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第七章 働く上での「幸せ」
永徳の想い
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「一週間経っても戻ってこないと思ったら! 辞めたってどういうことですか!」
編集室中に響き渡るような刹那の凄まじい大声に、永徳は耳を塞ぐ。
「刹那、首を間近に持ってくるのはやめておくれ。鼓膜が破れそうだ」
嵐のような黒羽の来訪ののち、笹野屋永徳は用事のために出かけていた。
しかし今度は出先から戻ってきて早々、刹那に袖を掴まれ、自席に座らされ、尋問を受けている。
「だって! まさかクビにしたんですか? あんなに頑張っていたのに」
「自分のせいでしょうか? 自分が、血の匂いに当てられて、噛みつこうとしたから……」
涙目のマイケルを小鬼の双子が慰める。
「あれはマイケルのせいじゃなくて椿って女が悪いんだろ? 話は刹那から聞いたけどよ、とんでもないストーカーじゃねえか」
赤司がそう言うのに続けて、蒼司が頷く。
「モテねえモテねえと思ってたけど、ずいぶんとタチの悪い虫に憑かれてたんだなあ、編集長は」
「モテねえは余計だよ、赤司」
永徳が不満げにそう言えば、赤司はカラカラと笑う。
「ほんっとムカつくわ! あのクソ女。編集長! 抗議はしたんでしょうねえ、鬼灯堂に」
刹那にジリジリと詰め寄られ、両手を顔の前に上げ、仰け反りながら永徳は答える。
「ちょうど今鬼灯堂から戻ってきたところなんだよ。でもあの荷物を発送した当日に、彼女、会社を辞めてるらしい。鬼灯堂も晴天の霹靂だったようで、今回の件については丁寧にお詫びをされたよ」
「行方はわかってるんですか? あの様子だと、またやるわよあの女。佐和子にちょっかいかければ、編集長が構ってくれると思っちゃってるもの」
「今、彼女の行方は玉龍に追わせている。これ以上葵さんには被害は及ばないようにするつもりだよ」
困ったような笑みを浮かべる永徳をまじまじと見て、刹那はさらにくってかかる。
「そう、それなら安心だけど……でもっ! それと佐和子の退職は別よ。どうして引き留めなかったのよ!」
「さあ、そろそろ仕事をしないと。今日は予定がいっぱい入ってるからねえ」
「編集長!」
襖を通り、逃げるように廊下に歩いていく永徳の背中を、刹那は追おうとする。
「おいおい、やめとけよ刹那。寂しいけど、編集長は去るもの追わずだろ。これまで辞めるって言った社員に対しても、結構淡白だったし。それに佐和子は『婚約者』じゃなくて、『嫁候補』だったわけだしさ。あんなこともあったし、もうそういう意味でも難しいんだろ。俺たちがどんなに説得しても、動かねえんじゃねえかなあ、編集長は」
蒼司はそう刹那を引き留めたが、彼女は俯き、眉間に皺を寄せた。
「アタシ、あんなに怒った編集長、初めて見たもの」
「え?」
「椿が佐和子を襲った時。すごい顔をしてたわ。飄々としていて、何に対しても執着しない編集長が、誰かのためにあんなに感情を露わにするのって、珍しいのよ。それだけ佐和子が、思い入れが強い相手だってことだと思う」
それだけ言うと、刹那は蒼司の手を振り切って、襖の向こうに向かった永徳の背を追った。
永徳はひとり、縁側で佇んでいた。黒い癖っ毛が風に揺れている。
刹那は彼の背中に極力穏やかな口調で声をかけた。
「ねえ、編集長。きっと佐和子は、引き止めてもらいたかったと思うわよ」
冷たい風が縁側を抜けた。ここ数日は、また早春の寒さがぶり返しているようだった。
「……いい機会だと思ったんだ、今回の椿のことは」
「え?」
「彼女はいつも他人の評価を気にして生きていたから」
思っていたのとは明後日の方向の返答に、刹那は戸惑った顔をする。
「『実績を残して認めてもらう』。それも仕事のモチベーションとしてはいいと思うけど、それが働く目的になってしまっては、他人に働き甲斐を委ねることになってしまう。俺が引き止めたら、彼女は『俺に引き留められたから』ここの仕事を選んだだろう。でもそれは彼女の意思じゃない。そうなればきっと彼女は俺の顔色を見て仕事をし続けることになっただろう」
