと良いお家のお坊っちゃんなんだろうなとは思っていたが。何のことはない、彼は本当に名家の御曹司だったのだ。
(そういえば……)
今になって思い当たることがいくつかある。
最初に契約結婚を持ち掛けられた時、「三十五になったら父親の仕事を手伝うことになっている」と言っていたような気がする。あの発言は、父親の政策秘書になるという意味だったのか。
日本の大学卒業後にアメリカで専攻したのがMBAではなく比較政治学だったというのも、今後の政治家への転向を見越したものだったという訳か。
そして脳裏に蘇る彼の言葉。
――結婚は利のある相手としたい。
政治家への転身を図る一之瀬にとって、利の有る相手とはいったいどんな女性なんだろうか。
ふと思い付くのは、「三バン」という言葉。日本の選挙で勝つためには、「地盤」、「看板」、「鞄」の三つのバンが必要だという揶揄である。
彼は現職の二世に当たる訳だから、引き継ぐであろう「地盤」はある。それでも票田を握るキーマンとの繋がりは強めておくに越したことはないだろう。選挙区内の企業や組織の有力者の娘と婚姻を結べば、それは叶う。
あるいは知名度を意味する「看板」のためなら、自身に知名度のある女性を選べばいい。そういえば議員が女優やアナウンサーと結婚するという例も往々にして見かける。
最後の「鞄」が示すのは選挙資金。選挙には莫大な金がかかると聞くが、資産家の娘と結婚すれば有力なバックアップが得られるだろう。
いずれにしても、ヒカリには全く縁のない話であることには間違いない。ヒカリとの結婚で得られる利など存在しない。
だから、ヒカリと一之瀬の結婚は期間限定なのだ。二月末には籍を抜き、ヒカリは日本へ帰国する。そう決まっているのだ。
(そういうことだったのかあ……)
まるでパズルのピースがはまっていくようにこれまでのことが理解でき、ヒカリは思わずうなり声を上げてしまった。
それにしても出勤の一之瀬が朝早いのは当然として、洋介までこんなに早く出て行くとは意外である。
(結局昨日の夜に少し話したのが最後だったな……)
洋介を泊めるのは一泊だけだと聞いている。この後彼はまた別の目的地へと足を伸ばすのだろう。もう会うこともあるまい。
それが少し残念に思える。洋介を前にした時の一之瀬は言葉の端々や目線などにどことなく「お兄ちゃん」っぽさが顕れていて、それをもう少し見ていたいと思ったのだ。
――ところが。意外なことに洋介と話す機会は再度巡ってきた。その日の午後、洋介がガムラスタンのカフェに現れたのだ。
「あれっ洋介くん? いらっしゃい」
「どうも……」
長身の身体を小さくして少し居心地悪そうにしている。その姿を見て、彼がこの店の扉を開けるのに相当な勇気が必要だったことが見て取れた。わざわざやって来たということは、ヒカリに何か用事でもあるのだろうか。
「もう少しでわたし勤務終了なんだけど……?」
そう水を向けると、洋介は「待ってます」と言う。ヒカリは急いで仕事を片付け、洋介の所へ向かった。
席につくと、彼はいきなり頭を下げた。
「昨日はすみませんでした」
「いえいえ、お安い御用でした」
「いや、あの、そうじゃなくて……助けてもらったのに酷い態度を取ってしまって申し訳ありませんでした」
謝罪はそのことについてだったのか。確かに昨日の洋介の態度は友好的とは言い難いものがあった。とはいえ、こちらとしては特に頓着するほどのことでもない。ヒカリは顔の前で手を振り鷹揚に笑った。
「いいよいいよ。全然気にしてないから。洋介くん、びっくりしちゃったんだよね?」
「はい……隼くんが黙って結婚したなんて信じられなくて、子供じみた態度を取ってしまいました」
「うん、仕方ないよ」
「でもあの後散々叱られて目が醒めたんです。隼くんに『俺を慕ってくれるなら、俺の大事な人も同じように大事にしてくれ』って言われて……反省しました」
「うん?」
ヒカリは目を丸くした。
(俺の大事な人?)
一之瀬がヒカリのことをそう言ったなんて何かの間違いではないのか。ヒカリは期間限定の契約妻で、実態はフラットメイトでしかないはずだ。「大事な人」などと言われる所以はない。
そもそも昨晩一之瀬は洋介にいったい何を話したのか。日本に帰ってヒカリの存在を口外しないよう口止めしたのではなかったのか。
「ええとね、わたしと一之瀬先輩の結婚は……ちょっと事情があって普通の結婚じゃないの。洋介くんを蔑ろにした訳じゃなくて、誰にも言ってないんだと思うよ。先輩からもそう聞いたでしょ?」
「はあ、まあ色々混み合った事情があるとは聞きました」
(混み合った事情?)
