勇気をください。

橘 志摩

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35.お互いの緊張

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「………………………………いや、何言ってんのお前」

 彼が私の言葉に反応するまで、とても長い間が合ったと思う。
 その長い間の後に言われた言葉に、私の顔の温度はさらに上がって、ますます彼の胸板から離せなくなった。
 けど、口に出した言葉に後悔も嘘もない。

 拒絶されたら怖い、その気持ちはあるけれど、もう言ってしまった。月村さんもその言葉の意味を理解している。
 今更取り消しなんて出来ない。

「…………萌」
「だっ! だって! わ、わわ私だって実感ないんですもん!」
「……あのな、そういうことじゃなくて。……お前は初めてだろ。そんな勢い任せじゃなくたって……」
「いっ勢い任せじゃなかったら、もうこんな勇気出ないもん!」
「萌、あのな、」
「だっダメなんですか? 私、今、ちゃんと月村さんの彼女になりたい。月村さんが私の彼氏ですって、ちゃんといえるようになりたい、って、思っちゃ、ダメなんですか………?」

 そう言い切って、また彼の身体に抱きつく腕に力を込めた私に、彼は深くため息をついたようだった。
 静かな部屋に響いたやけに大きく聞こえるその音にビクリと恐怖で肩が震えてしまう。
 けど、まだ離すことは出来なくて、彼の顔を見る勇気がなくて、やっぱりその胸板に顔を埋めたままだ。

「――なんなんだよ、人がせっかく気使ってやってんのに……リミッター外したのは、萌だからな」
「……え……? わっ!」
「もう知らん。お前がどれだけ嫌がっても怖がっても止めてやらねえから」
「ぁ……う……」
「今更、やっぱり嫌だってのも、受け入れない」

 私の身体を軽々と抱き上げたその人は、真っ直ぐな視線を私に向けていて、その熱の熱さに心臓がまた1つ大きな音を立てた。
 月村さんが、その気になってくれたのだとわかって身体は一気に緊張してしまう。
 男の人の本気を感じて咄嗟に逃げたいと思ってしまったが、その弱気な感情はすぐに打ち消した。
 自分から言い出しておいてやっぱり嫌ですなんて、言えないし、言いたくないし、彼もそれは許さないときっぱり言い切った。
 これ以上自分を情けないと思いたくない。彼を怒らせることも嫌だ。
 だが、ただひとつだけ、受け入れて欲しい事が胸に浮かぶ。
 自分の初体験がどんなものかとか、そんなことを想像する余裕はなかったけれど、この時にそれを思い出せたのは私にとって幸運なことだ。月村さんが、受け入れてくれるかどうかは、願い出て見なければわからないことだが。

 私は彼の首に腕を回してギュッと抱き着いてから、小さく深呼吸をした。

「……ぁ、あ、の、」
「何?」
「に、逃げたり、やっぱり嫌だとか、言わないです……。け、けどあの、」
「……うん?」
「………………シャ、シャワーだけは、あ、浴びさせて貰えませんか……っ」

 言い切ってから、恥ずかしさのあまり、肩口に顔を埋めた私に、彼は一瞬だけ固まって、小さく笑ってから、私の身体を床に下ろした。

「……悪い。そこまで気が回らなかった」
「……い、いえ、あの、私も、わ、ワガママ、言ってごめんなさい……」
「お前のそれは、全然ワガママなんかじゃねぇよ。謝らなくていい。……浴室は洗面所の隣のドアな。バスタオルもそこにあるの好きに使っていい。着替えは俺の貸してやるから」
「……は、はい……っ」
「……俺はちょっと出てくるから、好きなだけ入ってこい」
「えっ……ど、どこに……っ」

 シャワーを使わせてもらいたいとわがままを言ったのは私だが、てっきり待っていて貰えるのだと思ってた。
 これから出掛けるなんて、寂しさと焦りを一気に感じた心の声は、そのまま表情に出てしまっていたのだろう。
 苦笑した月村さんは、私の頭を優しく撫でて、「コンビニ行くだけだ」と教えてくれた。

「すぐ帰ってくる。……いくらなんでも、萌を大事にしないのは俺の選択肢にはないからな」
「……え?」
「頭、ちょっと冷えたから、そうがっつかないし、焦ってもない。……ただゴムないから、それはまずいだろ」