刹那は目を見開き、唇に指をあてしばらく逡巡したのち。永徳の意図を確かめるように尋ねた。
「もしかして編集長、わざと突き放したんですか。佐和子を。自分が本当にやりたいことがなにかを、改めて考えさせるために」
刹那の言葉に具体的な返答はなかったが、永徳の次の言葉を聞いて、刹那はそれを肯定ととった。
「俺はね、人生の岐路に立った時考えるべきは『自分がなにをしたいか』だと思うんだ。認めてもらうとかは、やりたいことをやった上でおまけとしてついてくるものなんだよ。彼女は今、それを理解するべき時なんだ」
永徳は、平静を装ったような声で続ける。
「あやかしの中で仕事をするのはリスクがある。人間がこの仕事に腰を据えて取り組むなら、それなりに覚悟が必要だ。彼女が悩んだ結果選んだのが人間社会の仕事なんなら、俺たちの関係はそれまでだよ」
彼は刹那の方を振り向かない。しかし柳色の羽織の背には、どことない寂しさが宿っていた。
「編集長は優しいわよね。相手のことばっかり考えて、いっつも貧乏籤を引いて。ねえでも、編集長自身の気持ちはどうなんですか。好きなんですよね、佐和子のこと。仕事のことは置いておいても……気持ちは伝えた方がいいんじゃないですか」
大きく深呼吸をして、永徳は伸びをした。相変わらず刹那に背を向けたまま。
「葵さんには幸せになってほしい。半妖の俺とどうにかなったって、苦労しかないじゃないか。それに俺は、残念なことにまったく相手にされてない」
「いくじなし。当たって砕けなさいよ」
「手厳しいなあ」
クックと笑いながら、永徳はようやく振り向く。すると縁側の廊下を強い風が吹き抜けた。
「おや、玉龍が戻ってきたようだ。……見つけたようだね」
永徳が昏い笑みを浮かべる。普段の温和な表情とは違う、その場の空気を凍りつかせるような雰囲気に、刹那はどきりとした。
「ちょっと出てくるよ。今日は戻らないとみんなに伝えておいて」
姿を現した黄金の龍の背に、一足飛びに乗り移ると、緩く波を描く黒髪の美丈夫は、風に乗って姿を消した。
編集室中に響き渡るような刹那の凄まじい大声に、永徳は耳を塞ぐ。
「刹那、首を間近に持ってくるのはやめておくれ。鼓膜が破れそうだ」
嵐のような黒羽の来訪ののち、笹野屋永徳は用事のために出かけていた。
しかし今度は出先から戻ってきて早々、刹那に袖を掴まれ、自席に座らされ、尋問を受けている。
「だって! まさかクビにしたんですか? あんなに頑張っていたのに」
「自分のせいでしょうか? 自分が、血の匂いに当てられて、噛みつこうとしたから……」
涙目のマイケルを小鬼の双子が慰める。
「あれはマイケルのせいじゃなくて椿って女が悪いんだろ? 話は刹那から聞いたけどよ、とんでもないストーカーじゃねえか」
赤司がそう言うのに続けて、蒼司が頷く。
「モテねえモテねえと思ってたけど、ずいぶんとタチの悪い虫に憑かれてたんだなあ、編集長は」
「モテねえは余計だよ、赤司」
永徳が不満げにそう言えば、赤司はカラカラと笑う。
「ほんっとムカつくわ! あのクソ女。編集長! 抗議はしたんでしょうねえ、鬼灯堂に」
刹那にジリジリと詰め寄られ、両手を顔の前に上げ、仰け反りながら永徳は答える。
「ちょうど今鬼灯堂から戻ってきたところなんだよ。でもあの荷物を発送した当日に、彼女、会社を辞めてるらしい。鬼灯堂も晴天の霹靂だったようで、今回の件については丁寧にお詫びをされたよ」
「行方はわかってるんですか? あの様子だと、またやるわよあの女。佐和子にちょっかいかければ、編集長が構ってくれると思っちゃってるもの」
「今、彼女の行方は玉龍に追わせている。これ以上葵さんには被害は及ばないようにするつもりだよ」
困ったような笑みを浮かべる永徳をまじまじと見て、刹那はさらにくってかかる。
「そう、それなら安心だけど……でもっ! それと佐和子の退職は別よ。どうして引き留めなかったのよ!」
「さあ、そろそろ仕事をしないと。今日は予定がいっぱい入ってるからねえ」
