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第七章 働く上での「幸せ」
最終話
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「ねえ、お嬢さん」
「ん……」
「よかった。声が届いたかしら」
「誰……?」
ゆっくりと目を開けた先で視界に入ってきた風景を見て、佐和子は息を呑んだ。
吹雪のように舞い散る純白の花びらが、暖かな光の中で踊っている。
豊満な大島桜の群生地が、目の前には広がっていたのだ。
しかし視界はどこかぼんやりとしていて、なんだか現実感がない。
「葵佐和子さんというのね、あなた。名前も知らないあなたに、急にお見合いなんて持ちかけてごめんなさい」
「もしかして……富士子さん?」
そう口にすると、まるでカメラのレンズの焦点が合ったときのように、目の前の人物の姿がくっきりと現れた。
藤色の着物に、ロマンスグレーのパーマヘア。間違いなく、あの日バスで見た笹野屋富士子の姿だった。
––––これは、夢?
「あの、驚きはしましたけど。でも、富士子さんに誘われて、ここへきて。……本当によかったです。ありがとうございました」
「そう、それならよかった」
満足げに微笑んだ富士子は、佐和子の隣に座る。
「私はあの子のところに、しっかりもので、優しいお嫁さんが来てくれたらいいなあとずっと思ってたんだけど。なかなかご縁に恵まれなくてねえ」
「でも、笹……永徳さんなら、すごくできた方ですし。お一人でも楽しく生きていけそうな気もします。永徳さんを慕ってくれるあやかしの皆さんもいらっしゃいますし」
富士子は佐和子の言葉に苦笑し、「そう見える?」と言いつつ、腕を組んでため息をつく。
「でもね意外と打たれ弱いのよ、あの子は。寂しがりやだし」
昔を思い出すように、遠くを見ながら。富士子は佐和子に向かって、言葉を紡ぐ。
「あの子が人の世で傷ついて、引きこもってから何年か経って。主人がね、永徳に言ったの。人とあやかしの合いの子であるお前にしかできないこともあるはずだ、って。人の世に無理に混じらなくてもいい、自分らしく生きる道を探せって。それで、社会復帰をさせる一環として、あやかし瓦版の仕事を任せたの」
木村のことがあってから、そんなに長い期間引きこもっていたというのは知らなかった。永徳は「木村と佐和子の姿が重なった」と言っていたが。もしかしたら、無意識に自分の過去とも重ねていた部分があったのかもしれない。
「人生の半分は人間として生きてきたのに、急にあやかしばかりの世界に飛び込んで。初めはとても大変そうだった。私には言わなかったけど、きっと孤独を感じたことも多かったと思う」
富士子は佐和子に向けて微笑みかける。
「あなたがあやかし瓦版を手伝うと言ってくれて、自分と視点を共有できる仲間になってくれたこと。きっとあの子は心強かったはずよ」
「そう……ですか……」
永徳は、「人間視点であやかしのためになる記事を書いてほしい」と佐和子に話していた。もしかしたらそれは、人間の世界からあやかしの世界へやってきた永徳が、あやかし瓦版で仕事をする中で、自ら抱いた夢だったのかもしれないと佐和子は思った。
佐和子が富士子の言葉を反芻していると、視界がチカチカと明滅するのを感じ、空を見上げた。すると富士子はハッとした顔をして、残念そうな顔を佐和子に向ける。
「あら、そろそろ時間みたい。ごめんなさいね、いつも一方的で」
「えっ、富士子さん? あの」
慌てて富士子を引き止めようとする佐和子を見て、彼女はふっと表情を緩め、顔に刻まれた皺を深めた。
「ふふ。その慌てた顔。あの人にそっくりだわ」
「あの人……?」
「良かったらこの先も、あの子を、支えてあげて」
富士子のそのひと言を合図にするように、まばゆい閃光があたりを包み込み、佐和子は思わず目を瞑った。
光の向こうに消えた富士子の姿を探そうと、おそるおそるもう一度目を開けると、そこはもう先ほどの場所ではなく、和室の布団の上だった。辺りを見渡し、佐和子は自分が笹野屋邸の客間にいることに気がついた。
––––さっきのは、やっぱり夢か……。客間にいるっていうことは、もしかして、笹野屋さんが運んでくれたの?
