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第8話 逆回しのフィルム②
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考えている。彼女との馴れ初めを。
それは無声映画の早送りのようなものだった。
出会った時彼女は、白いワンピースに大きなハットという、まるでこの世とは思えない恰好をしていた。
それがやたら目立っていて、話しかけた時には、そのスタイルが、彼女なりの、色々なことへの反抗であると知った。
彼女は映画が好きで、でも、その『好き』が、他の誰とも相容れなくって。
僕はと言えば、親戚のコネで就職が決まっていたから、他のみんなから妬まれていて。
必然、孤独な者どうし、惹かれ合ったのだった。
カット割り、カット割り、カット割り。映画のような。
出かけた時。
空色の光を受けながら、その縮れた髪の輪郭が光って見えた。
頬のうぶげが、このうえなく可愛く思えた。
はにかんだときの歯。
ちょっと早足の彼女に、一生懸命ついていく、それから、彼女の好きな、古いお寺とかを、一緒に回って、カメラをまわして。
いちいち何を言ったかなんて覚えてない。
でも確かなのは、ふたりとも海のない陸の県出身で、そこから出たことがないということ。
いまは県境をこえるのにも、証明書が必要な時代だ。
だからいつしか二人で、外に行こうと、そんなことを言ったように思う。
今にして思えば、そこまで急務でもないし、切望しているようなことでもなかった。
でも、それをなんとなく、二人の『いつか』にしているだけで、共に過ごしていけるような気がしたのだ。
僕らの間は、それで十分だった。
彼女は僕と一緒に居ると笑ってくれるし、僕は彼女のそんな顔が、たまらなく好きだった。
早送り。
早送り。
フィルムが進むと、今に近づく。
いま。
◇
「ああああああああああああああああああ、ああああああああああああああっ」
彼女は叫んでいる。喉の奥が張り裂けそうになるぐらい。
そして、周りのものに当たり散らす。
テーブルの上にある皿を投げ捨てると、壁にあたって割れて、まだ残っていたおかずがベシャベシャになって垂れる。
それで満足せず、次は枕を引っ掴み、何度も何度も床に叩きつける。
その時皿の破片で出来た裂け目から羽毛が飛び出て、舞い上がる。
それから身をねじ切るようによじりながらベッドに半身を投げ出して、頭をバウンドさせながら打ち付ける。
身体が、魚みたいに跳ねる。僕は止めようとして彼女のそばに行くが、突き飛ばされる。尻餅をつく。
「凪、落ち着いて、落ち着いて」
「あああああああ、死ね、死ね、しんじまえ、どうせ考えてないんだろ、オ×××するしか考えてねぇんだろ、カスどもが、去勢しろ、クソにまみれろ、カスが、カスが」
面白いぐらい声が裏返るし、髪が抜けまくる。
頭を執拗に打っているせいで明らかに痛がっていて勢いがだんだん弱まっていく。
耳とまぶたの隙間から、甲虫が這い出ているのが見える。
孔が、鼻より上の位置にたくさん開くと、彼女はこうなる。数週間ぶりだった。前回は、どう処理したっけ。
「死ね、死ね、死ね、あんたもそうなんでしょ、ヤれればいいって思ってる、終わったらほっとけばいいって、そのまま腐っちまえって思ってる、ほら、そうだって言えよ、この野郎、誰だあんた、あんたなんか知らない」
内側からの虫のせいで表情はひどく醜悪に見えた。まるで老婆だ。
腕を伸ばして、僕の衣服を掴む。少しだけ後ろに引き下がる。
前のめり気味に、シーツごと床に倒れそうになる。僕はそれを支えて、フローリングに横たえる。
はざまから、また虫が這い出てくる、フローリングの上で、あらん限りの罵詈雑言を吐き散らしながら、ばたばたと手足を動かしている。
僕は、立て掛けていたちりとりとほうきを床に置いたあと、キッチンに向かい、戸棚からクスリと注射器を取り出す。
説明書をよく見ながら、薬液を注射器に満たす。
電灯をつけず、なるべく他の音を聞かないようにして、慎重に。
次に、手順を口に出しながら復習する、失敗するとよくないから、念入りに。
彼女のところに向かう、彼女は白目を向きながら、口の端に甲虫がついていることも気付かずに叫んでいる。
「げぁげぁげぁげぁ、げぁぁぁぁ死ね、しねしね、し、ねぇ」
ドアベルが何度も鳴っている。何度も何度も、何度も。
数十分後、彼女は嘘みたいに楽しそうな顔をして、僕に話しかけていた。
腕の注射痕には気付いておらず、映画の話をする。
「それでね、その映画は、その俳優の頭の中に入ることが出来るの。監督は元々MTⅤの人で……」
僕が返事をしないでいると、彼女は不安そうな顔になって覗き込んでくる。
「しーくん、ごめん、楽しくなかった? 他の映画の話する? ごめんね、最近この監督のやつの話ばっかで…」
「いや、いいよ……大丈夫、ありがとう」
僕は顔を寄せて、その頬にキスをする。
「ほんと、ありがとう。それでね……」
彼女はまた話しかけてくる。
彼女は気付いていない、僕があの後、隣に住んでいる男に、玄関先に殴られたことに。
そのせいで頬が腫れていることに。
でも、いいのだ、それで。
彼女は楽しそうにしている。何も苦を知らない子供のように。
それでいい。僕は彼女を愛している。
唇の端をぬぐう、血がついている。
赤い血が。それを握り込んで隠し、彼女の顔を見た。