「編集長!」
襖を通り、逃げるように廊下に歩いていく永徳の背中を、刹那は追おうとする。
「おいおい、やめとけよ刹那。寂しいけど、編集長は去るもの追わずだろ。これまで辞めるって言った社員に対しても、結構淡白だったし。それに佐和子は『婚約者』じゃなくて、『嫁候補』だったわけだしさ。あんなこともあったし、もうそういう意味でも難しいんだろ。俺たちがどんなに説得しても、動かねえんじゃねえかなあ、編集長は」
蒼司はそう刹那を引き留めたが、彼女は俯き、眉間に皺を寄せた。
「アタシ、あんなに怒った編集長、初めて見たもの」
「え?」
「椿が佐和子を襲った時。すごい顔をしてたわ。飄々としていて、何に対しても執着しない編集長が、誰かのためにあんなに感情を露わにするのって、珍しいのよ。それだけ佐和子が、思い入れが強い相手だってことだと思う」
それだけ言うと、刹那は蒼司の手を振り切って、襖の向こうに向かった永徳の背を追った。
永徳はひとり、縁側で佇んでいた。黒い癖っ毛が風に揺れている。
刹那は彼の背中に極力穏やかな口調で声をかけた。
「ねえ、編集長。きっと佐和子は、引き止めてもらいたかったと思うわよ」
冷たい風が縁側を抜けた。ここ数日は、また早春の寒さがぶり返しているようだった。
「……いい機会だと思ったんだ、今回の椿のことは」
「え?」
「彼女はいつも他人の評価を気にして生きていたから」
思っていたのとは明後日の方向の返答に、刹那は戸惑った顔をする。
「『実績を残して認めてもらう』。それも仕事のモチベーションとしてはいいと思うけど、それが働く目的になってしまっては、他人に働き甲斐を委ねることになってしまう。俺が引き止めたら、彼女は『俺に引き留められたから』ここの仕事を選んだだろう。でもそれは彼女の意思じゃない。そうなればきっと彼女は俺の顔色を見て仕事をし続けることになっただろう」
刹那は目を見開き、唇に指をあてしばらく逡巡したのち。永徳の意図を確かめるように尋ねた。
「もしかして編集長、わざと突き放したんですか。佐和子を。自分が本当にやりたいことがなにかを、改めて考えさせるために」
刹那の言葉に具体的な返答はなかったが、永徳の次の言葉を聞いて、刹那はそれを肯定ととった。
「俺はね、人生の岐路に立った時考えるべきは『自分がなにをしたいか』だと思うんだ。認めてもらうとかは、やりたいことをやった上でおまけとしてついてくるものなんだよ。彼女は今、それを理解するべき時なんだ」
永徳は、平静を装ったような声で続ける。
「あやかしの中で仕事をするのはリスクがある。人間がこの仕事に腰を据えて取り組むなら、それなりに覚悟が必要だ。彼女が悩んだ結果選んだのが人間社会の仕事なんなら、俺たちの関係はそれまでだよ」
彼は刹那の方を振り向かない。しかし柳色の羽織の背には、どことない寂しさが宿っていた。
「編集長は優しいわよね。相手のことばっかり考えて、いっつも貧乏籤を引いて。ねえでも、編集長自身の気持ちはどうなんですか。好きなんですよね、佐和子のこと。仕事のことは置いておいても……気持ちは伝えた方がいいんじゃないですか」
大きく深呼吸をして、永徳は伸びをした。相変わらず刹那に背を向けたまま。
「葵さんには幸せになってほしい。半妖の俺とどうにかなったって、苦労しかないじゃないか。それに俺は、残念なことにまったく相手にされてない」
「いくじなし。当たって砕けなさいよ」
「手厳しいなあ」
クックと笑いながら、永徳はようやく振り向く。すると縁側の廊下を強い風が吹き抜けた。
「おや、玉龍が戻ってきたようだ。……見つけたようだね」
永徳が昏い笑みを浮かべる。普段の温和な表情とは違う、その場の空気を凍りつかせるような雰囲気に、刹那はどきりとした。
「ちょっと出てくるよ。今日は戻らないとみんなに伝えておいて」
姿を現した黄金の龍の背に、一足飛びに乗り移ると、緩く波を描く黒髪の美丈夫は、風に乗って姿を消した。
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