廊下に面した側の障子を開けると、すでに空は明るくなっていた。どうやら朝まで眠ってしまったようだ。
客間から顔を出せば、あやかしたちが廊下のあちらこちらに散らばるようにして寝ており、その誰もが上から布団をかけられ、穏やかな寝息を立てている。
平和な様子に、頬を緩ませつつ。佐和子は洗面台に向かう。
顔を洗ったあと、ふたたび廊下に出てみまわってみたが、寝転がっているあやかしたちの中に、永徳の姿だけ見当たらない。
視線を漂わせていると、縁側に紺色の羽織が見えた。
「おはようございます。すみません、泊まらせて頂いちゃって……」
「おや、起きたんだね。ぐっすり眠れたかい? 疲れているだろうから、そのままにしておいたんだ。あ、布団はかけてあげたけどね」
「もしかして、全員に布団をかけて回っていたのって、笹野屋さんですか?」
「従業員が風邪をひいては困るからねえ」
穏やかに笑う永徳に釣られて、佐和子も微笑んだ。この人は適当に見えて、とても愛情深い人なのだというのが、今ではよくわかる。
「そういえばね、興味本位で調べていたのだけど。わかったんだよ、なぜ母がこの世から旅立つ前に、君を俺に紹介したのか」
「えっ、本当ですか?」
先ほどの富士子の姿を思い出し、どきりとする。
彼女があそこで消えなければ、自分で本人に聞こうとしていたことだった。
「知りたい?」
「知りたいです」
佐和子は永徳の隣に腰をかけ、話を聞く体勢を作った。
「俺の母はね、元々名古屋のお嬢様だったんだ」
「名古屋のご出身だったんですね。あ、それでういろうが好物だったのか……」
「そうなんだよ。商家の出でね。あの近辺では一番隆盛を極めた家だったようだ。そこまで栄えた背景には『カミサマ信仰』があったと言われていてね」
「カミサマ信仰? キリスト教を信仰していた、とかですか?」
「違うんだ、これが。『カミサマ信仰』というのが、実は大魔王山本五郎左衛門を祀るものだったんだ」
「つまり、笹野屋さんのお父様ですね」
「そう、その通り」
全国のあやかしを統括する大魔王「山本五郎左衛門」は、時代時代で各地を転々としていたらしい。富士子の先祖が商いを始めた当時、山本五郎左衛門は名古屋を拠点にしていたのだという。
「父はね、母の先祖の娘である『お富』に一目惚れをしたようだ。恋焦がれて、どうしても一緒になりたくて、彼女の両親のところに夜な夜な現れ、婚姻を迫ったという」
「嫌なストーカーですね……」
「まったくだ」
永徳は高らかに笑いつつ、子どもに昔話を聞かせるようなトーンで、佐和子の目をみて続きを話した。
「それでお富の両親は、『笹野屋家』の発展に力添えをすることを条件に、お富を嫁にやることを約束したんだ。父は大層喜んで、その条件を飲んだ。山本五郎左衛門に娘を輿入れさせて以降、笹野屋家は莫大な富を築いた」
「それが笹野屋家の隆盛の始まりだったんですね。……でも、お嫁に行ったのは『お富』さんで『富士子』さんではないですよね?」
まあ、続きを聞きなさい、と永徳は佐和子を嗜める。
「人間の寿命は短い。しかしあやかしは長寿だ。お富が亡くなった時、山本五郎左衛門は名古屋を離れようと決めた。笹野屋家とのつながりもそこまでにするつもりだった。しかし笹野屋一族は納得しなかった」
「え……それでどうしたんですか?」
