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第1章 婚約破棄に至るまで
44.綻びはじめた感情
しおりを挟む『リーシュ!』
名を呼ばれ、そちらを振り返った小さな女の子は、瞬時にパッと顔を輝かせると、そのひとに向かって一生懸命に駆け出していった。
するとそのひとは、それに応えるために少し身を屈ませ、勢いがついたままの女の子をぎゅっと抱きしめると、一つ頬に優しいキスを落とした ——。
***
ーーああ、酷く頭が痛い。
心臓の鼓動に呼応するように、リシュベルのこめかみはズキズキと鈍い痛みを感じた。
目が覚めたリシュベルの目に映ったのは、いつもと同じ見慣れた天井。いつか朽ち果てて落ちてしまうのではないかと思っていた古びた木で作られた自室の天井には、いくつもの雨漏りの跡が残っていた。
鈍い痛みを受け入れながらも、しばらくぼーっとしていたリシュベルは、いつまで経っても消えてくれない痛みに耐えながらも寝台からそっと身を起こした。
「⋯⋯っ」
身体を起こした拍子に一瞬、スキンッとした痛みがリシュベルの頭を襲う。
我慢できない程の痛みではなかったので、リシュベルはこめかみに手をやり、ただただ痛みが過ぎ去るのを待とうとした。
そのとき、ふと自分の頬が濡れていることに気付いた。
「⋯⋯え? ど、うして⋯⋯。どうして私、泣いてなんかっ」
自分が泣いていることに気付いたリシュベルは酷く動揺した。訳もわからず自分が泣いていることもそうだったが、何も感じなくなっていたはずの心が、とても苦しくて苦しくて仕方がなかったのだ。
自分でもどうしてか分からない哀しみを自覚した途端、その想いは一気に胸から迫り上がり、リシュベルの喉元へと到達すると行き場をなくした哀しみは出口を求め、今にもリシュベルの唇から飛び出してしまいそうだった。
だが、心の赴くままに感情を曝出すことなどできはしない。
たとえ心の赴くままに感情を曝け出したとて、それが何にもならないことなどリシュベル自身が一番良く分かっていた。
この家で行われてきた虐待としか言いようのない暴力に、リシュベルは幾度となく泣き叫んできた。だが、ついぞ救いの手が差し伸べられることなどなかったのだ。
だから、リシュベルは、良く分かっていた。
涙を流したとて苦しみは決して消えてなくならないことを。
泣き叫んだからとて、誰も助けには来てくれないことを。
痛みも苦しみも哀しみも。どれ一つとして、決して誰にも届かないことを——。
リシュベルに出来たことはたった一つだけ。
人前で無様な格好を晒さぬように。誰にも触れられない、自分自身でさえ触れることのできない、ずっとずっと胸の奥深くに仕舞い込むことだけ。そして、その感情が二度と出てこられないように、しっかりと己の心に鍵をかけることだけだった。
何故なら、リシュベルの苦痛に歪み、泣き叫ぶ様は継母やマリエルを悦ばせるだけで、己の身に受ける責めがさらに酷くなることが分かっていたからだ。
それなのに ——。
今まですんなりとできていたことが、今のリシュベルにはできない。
「⋯⋯っ。お、ねがい。お願いだから、出てこないでっ」
必死にそう願うも虚しく。
今回ばかりは、どうしてかそれができない。
止めなければいけないことなど百も承知のはずなのに、今のリシュベルには、ただただ流れ続ける涙を止めることができなかった。
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