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第二部 第一章 アマガエルの傘
人間の編集部員
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昨日までの雨模様が嘘のようにカラッと晴れた。梅雨の晴れ間に編集室の面々もそわそわしている。きっと今夜あたりは、飲みに出かけるあやかしも多いだろう。
「みんなちょっと、こっちを見てくれるかい?」
風鈴のような涼やかな声に、編集部の面々が編集長の方を振り返る。
そして全員固まった。永徳の横には人間が立っていたからだ。
「え、人間? おい、ぐうたら編集長。また人間を雇い入れたのかよ」
河童の宗太郎が不満げな顔をする。佐和子のときも一番最後まで不満を言っていたのが宗太郎だった。ハラハラしながら見守る佐和子に笑顔を向けつつ、永徳は新人の紹介をし始める。
「紹介しよう。彼は、春原周助くん。見ての通り人間だ。しばらく、アルバイトとして働いてもらうことになったから」
春原は、目をパチクリとさせながら、編集室内にいるあやかしたちの顔をまじまじと見ている。佐和子の頭には、自分がここに連れてこられたときの記憶が思い起こされていた。
––––あの様子じゃ、私のときみたいに、ほとんど説明もせずに連れてきたんだろうなあ。
同情の目を向けていると、永徳と目があった。すると彼は満面の笑顔を浮かべ、佐和子に向かって手招きをする。
––––やな予感が……!
「春原くんの指導係は、葵さんに任せるから」
「えっ」
まだあやかし瓦版編集部で働き始めてトータル三ヶ月に満たないのに。佐和子は咄嗟に頭を振る。
「ああ、まあ、同じ人間の方がいいだろうなあ」
頭をポリポリと掻きながら、興味なさげに宗太郎が言う。
「よかったわねえ、佐和子。後輩ができて」
刹那もそう言って首を引っ込め、机に向き直った。
他の編集部の面々も納得顔で、異論があるものはいないらしい。
「いや、えっと、私まだ半人前以下なんですけど。そんな、誰かの指導なんて……」
弱々しく抗議するも、永徳は申し訳なさそうに両手を合わせ、懇願するような眼差しを向けてくる。
「頼むよ。葵さん。君にしかできない仕事なんだよ」
「その言い方ずるいです……! わかりました、わかりましたから」
「さすが俺の嫁候補だねえ」
「だからそれやめてくださいって。嫁候補じゃないですし」
「あの……」
状況を見守っていた春原が、遠慮がちに声をあげる。
「やっぱり僕、ここにいては迷惑なのでは……」
悲痛な表情で視線を床に落とす春原を見て、佐和子は慌てて両手を振った。
「いや、違います! ごめんなさい、春原くんが嫌なわけじゃなくて。大丈夫! 大丈夫だから。これから、よろしくお願いします」
「……よろしく、お願いします……」
消え入るような声でそう言われ、佐和子は申し訳なさに身を縮こませる。
––––人間世界の社会人生活でさえ、後輩ができたことなんてないし。編集記者としてもダメダメなのに。新人さんの指導なんてできないよ……。
いたたまれない様子で頭を下げる新人と、眉間に皺を寄せながら斜め四十五度のお辞儀をする人間社員を交互に見比べると、永徳は含み笑いをする。
「葵さん、ちょっと」
春原を席に座らせると、永徳は佐和子を編集室の外へ連れて行き、声を落とす。
「え、今度はなんですか?」
「春原くんの体には触ってはいけないよ」
「ええ?」
––––なにを急に。
「触ったりしませんよ」
「それならいいんだけど」
つかみどころのない笑顔を浮かべると、永徳は襖の向こうの編集室に戻っていく。
––––あの笹野屋さんの感じは。
きっとまた、なにか企んでいる。
笹野屋永徳は、知らぬまに相手を術中にはめ、自分の意のままに動かす。
そういう人ちょっと厄介な人なのだ。
*
「春原くん、調べ物のお手伝い、お願いできるかな」
「あ……はい」
春原は、おとなしい若者だった。歳を聞けば、二十三歳だという。新卒で働き始めた会社を退職し、つるさわ川橋の近くでぼんやりとしていたところ、永徳に強引に連れてこられたらしい。
「笹野屋さんにはなんて言われて、ここに連れてこられたの?」