「笹野屋家は生贄として、ふたたび一族の若い娘を嫁に出そうとしたんだ。父は断ったようだけどね、それでも一族は引かなかった。結局根負けして、父は生贄を受け入れたんだけど。やっぱり娶る気にはなれなくて、こっそり養子に出していたらしい」
「それは、お父様も困っていたでしょうね……」
「本当にねえ。それでそんなことが、笹野屋家の代替わりのたびに繰り返されたんだ。お富の時は彼女が亡くなったタイミングで生贄を差し出したけど、それ以降は父から沙汰がなかったからね。代替わりの時の挨拶みたいな感覚で、嫁を送り出すようになったみたいだ」
お富の時ほどではないが、生贄を送り出される手前、なにもしないわけにはいかず、山本五郎左衛門はそれなりに事業の繁栄に助力はしていたらしい。
あやかしなのに、ずいぶんと律儀だ。そういう性格だから、全国のあやかしをまとめ上げるほどの力を持っていたのかもしれない。
「それでね、笹野屋家からの最後の生贄が、母だったんだ」
「最後の……? ようやく終わりにできたってことですか」
「そうなんだ。白無垢を着た母が送られてきた時、父はまた養子に出そうとした。だけどそれを母が断ったんだよ。『嫁として送られてきたのですから、他所へやられるわけにはいきません』ってね。父は呆気に取られた。嫁に来た女で、そんな気の強い女は初めてだったらしい。そして母は真っ直ぐに父を見据えて啖呵を切ったそうだ。『私も笹野屋家の生贄文化には嫌気が差しています。どうぞ私を嫁にお迎えください。籍を入れていただきましたら、私は実家へ絶縁状を叩きつけて参ります』ってね。当時うちの屋敷で勤めていたあやかしがね、モノマネ付きで披露してくれたよ。その時の母の啖呵を」
佐和子は白無垢を着た花嫁が、大魔王に向かって啖呵を切る場面を想像して痺れた。
––––なんてかっこいい女性だったんだろう。富士子さんは。
「父はそんな母の姿を見て、ふたたび恋に落ちたそうだよ。そして母は、名実ともに父の嫁になった。これ以降笹野屋家とも縁が切れて、名古屋を離れ、大魔王山本権左衛門はつるさわに居を移したんだ」
「縁は切ったのに、笹野屋って苗字は残したんですね」
「父は人間の世界に戸籍がないからね。俺が生まれたことでいろいろ困って、そのまま笹野屋の苗字を使ったんだよ」
「なるほど。……あれ、でも。私、全然関係ないですよね。そのお話」
「それが関係あるんだよ」
「え、どの部分にですか?」
永徳は口角を上げ、佐和子を見つめる。
「母には実は、将来を誓い合った恋人がいたんだ」
「えっ」
「葵さんのお祖父様は名古屋のご出身だそうだね」
「そうですけど、まさか……」
料理人を目指していた祖父が、名古屋の料亭に住み込みで働いていたという話を佐和子は聞いたことがあった。
「どういうきっかけかまでは分からなかったんだけどね。彼らは恋に落ち、家族に隠れて逢引をして、愛を育んでいたそうだ。だがしかし、一族の中でとびきり容姿が良かった母に『山本五郎左衛門の嫁』の白羽の矢が立ってしまう」
バスの中で出会った時の、富士子の言葉が思い起こされた。
『いいわねえ。美しい盛りの時だもの。たくさん恋愛ができるわね。私も若い頃、忘れられない恋をしたものよ』
彼女の昔を懐かしむような、切ない表情が蘇る。
