勇気をください。

橘 志摩

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34.最後の勇気

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 押し付けられるだけのキスは、優しくて静かなものだった。
 唐突に始まったそれはあっけなく離れていって、彼の吐き出した吐息が私の唇にかかる。
 その熱を感じ取って、一気に頬が熱くなった。

 キスだって初めてのことだ。その感触を味わったことがなくて、本当にキスしたんだと思うと、恥ずかしくて彼の顔を見られない。
 どんな言葉を発すればいいのかわからなくて、顔を赤くしたままただただ視線を床に落としている私に、彼がコツンと額を当てる。
 顎にかかった指が顔を上げるように促して、かけられた力はほんの少しだけなのに、逆らえない。

 至近距離で重なった視線に一気に羞恥心がこみ上げたが、息を飲み込んで逃げ出したい気持ちを必死で堪えた。

「……怖くないから」
「……は……はい……っ」
「……口、開けて」
「……は……はぃ……っ」

 彼に言われるまま、震える唇をそっと開くと彼はまた優しいキスをくれた。
 だが先ほどの押し当てるだけのものではなくて、開いた唇の隙間から柔らかくて温かいその人の舌が口内に入り込んできて、その感触に驚いて肩がぴくりと跳ねてしまう。
 その反応を見越していたのか、彼は私の手に指を絡めて、ぎゅっと強く握り、腰に回った腕が私の身体を抱き寄せた。

「ん……っん、ぅ……っ」

 歯列をなぞられ、口内をくまなく触れていく舌に身体が震えてしまう。
 縮こまっていた舌に触れて、そっと絡め取られ、擦り合わされたその瞬間、信じられないほど甘美な感覚が背中を走り抜けていった。

「ふ、ぅ、んん……っン……っぁ……っ」
「……萌……」

 上唇と下唇を交互に吸われ、再び口を塞がれる。
 先程よりももっと激しく舌を絡め取られ、強く擦り合わされる。
 次々に与えられる刺激は今までに経験したことのないもので、私はただされるがままだ。
 身体から力が抜け落ちて、彼の腕が支えていてくれなかったらきっと、その場であっという間に崩れ落ちていただろう。
 手を握ってくれている彼の手を握り返して、縋るように、彼の背に回した手に力を込めた。

「……ん、ン……っ」

 舌をそっと解かれて、最後に音を立てて離れていった彼の唇はどちらのものかわからない唾液で濡れている。
 そのことが恥ずかしくて、見ているだけで心臓がどうにかなってしまいそうで、私は顔を隠すように彼の胸に頬を押し当てた。

「……萌、可愛い」
「……い、今は、そ、そういうの、い、いい言わないでください……っ」
「……なんで? 恥ずかしいから?」
「いっ言われ、慣れてないんです……っ」

 彼の楽しげな声に言い返すことはできるが、まだ顔は見れない。
 繋いでいた手を解いて、両腕で彼の背中に腕を回してぎゅっと抱きつくと、その人の腕もその力に答えるように私の身体を抱きしめてくる。
 恥ずかしいと思うのに、離れたくない。
 その場所が一番落ち着く場所だと、自分でわかっていたような気がする。
 ほっと小さく息を吐くと、彼の大きな掌が私の頭をそっと撫でて、額にキスを落とした。

「……あんま可愛いと、この場で押し倒すぞ」
「……えっ」

 その言葉の意味がわからないほど子供ではないし、純情でもない。中途半端に得た知識ではあるが、彼が何を求めているのかすぐに分かって、顔が今まで以上に熱くなった。

「……冗談だよ。ちゃんとわかってるから、……今は、萌が俺の事好きだって自覚してくれただけで十分だ」

 そう言って離れていく身体が寂しいと思った。
 まだくっついてたいとさえ。

 確かに、こんなにいきなりそれを初体験するのはまだ怖い。
 怖いけれど、月村さんが私に触れるとき、必ず優しいと私はもう知っている。

 離れていってしまう温もりをつなぎ止めるように、慌てて彼のシャツをきゅっと掴んだ。

「……ま、まだ、傍に、いちゃ、ダメですか……」

 必死で出した声は震えていて、なんとも情けない。
 だが彼は、嬉しそうに笑って、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「ダメだなんて言ってない。俺も同じだよ。まだ帰す気ない」
「……っ……そ、そう、なんですか……っ」
「そうです。ただいつまでもここにいるわけにもいかないだろ。お前の身体冷やして風邪ひかせたくない。……それとも、中までお姫様だっこで運んでやってもいいけど。そのほうがいいか?」
「っ自分で歩けます!」