「いいアルバイトがあるから、やらないかって。業務内容は知らされずに。僕もぼやっとしてたので、いつの間にかここにきていて……。驚きました。まさか、本当にあやかしがいるなんて」
ああ、この人も笹野屋家の伝統芸の被害者なのだ。
永徳の亡き母である笹野屋富士子も、その息子である永徳も、少々強引で人の話を聞かないところがある。佐和子の場合は、結果として天職に巡り会えたし、楽しく毎日を送れているわけだが。この人は果たして大丈夫なのだろうかと心配になった。
「あ、ところで今朝お願いしたプレスリリースの仕分け作業は?」
「半分くらい終わりました」
「え、半分って。まだ終わってなかったの?」
「あ、はい……」
「一日百通くらいくるから、なるべく午前のうちに渡された分は捌くようにしてもらってもいい?」
「すみません……」
「あ、ごめん。いいのいいの。まだ見られてない分は、とりあえずもらうね。やっておくから。春原くんは調べ物の方をお願い」
「はい……」
なんというか、覇気がない。
新卒で入った会社をすぐやめてしまったというのもうなずける。
仕事のスピードはとても遅いし、自ら何か努力しようという気概が感じられない。指導を始めて一週間で、佐和子はイライラし始めていた。
––––これだったら、自分でやった方が早いのに……。
永徳はなぜ彼を雇ったのだろう。人間視点を活かした記事を増やしたいとは言っていたが、佐和子だけでは事足りなかったのだろうか。実際まだまだ数は出せていないし、望まれている結果には程遠いのかもしれないが。少なくとも春原のような新人が書けるようになるまでには、佐和子一人でもそれなりの数の記事を出せるようになっているはず。
モヤモヤとした気持ちが、表情にも出てしまう。
「すみません、僕、使えなくて……」
「え」
蚊の鳴くような声でそう言ったかと思うと、春原は突然嘔吐した。
なにが起こったのか一瞬分からず、固まる佐和子だったが。慌ててボックスティッシュを彼に渡し、口元を拭かせる。
「アタシ、拭くもの持ってくるわ!」
刹那が慌てて編集室を出ていく。
「だ、大丈夫ですか?」
ヴァンパイアのマイケルも慌てて立ち上がるが、過去に佐和子に危害を加えてから、迂闊に人間に近づくのを避けているのか、遠巻きに見ている。
「いや、私もよくわかりません……でも、気分が悪いみたい」
水以外口にしていなかったのか、吐瀉物に食べ物は混じっておらず、清掃はすぐに終わった。
少し横になったほうがいいと言う刹那に肩を貸され、春原は襖の向こうの和室へと姿を消していく。
––––今の、私のせい? 私が、強く言いすぎた?
何が悪かったのだろう。佐和子は決して、自分が無茶な要求をしたわけではないと思っていた。自分が入社して一週間でできていた内容だ。自分ができて、春原にできないわけがない。地方大学だが、彼は佐和子よりもずっと偏差値の高い大学を出ていた。
パソコンには、新着メールが来ていた。佐和子が執筆を担当した、アマガエルの広告記事のゲラの、修正内容を添付した顧客からのメールだった。
思っていたより指摘箇所が多く、口から長い息が漏れる。
––––先輩になったんだから、しっかりしないと。
ゲラを直して送り返したら、春原の様子を見に行こう。パソコンの画面を見つめる佐和子の眉根には、シワが寄っていた。
「みんなちょっと、こっちを見てくれるかい?」
風鈴のような涼やかな声に、編集部の面々が編集長の方を振り返る。
そして全員固まった。永徳の横には人間が立っていたからだ。
「え、人間? おい、ぐうたら編集長。また人間を雇い入れたのかよ」
河童の宗太郎が不満げな顔をする。佐和子のときも一番最後まで不満を言っていたのが宗太郎だった。ハラハラしながら見守る佐和子に笑顔を向けつつ、永徳は新人の紹介をし始める。
「紹介しよう。彼は、春原周助くん。見ての通り人間だ。しばらく、アルバイトとして働いてもらうことになったから」
春原は、目をパチクリとさせながら、編集室内にいるあやかしたちの顔をまじまじと見ている。佐和子の頭には、自分がここに連れてこられたときの記憶が思い起こされていた。
––––あの様子じゃ、私のときみたいに、ほとんど説明もせずに連れてきたんだろうなあ。
同情の目を向けていると、永徳と目があった。すると彼は満面の笑顔を浮かべ、佐和子に向かって手招きをする。
––––やな予感が……!