––––富士子さんはどんな気持ちで、山本五郎左衛門さんに啖呵を切ったんだろう。
そのまま養子に出してもらえたら、祖父と結ばれる人生もあったかもしれない。自分の幸せを築くことができたのかもしれないのに。
「なぜ、養子の話を断ったんでしょう……」
「自分のように不幸な思いをする人間を、これ以上出したくなかったんじゃないかな。そういう正義感の強い人だったんだ、あの人は」
庭を眺めていた永徳は、佐和子の方を振り向く。じっと見つめられると、なんだか落ち着かない。
「葵さんは、お祖父様似なのかな」
「はい、子どもの頃からよく、隔世遺伝だと言われてました……」
「……母は、君の顔を見て。かつて愛した男の面影を重ねたんじゃないかな。それで懐かしくなって、自分の自宅に呼び寄せた。……ついでに、結婚しそびれた愚息とうっかり結婚でもしてくれたらいいな、とでも思ってたんじゃないかね。若い時に結べなかった縁を……結びたかったんだと思うよ、葵さんのお祖父様との」
今はもうどうすることもできない、遠い昔の恋の物語を聞いて、佐和子は胸が締め付けられた。
「なんだか、切ないですね。富士子さんが、天国でうちの祖父に再会できているといいな……」
「そうだねえ。だからどうだい。うちに嫁に来ないかい」
「え。今の話でどうして『だから』になるんですか」
「いや、これも縁じゃないか」
「笹野屋さん、しつこいです」
「悪いね。お富の話で分かっただろう。血筋なんだよ、しつこいのは」
あっけらかんとそう言い放った永徳を見て、佐和子は吹き出した。
両手で口を覆いながら、笑いを止められずにいる佐和子を眺めながら、永徳はふたたび口をひらく。
「葵さん」
「……なんですか」
「あやかしの世界で働くって、決めたんだよね」
「そうですが」
佐和子のその言葉を聞いて、永徳は嬉しそうに頬を緩ませると、内緒話をするときのように、佐和子の顔に、自分の顔を近づけた。
「今日からは、真面目に口説くからね」
「は……」
上目遣いで青い瞳に見つめられて、佐和子は耳まで真っ赤になった。
慌てて逃げるように距離をとると、今度は永徳が吹き出す。
「じょ、冗談ですよね、笹野屋さん」
「冗談ではないよ、嫁候補殿」
二人の座る縁側に、暖かな風が吹く。
寒さに凍える季節を越え、芽吹き、美しく咲き誇った桜は、今、花散る季節を終えて、力強い青葉に命を漲らせている。
陽の光に照らされた日本庭園の大島桜は、青々とした緑の葉を風に靡かせていた。
<終わり>
「ん……」
「よかった。声が届いたかしら」
「誰……?」
ゆっくりと目を開けた先で視界に入ってきた風景を見て、佐和子は息を呑んだ。
吹雪のように舞い散る純白の花びらが、暖かな光の中で踊っている。
豊満な大島桜の群生地が、目の前には広がっていたのだ。
しかし視界はどこかぼんやりとしていて、なんだか現実感がない。
「葵佐和子さんというのね、あなた。名前も知らないあなたに、急にお見合いなんて持ちかけてごめんなさい」
「もしかして……富士子さん?」
そう口にすると、まるでカメラのレンズの焦点が合ったときのように、目の前の人物の姿がくっきりと現れた。
藤色の着物に、ロマンスグレーのパーマヘア。間違いなく、あの日バスで見た笹野屋富士子の姿だった。
––––これは、夢?