彼女の顔は、変わらずかわいかった。
ただ、歯が少し、いつもより目立って見える――。
それは無声映画の早送りのようなものだった。
出会った時彼女は、白いワンピースに大きなハットという、まるでこの世とは思えない恰好をしていた。
それがやたら目立っていて、話しかけた時には、そのスタイルが、彼女なりの、色々なことへの反抗であると知った。
彼女は映画が好きで、でも、その『好き』が、他の誰とも相容れなくって。
僕はと言えば、親戚のコネで就職が決まっていたから、他のみんなから妬まれていて。
必然、孤独な者どうし、惹かれ合ったのだった。
カット割り、カット割り、カット割り。映画のような。
出かけた時。
空色の光を受けながら、その縮れた髪の輪郭が光って見えた。
頬のうぶげが、このうえなく可愛く思えた。
はにかんだときの歯。
ちょっと早足の彼女に、一生懸命ついていく、それから、彼女の好きな、古いお寺とかを、一緒に回って、カメラをまわして。
いちいち何を言ったかなんて覚えてない。
でも確かなのは、ふたりとも海のない陸の県出身で、そこから出たことがないということ。
いまは県境をこえるのにも、証明書が必要な時代だ。
だからいつしか二人で、外に行こうと、そんなことを言ったように思う。
今にして思えば、そこまで急務でもないし、切望しているようなことでもなかった。
でも、それをなんとなく、二人の『いつか』にしているだけで、共に過ごしていけるような気がしたのだ。
僕らの間は、それで十分だった。
彼女は僕と一緒に居ると笑ってくれるし、僕は彼女のそんな顔が、たまらなく好きだった。
早送り。
早送り。
フィルムが進むと、今に近づく。
いま。
◇
「ああああああああああああああああああ、ああああああああああああああっ」
彼女は叫んでいる。喉の奥が張り裂けそうになるぐらい。
そして、周りのものに当たり散らす。
テーブルの上にある皿を投げ捨てると、壁にあたって割れて、まだ残っていたおかずがベシャベシャになって垂れる。
それで満足せず、次は枕を引っ掴み、何度も何度も床に叩きつける。
その時皿の破片で出来た裂け目から羽毛が飛び出て、舞い上がる。
それから身をねじ切るようによじりながらベッドに半身を投げ出して、頭をバウンドさせながら打ち付ける。
身体が、魚みたいに跳ねる。僕は止めようとして彼女のそばに行くが、突き飛ばされる。尻餅をつく。
「凪、落ち着いて、落ち着いて」
「あああああああ、死ね、死ね、しんじまえ、どうせ考えてないんだろ、オ×××するしか考えてねぇんだろ、カスどもが、去勢しろ、クソにまみれろ、カスが、カスが」
面白いぐらい声が裏返るし、髪が抜けまくる。
頭を執拗に打っているせいで明らかに痛がっていて勢いがだんだん弱まっていく。
耳とまぶたの隙間から、甲虫が這い出ているのが見える。
孔が、鼻より上の位置にたくさん開くと、彼女はこうなる。数週間ぶりだった。前回は、どう処理したっけ。
「死ね、死ね、死ね、あんたもそうなんでしょ、ヤれればいいって思ってる、終わったらほっとけばいいって、そのまま腐っちまえって思ってる、ほら、そうだって言えよ、この野郎、誰だあんた、あんたなんか知らない」
内側からの虫のせいで表情はひどく醜悪に見えた。まるで老婆だ。
腕を伸ばして、僕の衣服を掴む。少しだけ後ろに引き下がる。
前のめり気味に、シーツごと床に倒れそうになる。僕はそれを支えて、フローリングに横たえる。
はざまから、また虫が這い出てくる、フローリングの上で、あらん限りの罵詈雑言を吐き散らしながら、ばたばたと手足を動かしている。
僕は、立て掛けていたちりとりとほうきを床に置いたあと、キッチンに向かい、戸棚からクスリと注射器を取り出す。
説明書をよく見ながら、薬液を注射器に満たす。
電灯をつけず、なるべく他の音を聞かないようにして、慎重に。
次に、手順を口に出しながら復習する、失敗するとよくないから、念入りに。
彼女のところに向かう、彼女は白目を向きながら、口の端に甲虫がついていることも気付かずに叫んでいる。
「げぁげぁげぁげぁ、げぁぁぁぁ死ね、しねしね、し、ねぇ」
ドアベルが何度も鳴っている。何度も何度も、何度も。
数十分後、彼女は嘘みたいに楽しそうな顔をして、僕に話しかけていた。
腕の注射痕には気付いておらず、映画の話をする。
「それでね、その映画は、その俳優の頭の中に入ることが出来るの。監督は元々MTⅤの人で……」
僕が返事をしないでいると、彼女は不安そうな顔になって覗き込んでくる。
「しーくん、ごめん、楽しくなかった? 他の映画の話する? ごめんね、最近この監督のやつの話ばっかで…」
「いや、いいよ……大丈夫、ありがとう」
僕は顔を寄せて、その頬にキスをする。
「ほんと、ありがとう。それでね……」
彼女はまた話しかけてくる。
彼女は気付いていない、僕があの後、隣に住んでいる男に、玄関先に殴られたことに。
そのせいで頬が腫れていることに。
でも、いいのだ、それで。
彼女は楽しそうにしている。何も苦を知らない子供のように。
それでいい。僕は彼女を愛している。
唇の端をぬぐう、血がついている。
赤い血が。それを握り込んで隠し、彼女の顔を見た。
彼女の顔は、変わらずかわいかった。
ただ、歯が少し、いつもより目立って見える――。
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