「春原くんの指導係は、葵さんに任せるから」
「えっ」
まだあやかし瓦版編集部で働き始めてトータル三ヶ月に満たないのに。佐和子は咄嗟に頭を振る。
「ああ、まあ、同じ人間の方がいいだろうなあ」
頭をポリポリと掻きながら、興味なさげに宗太郎が言う。
「よかったわねえ、佐和子。後輩ができて」
刹那もそう言って首を引っ込め、机に向き直った。
他の編集部の面々も納得顔で、異論があるものはいないらしい。
「いや、えっと、私まだ半人前以下なんですけど。そんな、誰かの指導なんて……」
弱々しく抗議するも、永徳は申し訳なさそうに両手を合わせ、懇願するような眼差しを向けてくる。
「頼むよ。葵さん。君にしかできない仕事なんだよ」
「その言い方ずるいです……! わかりました、わかりましたから」
「さすが俺の嫁候補だねえ」
「だからそれやめてくださいって。嫁候補じゃないですし」
「あの……」
状況を見守っていた春原が、遠慮がちに声をあげる。
「やっぱり僕、ここにいては迷惑なのでは……」
悲痛な表情で視線を床に落とす春原を見て、佐和子は慌てて両手を振った。
「いや、違います! ごめんなさい、春原くんが嫌なわけじゃなくて。大丈夫! 大丈夫だから。これから、よろしくお願いします」
「……よろしく、お願いします……」
消え入るような声でそう言われ、佐和子は申し訳なさに身を縮こませる。
––––人間世界の社会人生活でさえ、後輩ができたことなんてないし。編集記者としてもダメダメなのに。新人さんの指導なんてできないよ……。
いたたまれない様子で頭を下げる新人と、眉間に皺を寄せながら斜め四十五度のお辞儀をする人間社員を交互に見比べると、永徳は含み笑いをする。
「葵さん、ちょっと」
春原を席に座らせると、永徳は佐和子を編集室の外へ連れて行き、声を落とす。
「え、今度はなんですか?」
「春原くんの体には触ってはいけないよ」
「ええ?」
––––なにを急に。
「触ったりしませんよ」
「それならいいんだけど」
つかみどころのない笑顔を浮かべると、永徳は襖の向こうの編集室に戻っていく。
––––あの笹野屋さんの感じは。
きっとまた、なにか企んでいる。
笹野屋永徳は、知らぬまに相手を術中にはめ、自分の意のままに動かす。
そういう人ちょっと厄介な人なのだ。
*
「春原くん、調べ物のお手伝い、お願いできるかな」
「あ……はい」
春原は、おとなしい若者だった。歳を聞けば、二十三歳だという。新卒で働き始めた会社を退職し、つるさわ川橋の近くでぼんやりとしていたところ、永徳に強引に連れてこられたらしい。
「笹野屋さんにはなんて言われて、ここに連れてこられたの?」
「いいアルバイトがあるから、やらないかって。業務内容は知らされずに。僕もぼやっとしてたので、いつの間にかここにきていて……。驚きました。まさか、本当にあやかしがいるなんて」
ああ、この人も笹野屋家の伝統芸の被害者なのだ。
永徳の亡き母である笹野屋富士子も、その息子である永徳も、少々強引で人の話を聞かないところがある。佐和子の場合は、結果として天職に巡り会えたし、楽しく毎日を送れているわけだが。この人は果たして大丈夫なのだろうかと心配になった。
「あ、ところで今朝お願いしたプレスリリースの仕分け作業は?」
「半分くらい終わりました」
「え、半分って。まだ終わってなかったの?」
「あ、はい……」
「一日百通くらいくるから、なるべく午前のうちに渡された分は捌くようにしてもらってもいい?」
「すみません……」
「あ、ごめん。いいのいいの。まだ見られてない分は、とりあえずもらうね。やっておくから。春原くんは調べ物の方をお願い」
「はい……」
なんというか、覇気がない。
新卒で入った会社をすぐやめてしまったというのもうなずける。
仕事のスピードはとても遅いし、自ら何か努力しようという気概が感じられない。指導を始めて一週間で、佐和子はイライラし始めていた。
––––これだったら、自分でやった方が早いのに……。
永徳はなぜ彼を雇ったのだろう。人間視点を活かした記事を増やしたいとは言っていたが、佐和子だけでは事足りなかったのだろうか。実際まだまだ数は出せていないし、望まれている結果には程遠いのかもしれないが。少なくとも春原のような新人が書けるようになるまでには、佐和子一人でもそれなりの数の記事を出せるようになっているはず。
モヤモヤとした気持ちが、表情にも出てしまう。
「すみません、僕、使えなくて……」
「え」
蚊の鳴くような声でそう言ったかと思うと、春原は突然嘔吐した。
なにが起こったのか一瞬分からず、固まる佐和子だったが。慌ててボックスティッシュを彼に渡し、口元を拭かせる。
「アタシ、拭くもの持ってくるわ!」
刹那が慌てて編集室を出ていく。
「だ、大丈夫ですか?」
ヴァンパイアのマイケルも慌てて立ち上がるが、過去に佐和子に危害を加えてから、迂闊に人間に近づくのを避けているのか、遠巻きに見ている。
「いや、私もよくわかりません……でも、気分が悪いみたい」
水以外口にしていなかったのか、吐瀉物に食べ物は混じっておらず、清掃はすぐに終わった。
少し横になったほうがいいと言う刹那に肩を貸され、春原は襖の向こうの和室へと姿を消していく。
––––今の、私のせい? 私が、強く言いすぎた?
何が悪かったのだろう。佐和子は決して、自分が無茶な要求をしたわけではないと思っていた。自分が入社して一週間でできていた内容だ。自分ができて、春原にできないわけがない。地方大学だが、彼は佐和子よりもずっと偏差値の高い大学を出ていた。
パソコンには、新着メールが来ていた。佐和子が執筆を担当した、アマガエルの広告記事のゲラの、修正内容を添付した顧客からのメールだった。
思っていたより指摘箇所が多く、口から長い息が漏れる。
––––先輩になったんだから、しっかりしないと。
ゲラを直して送り返したら、春原の様子を見に行こう。パソコンの画面を見つめる佐和子の眉根には、シワが寄っていた。
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