「あの、驚きはしましたけど。でも、富士子さんに誘われて、ここへきて。……本当によかったです。ありがとうございました」
「そう、それならよかった」
満足げに微笑んだ富士子は、佐和子の隣に座る。
「私はあの子のところに、しっかりもので、優しいお嫁さんが来てくれたらいいなあとずっと思ってたんだけど。なかなかご縁に恵まれなくてねえ」
「でも、笹……永徳さんなら、すごくできた方ですし。お一人でも楽しく生きていけそうな気もします。永徳さんを慕ってくれるあやかしの皆さんもいらっしゃいますし」
富士子は佐和子の言葉に苦笑し、「そう見える?」と言いつつ、腕を組んでため息をつく。
「でもね意外と打たれ弱いのよ、あの子は。寂しがりやだし」
昔を思い出すように、遠くを見ながら。富士子は佐和子に向かって、言葉を紡ぐ。
「あの子が人の世で傷ついて、引きこもってから何年か経って。主人がね、永徳に言ったの。人とあやかしの合いの子であるお前にしかできないこともあるはずだ、って。人の世に無理に混じらなくてもいい、自分らしく生きる道を探せって。それで、社会復帰をさせる一環として、あやかし瓦版の仕事を任せたの」
木村のことがあってから、そんなに長い期間引きこもっていたというのは知らなかった。永徳は「木村と佐和子の姿が重なった」と言っていたが。もしかしたら、無意識に自分の過去とも重ねていた部分があったのかもしれない。
「人生の半分は人間として生きてきたのに、急にあやかしばかりの世界に飛び込んで。初めはとても大変そうだった。私には言わなかったけど、きっと孤独を感じたことも多かったと思う」
富士子は佐和子に向けて微笑みかける。
「あなたがあやかし瓦版を手伝うと言ってくれて、自分と視点を共有できる仲間になってくれたこと。きっとあの子は心強かったはずよ」
「そう……ですか……」
永徳は、「人間視点であやかしのためになる記事を書いてほしい」と佐和子に話していた。もしかしたらそれは、人間の世界からあやかしの世界へやってきた永徳が、あやかし瓦版で仕事をする中で、自ら抱いた夢だったのかもしれないと佐和子は思った。
佐和子が富士子の言葉を反芻していると、視界がチカチカと明滅するのを感じ、空を見上げた。すると富士子はハッとした顔をして、残念そうな顔を佐和子に向ける。
「あら、そろそろ時間みたい。ごめんなさいね、いつも一方的で」
「えっ、富士子さん? あの」
慌てて富士子を引き止めようとする佐和子を見て、彼女はふっと表情を緩め、顔に刻まれた皺を深めた。
「ふふ。その慌てた顔。あの人にそっくりだわ」
「あの人……?」
「良かったらこの先も、あの子を、支えてあげて」
富士子のそのひと言を合図にするように、まばゆい閃光があたりを包み込み、佐和子は思わず目を瞑った。
光の向こうに消えた富士子の姿を探そうと、おそるおそるもう一度目を開けると、そこはもう先ほどの場所ではなく、和室の布団の上だった。辺りを見渡し、佐和子は自分が笹野屋邸の客間にいることに気がついた。
––––さっきのは、やっぱり夢か……。客間にいるっていうことは、もしかして、笹野屋さんが運んでくれたの?
廊下に面した側の障子を開けると、すでに空は明るくなっていた。どうやら朝まで眠ってしまったようだ。
客間から顔を出せば、あやかしたちが廊下のあちらこちらに散らばるようにして寝ており、その誰もが上から布団をかけられ、穏やかな寝息を立てている。
平和な様子に、頬を緩ませつつ。佐和子は洗面台に向かう。
顔を洗ったあと、ふたたび廊下に出てみまわってみたが、寝転がっているあやかしたちの中に、永徳の姿だけ見当たらない。
視線を漂わせていると、縁側に紺色の羽織が見えた。
「おはようございます。すみません、泊まらせて頂いちゃって……」
「おや、起きたんだね。ぐっすり眠れたかい? 疲れているだろうから、そのままにしておいたんだ。あ、布団はかけてあげたけどね」
「もしかして、全員に布団をかけて回っていたのって、笹野屋さんですか?」
「従業員が風邪をひいては困るからねえ」