 明らかにからかう声色で訪ねてきた彼に、私は顔を真っ赤にしたまま言い返して、自分の足で、彼の家に足を踏み入れた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ソファに座ることを促されて、どこか緊張した心のままでどうにも落ち着かない。
 そんな私の前に、彼は温かいコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
 隣に腰を下ろしたその人の距離は、今まで以上に近い。触れる肩から自分のものではない温もりが伝わってきて、そのことにまた緊張してしまう。

 ぎこちなくコーヒーの入ったカップに口をつけて、ほっと息を吐いた私の反応をみながら、月村さんは小さく笑って、私の手の中からコーヒーを取り上げていってしまった。

「……ぁ……っ」

 そのカップはテーブルに置かれて、彼の身体がまた少し近づいて、お互いの身体の間に本当に少しだけあった隙間がなくなってしまう。
 今にも触れてしまいそうな身体に新z脳の音が耳の裏側にまで大きく響いている。

「……このままキスしたら、お前コーヒー零しそう」
「……す、する、んですか……っ?」
「したい。萌は、俺とキス、したくない?」

 耳元に口づけながら、そんな甘い声で問いかけてくるのはずるいと思う。
 経験したことのない甘さに頭が沸騰してしまったかのように熱くて、真っ白で、何も考えられない。

 だが彼の言葉を否定することも拒絶することもできなくて、小さく首を振ってから、ぎゅっと彼のシャツを握りしめた。

 その手を彼の大きな掌がぎゅっと包んで、再び唇が重なる。
 ぐっと肩を抱き寄せられて、私は彼の与えてくれるキスに翻弄されてしまう。

 自分の口から溢れる甘い声も、彼が撫でてくれる身体も、握られてた掌も全部恥ずかしいのに、それが嬉しい。

 まるで全身が血管になったかのように響く鼓動の音に少しの焦燥感は感じるものの、今度は混乱することもない。ただただ彼のキスを受け止めて、幸せだと思う気持ちを感じている。

 まだ、実感はないけれど、それでも、こうして慈しむような愛情を伝えてくれるようなキスを与えられて、少しづつ少しづつ気持ちが落ち着いていく。

 解かれた唇にはっと息をこぼして、力の抜けた身体を彼の胸にもたれ掛からせて乱れた呼吸を整えることに集中していると、彼がポンポンと優しく背中を撫でてくれた。

「……なんか、不思議だな。もっと時間かかるって思ってたから」
「……え……?」
「だって萌、自分に鈍感だろ。それわかってたからな。もっと時間かかると思ってた。だから、俺もいまいち実感ない。萌が俺のこと好きだって言ってくれたってな」

 どこか照れくさそうに笑ったその人に、胸が痛いほど締め付けられて、彼がどれほど自分のことを考えて気を使っていてくれたか悟って、いてもたってもいられなくて、その身体にぎゅっと強く抱きついた。

 彼は楽しそうに笑って受け止めてくれるが、いつまでも待たせたままでいいのだろうかと小さな疑問が胸に沸く。

 確かに怖い。どうなるかがわからなくて怖いし足がすくんでしまう。

 けれど、それ以上に、私も、実感したかった。
 彼に、月村さんに、好きだと言ってもらえて、想いが通じたのだと、そう実感したかった。

「……ぁの……、つ、月村さん……」
「うん?」

 彼の指は、楽しげに私の髪の毛を梳いている。
 腰に回った腕はそのままだ。

 顔を見られるのが恥ずかしくて、彼の身体に顔を強く押し付けて、ぎゅっと腕に力を込めた。

「……きょ、……今日、こ、こここ、ここ、と、と泊まっていっちゃ、だ、ダメですか……っ」

 残っていたありったけの勇気を出して、そう口にしたその時、ぴたっと、彼の手が止まった。


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