そのまわりくどい表現にヒカリは思わず眉を顰める。昨晩一之瀬は洋介にきっちりしっかり釘をさしたのだろうか。どうにも心許ないので、釘は自分でさすことにした。
「そう、混み合った事情があるの。この結婚は期間限定で、わたし二月には籍を抜いて日本に帰っちゃうの。すぐにいなくなるから、一之瀬先輩のご実家にご迷惑は掛けないよ。だから間違っても日本でわたしのこと話さないでね!」
そう念を押すも、洋介は微妙な顔をしている。
「ヒカリさん、隼くん置いて帰っちゃうんですか?」
「ええ、帰ります」
「隼くん、めちゃくちゃいい男ですよ。かっこよくて優しくて将来性あって。何が不満なんです?」
ヒカリは脱力した。知ってる。全部知ってる。一之瀬がかっこいいことも優しいことも将来性があることも、全部きちんと知ってる。だけど。
「あのね、そういう問題じゃないから。わたしが居座り続けたら一之瀬先輩は困っちゃうよ」
「そんなことないと思うんですけど。俺、昨日びっくりしたんです。あんなに寛いでデレデレしてる隼くん初めて見たから」
「いや、デレデレはしてないでしょ」
「してましたよ。ポトフを食べるの食べないのって。びっくりしました。ヒカリさんって今まで隼くんの周りにいた女の人と全然違うんです。隼くんったらいつもピンヒールを履いた肉食獣に狩られるような恋愛ばかりで」
「ピ、ピン……?」
妙な喩えにヒカリは面食らう。彼が言い表したいのは、上昇思考の強いギラギラした女性といったところだろうか。
ヒカリはスニーカー派だし、動物に例えるならば「猫」と言われることが多い。猫なんてどこにでもいる普通の小型愛玩動物だ。つまりヒカリには華やかさもなければ、肉食獣に喩えられるような凄みなどもないのである。
「昨日の隼くん見て、ヒカリさんみたいに普通っぽい人の方が合うんだろうなぁって思いました」
「……いや、あのね、そう言われましても」
「ヒカリさんって普通っぽいですけどそれだけじゃないんですよね。度胸ありますし。昨日も落ち着いてイミグレの人に言い返していたし。政治家の妻としても適正ありますよ」
「政治家の妻?」
その唐突な言葉に、ヒカリは首を傾げてしまう。
その反応を見て、洋介は意外だとでも言わんばかりに目を丸くした。
「あれ、ヒカリさん聞いてません?」
「な、何を?」
「隼くんってそのうち会社辞めてお父さんの政策秘書を数年やったら地盤を継いで出馬するつもりですよ」
「え……?」
洋介の言うことの意味が全く分からず、ヒカリは困惑した。
(政策秘書? 地盤?)
洋介が当たり前のように出してきた単語が指し示すものといえば――
「ちょ、ちょっと待って。一之瀬先輩のお父さんって政治家なの?」
「えっ……ヒカリさん、そこから知らなかったんですか? そうですよ、一之瀬誠司って名前くらい聞いたことあるでしょう?」
確かにその名前には聞き覚えがあった。衆議院議員を何期も務める大物議員で、ここ最近は組閣の度に国務大臣に任命される政治家である。
突然知らされた新事実に驚いてしまうが、それでもどこか腑に落ちるものがあった。
(そうか、一之瀬先輩は政治家の息子さんだったのか……)
常々育ちの良さそうな人だとは思っていた。初めて話したのは学生時代。物腰柔らかく穏やかで、ヒカリの話にも丁寧に耳を傾けてくれた。常に相手を尊重するその姿勢からは天性の品の良さが窺えて、「生え抜きの付属上がりは違うんだな」という感想を抱いたものだった。周りから大切にされて育ってきたことがありありと見て取れて、きっと良いお家のお坊っちゃんなんだろうなとは思っていたが。何のことはない、彼は本当に名家の御曹司だったのだ。
(そういえば……)
今になって思い当たることがいくつかある。
最初に契約結婚を持ち掛けられた時、「三十五になったら父親の仕事を手伝うことになっている」と言っていたような気がする。あの発言は、父親の政策秘書になるという意味だったのか。
日本の大学卒業後にアメリカで専攻したのがMBAではなく比較政治学だったというのも、今後の政治家への転向を見越したものだったという訳か。
そして脳裏に蘇る彼の言葉。
――結婚は利のある相手としたい。
政治家への転身を図る一之瀬にとって、利の有る相手とはいったいどんな女性なんだろうか。
ふと思い付くのは、「三バン」という言葉。日本の選挙で勝つためには、「地盤」、「看板」、「鞄」の三つのバンが必要だという揶揄である。
彼は現職の二世に当たる訳だから、引き継ぐであろう「地盤」はある。それでも票田を握るキーマンとの繋がりは強めておくに越したことはないだろう。選挙区内の企業や組織の有力者の娘と婚姻を結べば、それは叶う。
あるいは知名度を意味する「看板」のためなら、自身に知名度のある女性を選べばいい。そういえば議員が女優やアナウンサーと結婚するという例も往々にして見かける。
最後の「鞄」が示すのは選挙資金。選挙には莫大な金がかかると聞くが、資産家の娘と結婚すれば有力なバックアップが得られるだろう。
いずれにしても、ヒカリには全く縁のない話であることには間違いない。ヒカリとの結婚で得られる利など存在しない。
だから、ヒカリと一之瀬の結婚は期間限定なのだ。二月末には籍を抜き、ヒカリは日本へ帰国する。そう決まっているのだ。
(そういうことだったのかあ……)
まるでパズルのピースがはまっていくようにこれまでのことが理解でき、ヒカリは思わずうなり声を上げてしまった。
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