穏やかに笑う永徳に釣られて、佐和子も微笑んだ。この人は適当に見えて、とても愛情深い人なのだというのが、今ではよくわかる。
「そういえばね、興味本位で調べていたのだけど。わかったんだよ、なぜ母がこの世から旅立つ前に、君を俺に紹介したのか」
「えっ、本当ですか?」
先ほどの富士子の姿を思い出し、どきりとする。
彼女があそこで消えなければ、自分で本人に聞こうとしていたことだった。
「知りたい?」
「知りたいです」
佐和子は永徳の隣に腰をかけ、話を聞く体勢を作った。
「俺の母はね、元々名古屋のお嬢様だったんだ」
「名古屋のご出身だったんですね。あ、それでういろうが好物だったのか……」
「そうなんだよ。商家の出でね。あの近辺では一番隆盛を極めた家だったようだ。そこまで栄えた背景には『カミサマ信仰』があったと言われていてね」
「カミサマ信仰? キリスト教を信仰していた、とかですか?」
「違うんだ、これが。『カミサマ信仰』というのが、実は大魔王山本五郎左衛門を祀るものだったんだ」
「つまり、笹野屋さんのお父様ですね」
「そう、その通り」
全国のあやかしを統括する大魔王「山本五郎左衛門」は、時代時代で各地を転々としていたらしい。富士子の先祖が商いを始めた当時、山本五郎左衛門は名古屋を拠点にしていたのだという。
「父はね、母の先祖の娘である『お富』に一目惚れをしたようだ。恋焦がれて、どうしても一緒になりたくて、彼女の両親のところに夜な夜な現れ、婚姻を迫ったという」
「嫌なストーカーですね……」
「まったくだ」
永徳は高らかに笑いつつ、子どもに昔話を聞かせるようなトーンで、佐和子の目をみて続きを話した。
「それでお富の両親は、『笹野屋家』の発展に力添えをすることを条件に、お富を嫁にやることを約束したんだ。父は大層喜んで、その条件を飲んだ。山本五郎左衛門に娘を輿入れさせて以降、笹野屋家は莫大な富を築いた」
「それが笹野屋家の隆盛の始まりだったんですね。……でも、お嫁に行ったのは『お富』さんで『富士子』さんではないですよね?」
まあ、続きを聞きなさい、と永徳は佐和子を嗜める。
「人間の寿命は短い。しかしあやかしは長寿だ。お富が亡くなった時、山本五郎左衛門は名古屋を離れようと決めた。笹野屋家とのつながりもそこまでにするつもりだった。しかし笹野屋一族は納得しなかった」
「え……それでどうしたんですか?」
「笹野屋家は生贄として、ふたたび一族の若い娘を嫁に出そうとしたんだ。父は断ったようだけどね、それでも一族は引かなかった。結局根負けして、父は生贄を受け入れたんだけど。やっぱり娶る気にはなれなくて、こっそり養子に出していたらしい」
「それは、お父様も困っていたでしょうね……」
「本当にねえ。それでそんなことが、笹野屋家の代替わりのたびに繰り返されたんだ。お富の時は彼女が亡くなったタイミングで生贄を差し出したけど、それ以降は父から沙汰がなかったからね。代替わりの時の挨拶みたいな感覚で、嫁を送り出すようになったみたいだ」
お富の時ほどではないが、生贄を送り出される手前、なにもしないわけにはいかず、山本五郎左衛門はそれなりに事業の繁栄に助力はしていたらしい。
あやかしなのに、ずいぶんと律儀だ。そういう性格だから、全国のあやかしをまとめ上げるほどの力を持っていたのかもしれない。
「それでね、笹野屋家からの最後の生贄が、母だったんだ」
「最後の……? ようやく終わりにできたってことですか」
「そうなんだ。白無垢を着た母が送られてきた時、父はまた養子に出そうとした。だけどそれを母が断ったんだよ。『嫁として送られてきたのですから、他所へやられるわけにはいきません』ってね。父は呆気に取られた。嫁に来た女で、そんな気の強い女は初めてだったらしい。そして母は真っ直ぐに父を見据えて啖呵を切ったそうだ。『私も笹野屋家の生贄文化には嫌気が差しています。どうぞ私を嫁にお迎えください。籍を入れていただきましたら、私は実家へ絶縁状を叩きつけて参ります』ってね。当時うちの屋敷で勤めていたあやかしがね、モノマネ付きで披露してくれたよ。その時の母の啖呵を」
佐和子は白無垢を着た花嫁が、大魔王に向かって啖呵を切る場面を想像して痺れた。