 少し照れくさそうにそう言った彼の言葉を理解して、私は音が出そうなほど顔を赤くした。

「……いらない? それならそれで、俺はいいけど。ご両親にはいつ挨拶に行けばいい?」
「いいいいります! いる! ありがとうございます!」

 とてもじゃないが、彼が冗談を言っているようには見えなくて、真っ赤な顔のまま焦ってそう返事をすると、彼はおかしそうに笑って、クシャっと私の頭を撫でた。

「――ほら、早く入ってこい。着替えは出しとくから」
「……は、ハイ……」

 優しく促されて、私は素直に浴室に入った。

 初めて入った月村さんの部屋のお風呂は私の部屋みたいなユニットバスではなく、ちゃんとバストイレ別の、独立した浴室になっている。脱衣場まであって、洗濯機が置いてあり少し狭いが身体を拭いたり着替えたりするには充分なスペースになっている。

 そこに足を踏み入れただけなのに、本当に泊まるんだと、急に実感が湧いてきて、服の留め具を外す手が震えてしまう。
 何度も深呼吸を繰り返して、やっと服を脱ぎ終わった時、玄関の閉まる音が聞こえて、彼がコンビニ向かったのだと気が付いた。

 浴室のドアを開いてシャワーを出すと、温かいお湯が出てくる。
 いよいよ迫ってきたその時に心はどんどんと緊張で固くなっていってしまう。

 少しでも気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸を繰り返して、身体にお湯をかけた。
 シャワーを浴び始めてから、化粧はどうしたら、とか、髪の毛は、下着の替えはなんて色々と不安要素が出てきてしまうが、今更どうしようもできない。

 とりあえず、恥ずかしくない程度に身体を洗って、化粧は出てからもう一度すればいいだろう。
 服の替えは彼が貸してくれると言っていたし、問題は下着だが、今つけていたものを付けるほか選択肢はない。

 色々と考えなきゃいけないことが多すぎて頭がパンクしそうだけれど、彼が帰ってくる前にお風呂をでないと、化粧もし直せない。

 私は急いで身体を清めて、それなりに急いでお風呂を上がったとき、入る前にはなかったはずの、真新しいバスタオルと、その上に白いシャツと男物の短パンが置いてあって、彼がもう帰ってきたのだと察した。

「あぁあ……!」

 化粧道具の入ったカバンはリビングに置きっぱなしだ。このままではすっぴんを見られることになってしまう。
 がっくりと項垂れたが、今ここで素っ裸のまま立ち尽くしているわけにもいかない。彼が帰ってきているなら尚更だ。
 どうしようかと頭を悩ませながら身体を拭いて急いで着替えてから、そっと浴室から出た。

 ガラス戸の向こうには誰の姿も見えない。あれ? と首を傾げたが、今がチャンスかもしれないとドアを開けると、「もう出たのか」と声をかけられて肩がびくりと跳ねた。

「もっと長いかと思ってた。……萌?」
「い……っいないかと……っ」

 スッピンを見られたくなくて、必死で顔を背けると不思議に思ったのだろう月村さんは追いかけてくる。
 必死で逃げていたのに、月村さんはぐっと私の肩を掴んで身体の向きを変えさせられた。

「……なんで逃げてんの?」
「だっだだって、私まだ化粧してないから……っ!」
「……そんなこと気にしてんの? 別に変わんねぇよ。いつもどおり可愛い」
「……っ……そ、そんなこと……っ」
「ふーん、じゃあちょっとよく見せろよ。可愛いって言ってやるから」
「なっなんでそんなことするんですか! 私さっきいわれ慣れてないっていったじゃないですか!」
「顔赤くしてるお前可愛いから仕方ないだろ。……まぁそれより、腹減ったろ? 飯買ってきたから、先に食べよう。手作りじゃなくてごめんな」
「え、あ、は、はい……」

 どうやらからかうのはやめることにしてくれたらしい。ポンポンと頭を軽く叩かれて、ソファに座らせられた。
 テーブルにはコンビニのおにぎりやサンドウィッチが並べられていてお茶とジュースも何本か置かれている。
 明らかにふたり分以上あるその量に、チラっと彼の顔を見ると、なんだか気まずそうに視線を逸らされた。

「……色々考えてたら買いすぎたんだよ」

 緊張してんのお前だけじゃないんだぞ、と続けた彼の言葉に、私は肩を縮こまることしか出来なかった。



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