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第三章 運命の人

70 発つ報せ

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 まず、耳に入ったのは鳥の声。白々とした朝日が差すなか、薄い垂れ布越しに天井を仰ぐ。

「熱、さがった……」

 チュンチュン、チチチチ……と、雀のような鳴き声。すごく長閑だ。

 ふと、南公カリスト領の家を思い出し、(お父様、どうしてらっしゃるかしら)と案じてしまった。

 案じた分だけのホームシック。
 寂しい分、今生に愛着がある。



   *   *   *



 昨夜はやはり晩餐会と懇親会があったらしい。イゾルデ・ジェイド公爵から見舞いとして差し入れられた色つやのいい林檎をシャリシャリと剥きながら、サリィがほっと表情を寛げている。

「大事なくて、本当にようございました。お医者様の見立てでは、特に体がつらくなければ明日から普通に動いても大丈夫と」

「今日は念のため?」

「そうですね。はい、どうぞ」

「わ。ありがとう」

 食べやすいよう、皮を剥いて一口大に切った林檎とフォークをつけて渡してくれたサリィににっこり微笑むと、とたんに残念そうな顔をされた。

「なに?」

「いえ。どうして姫様のそのかんばせを今、見つめているのが私なのかと」

「…………っ、ごふっ?!」

 けふけふ、と咳き込むヨルナの背を撫でながら、サリィが謝罪を連呼する。
 そこで扉がノックされた。

 現れたのは朝食を終えて戻ったミュゼルと
彼女の侍女。それに。

「っ、アーシュ様。ルピナスも」

 ――――ご っ く ん。
 喉に引っ掛かっていた林檎のかけらを勢いで嚥下えんかして、涙目で突っ伏した寝台から見上げたが、答えがない。

「? ……???」

 なぜか無言で凝視してくる二人にひたすら疑問符を浮かべていると、一人、ミュゼルだけが冷静に口上を述べた。

「――ただいま、ヨルナ。大丈夫? さっき、食堂を出たらエントランスでお会いしたの。お二人そろってお見舞いに来たと仰るから、仕方なくお連れしたのだけど……どうする? 乙女の心をいたずらに引っ掻き回すだけでしたら、帰っていただきましょうか」

「なぜそうなる」
「遺憾です。ミュゼル殿からそんな扱いを受けるいわれは、ないはずだが」


「ふっ……、フフフフッ!」

「? ヨルナ?」

 堪えきれず、体を折って吹き出すと、全員からおやおやと視線を向けられてしまった。それが余計におかしくて、つい、また笑ってしまう。
 いつのまに皆、こんなに仲良くなったのだろう? ちょっとばかり、昨夜寝込んでしまったのが悔しくなった。

 ――――悔しくなった分だけ、きっと元気なのだ。

(よしっ)
 ひとしきり笑い終えたあとで息を吐くと、目尻にたまった涙を指で拭いとる。ヨルナは一同に「失礼」と断り、寝台を降りようとした。

「! 姫様」
「起きて平気ですか?」

 サリィとアストラッドがほぼ同時に気遣わげな声をかける。
 後背の大きな窓から光を受けたヨルナは、にこり、と微笑んだ。

「少々お待ちくださいませ。熱も下がりましたし、せめて普通の部屋着に着替えて参ります。――ミュゼル、あなたの侍女にお茶の準備をお願いしてもいい?」

「いいわよ」

「サリィは支度を手伝ってくれるかしら」

「仰せのままに」

 ひた、と裸足で床につくのをちょっと気恥ずかしく思いつつ、ヨルナは上掛けを胸元に引き寄せたまま、アストラッドとルピナスに願い出た。

「その……。衣装室のある次の間に移動するのに、寝巻きのままなので。を向いていていただけますか? ………………明るい部屋では、その、透けるかも」

「! りょ、了解」
「わかりました」

 心持ち頬を染めたルピナスと、動じずに頷いたアストラッドが同時に回れ右をする。
 くすくす、と笑うミュゼルがおかしそうに「あら、お二人とも。さっきまではすごく強引でしたのに。土壇場ではすこぶる紳士ですこと」と揶揄からかった。



   *   *   *



「まぁ。ユウェン様が」

 最短準備できっかり十五分。意外にも令嬢らしからぬ手早さで身支度を整えたヨルナは、若草色のロングワンピースをまとって応接用のソファーに腰を下ろしていた。

 普通に過ごす分には問題ないと察した三名も、徐々に普段通りの距離感となる。
 カチャ、と受け皿にカップを戻したアストラッドがまぶしそうにヨルナを眺めた。

「はい。なんでも、くだん竜人ドラゴニュートらが住まう“竜の谷”と呼ばれる大渓谷には一族の長が棲んでいるらしく。当代魔王であるユウェン殿に心酔しているそうなのです。『俺が行ったほうが話が早い』と」

「そうなのですか……。それでは、アーシュ様も近々発たれるのですか?」

 眉尻を下げて問うと、嬉しそうに目を細められる。

「心配してくださるのですか」
「! えっ、あ、う……あああの」

「…………」

 しどろもどろと声を上ずらせるヨルナに、にまにまとするミュゼル。すぅ、と目が据わるルピナス。三者三様のありさまを、涼しい顔で受け流す二人の侍女がいる。

 膠着状況を、しょうがないなとため息混じりの苦笑に切り替えたミュゼルは、こほん、と可愛らしく咳払いした。

「それでね。今回の会談の報告のために小型竜メッセージドラゴンを王都に飛ばすのですって」

「報告」

「そう。現状、魔族側の使節と称する護衛団と、僕たち二人で旧エキドナの民が住まう村落に向かうけど。そのなかにユウェン殿がいたこととか、日程とか。戻りの便には陛下ちちからの書状なり何なり、持たせてもらうことになる」

 それまで無言を通していたルピナスが、公的な話題でようやく肩の力を抜いた。眉間のしわをぐりぐりと指で伸ばしている。

「そういうこと。手ぶらでいきなり喧嘩腰に行くわけにもいかない。名目とか、そっちの孫娘と仲間がいるってことも穏便に伝えないと――で、ヨルナ。私も竜の谷には同行するし、なんなら心配を通り越して求婚プロポーズの返事を聞かせてくれてもいいんだけど」

「あ、……えっ!!?」


「…………求婚?」

 ひときわ声を低めたアストラッドに再びヨルナがおかしな顔色になったとき。

「「「あ」」」


 キュオォォォォン……と、尾を引くように鳴き声が響いた。ひらいた窓から鋭く羽ばたく音も。

 飛び立つときは、必ず鳴き声をあげるという。
 小型竜が、南東へと飛び立った。



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