––––なんてかっこいい女性だったんだろう。富士子さんは。
「父はそんな母の姿を見て、ふたたび恋に落ちたそうだよ。そして母は、名実ともに父の嫁になった。これ以降笹野屋家とも縁が切れて、名古屋を離れ、大魔王山本権左衛門はつるさわに居を移したんだ」
「縁は切ったのに、笹野屋って苗字は残したんですね」
「父は人間の世界に戸籍がないからね。俺が生まれたことでいろいろ困って、そのまま笹野屋の苗字を使ったんだよ」
「なるほど。……あれ、でも。私、全然関係ないですよね。そのお話」
「それが関係あるんだよ」
「え、どの部分にですか?」
永徳は口角を上げ、佐和子を見つめる。
「母には実は、将来を誓い合った恋人がいたんだ」
「えっ」
「葵さんのお祖父様は名古屋のご出身だそうだね」
「そうですけど、まさか……」
料理人を目指していた祖父が、名古屋の料亭に住み込みで働いていたという話を佐和子は聞いたことがあった。
「どういうきっかけかまでは分からなかったんだけどね。彼らは恋に落ち、家族に隠れて逢引をして、愛を育んでいたそうだ。だがしかし、一族の中でとびきり容姿が良かった母に『山本五郎左衛門の嫁』の白羽の矢が立ってしまう」
バスの中で出会った時の、富士子の言葉が思い起こされた。
『いいわねえ。美しい盛りの時だもの。たくさん恋愛ができるわね。私も若い頃、忘れられない恋をしたものよ』
彼女の昔を懐かしむような、切ない表情が蘇る。
––––富士子さんはどんな気持ちで、山本五郎左衛門さんに啖呵を切ったんだろう。
そのまま養子に出してもらえたら、祖父と結ばれる人生もあったかもしれない。自分の幸せを築くことができたのかもしれないのに。
「なぜ、養子の話を断ったんでしょう……」
「自分のように不幸な思いをする人間を、これ以上出したくなかったんじゃないかな。そういう正義感の強い人だったんだ、あの人は」
庭を眺めていた永徳は、佐和子の方を振り向く。じっと見つめられると、なんだか落ち着かない。
「葵さんは、お祖父様似なのかな」
「はい、子どもの頃からよく、隔世遺伝だと言われてました……」
「……母は、君の顔を見て。かつて愛した男の面影を重ねたんじゃないかな。それで懐かしくなって、自分の自宅に呼び寄せた。……ついでに、結婚しそびれた愚息とうっかり結婚でもしてくれたらいいな、とでも思ってたんじゃないかね。若い時に結べなかった縁を……結びたかったんだと思うよ、葵さんのお祖父様との」
今はもうどうすることもできない、遠い昔の恋の物語を聞いて、佐和子は胸が締め付けられた。
「なんだか、切ないですね。富士子さんが、天国でうちの祖父に再会できているといいな……」
「そうだねえ。だからどうだい。うちに嫁に来ないかい」
「え。今の話でどうして『だから』になるんですか」
「いや、これも縁じゃないか」
「笹野屋さん、しつこいです」
「悪いね。お富の話で分かっただろう。血筋なんだよ、しつこいのは」
あっけらかんとそう言い放った永徳を見て、佐和子は吹き出した。
両手で口を覆いながら、笑いを止められずにいる佐和子を眺めながら、永徳はふたたび口をひらく。
「葵さん」
「……なんですか」
「あやかしの世界で働くって、決めたんだよね」
「そうですが」
佐和子のその言葉を聞いて、永徳は嬉しそうに頬を緩ませると、内緒話をするときのように、佐和子の顔に、自分の顔を近づけた。
「今日からは、真面目に口説くからね」
「は……」
上目遣いで青い瞳に見つめられて、佐和子は耳まで真っ赤になった。
慌てて逃げるように距離をとると、今度は永徳が吹き出す。
「じょ、冗談ですよね、笹野屋さん」
「冗談ではないよ、嫁候補殿」
二人の座る縁側に、暖かな風が吹く。
寒さに凍える季節を越え、芽吹き、美しく咲き誇った桜は、今、花散る季節を終えて、力強い青葉に命を漲らせている。
陽の光に照らされた日本庭園の大島桜は、青々とした緑の葉を風に靡かせていた。
<終わり>
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