いのちうるはて、あかいすなはま。

緑茶

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第9話 しんでほしいひと①

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 頭のなかがガンガンして、目がぱきぱきする。

 同僚が課長に資料を渡す声。電話対応の声。コピー機の音。
 やたらクリアに響いて、足元が時折浮遊する。

 時間が混ざって、今がいつか一瞬わからなくなる。それが何度かある。
 そんななか、なんとか業務を行っている。
 目頭を揉んで、なるべく疲れと、それから無限の苛立ちを追い出そうとする。

「先輩、要りますか」

 声がして顔を上げると山崎が居る。
 きづかわしげにしながら、こちらの濃いビターチョコを渡してくれた。
 窓口の人間に見られないよう、こっそりと受け取る。

 噛みしめる……強烈な苦味が、頭の中に充満する。明確な覚醒作用を引き起こす。
 ――フラッシュバックする。
 カーテンの手前、暗い部屋の中で、醜悪な魚が跳ねている。いや、違う。それは、魚ではなくて。

「先輩、疲れてませんか。ちょっとお休みになったほうが」
「大丈夫、だ」

 それは誰か分かっている。駄目だ、まだ居る。僕は大丈夫だ……。

「でも、どう見ても……」
「大丈夫だって、言ってるだろ」

 思わず。声を、荒げてしまった。
 その瞬間、山崎が小さく悲鳴を上げる。
 我に返る。周囲を見ると、皆がこちらを見ていた。
 急激に、冷や水のように冷静さが戻ってくる。
 やってしまった。
 頭を下げる。

「ごめん」
「……良いですけど。本当に、心配してるんですからね」

 去っていく山崎は、ほんのちょっと、涙ぐんでいるようにすら見えた。
 本当に申し訳ないと思いつつ、それ以上声はかけられなかった。

 そこで、窓口から声がかかった。

「おーい、誰かいないの」

 明るい男の声だ。
 ただ、大きめだ。
 立ち上がろうとすると先輩がやってきて、窓口に顔を向けたまま、言った。

「俺がメインでやる。お前、横居ててくれ」

 ……なんだかわからないが、うなずく。
 聞いていた客の顔を見る。
 ツーブロックに、グレーのスーツ。日焼けした肌。自信に満ちた表情。スポーティな営業マンと言った風情。
 先輩は彼に何事かを話し、そのまま応接室へ案内した。『馴染み』らしかった。
 ということはつまり、厄介だということだ。

「資料をお持ちいたしますので。少しお待ち下さい」
「ああ、いいよいいよ。待ってっからさ」

 男は、一旦自席に向かった先輩に言った。
 というわけで、いま、彼の向かい側には、僕ひとりだった。

「いやあ、はっはっは」

 彼は手を叩く。予想外に大きな音だったので、少しびっくりする。それに対して何も言わず、彼は喋る。

「きみ、若いね。見ない顔だけど。新人?」
「ええ、私、こういうもので――」
「ああ、いい、いい。単なる社交辞令。そういうところから学びなよ。うん」

 彼は手を向けて制止し、言った。ペースが、読めない。
 頭が……ガンガンする。足を、打ち鳴らしたくなる。

「ここ、大変でしょ。ボクが君の立場だったら、絶対ここには就職しないけどなあ。どうしてここに入ったの?」

 彼は、顔をズイッとこちらに向けながら、無邪気に言った。そう、無邪気に。
 ……僕の頭の中は、一瞬でこの男への抵抗感で満たされる。

「いやぁ、ははは」
「あー分かった分かった。実入りがいいからだ、聞いたよー、ここ他の課よりも高給なんだってね。そりゃあ大事だわな。この時代、公僕で給料高いってのは――」
「……」
「スーツも揃っててかっこいいもんな。ボクの持論としてね、背広で仕事出来ない奴はみんな出来損ないってのがあってね。分かるだろ? 最小限の礼儀ってやつ。そこにすらたどり着いてないやつはどこ行っても駄目なわけ。ここ多分だいじだから。メモとっときなさいよ、新人クン。ははは」

 ――返事が、できない。
 頭の中が、まっしろになる。なにかが、爆発に向けて、蓄えられていくようだった。

「ん。何か言いたげな顔だけど。どした」
「いえ、わたしは別に――」
「いいよいいよ遠慮しなくって。あ、不躾なやつだなって思ったでしょ。分かるよ、顔に書いてあるもの。君分かりやすいねぇ、それに身体もかたい。ほら、ほぐさなきゃあ」

 彼の手が伸びて、僕の肩を何度かバシバシと叩いた。
 僕はつとめて冷静さを欠かないようにしながら、言った。

「ご用件のほうは」
「それは、彼が来てからでも良いんじゃないか?」
「……失礼しました」
「んー、んっふっふっふ……」

 彼はわざとらしく顎を撫でながら、それから言った。

「仕方ない、ちょっと抜けたところのある新人クンに教えてやろう。もともと前から話してたことだから、言ってもいいだろう。今日、来たのはね……」

 彼は座ったまま手招きした。
 意味がわかりかねたので、曖昧な笑みを作った。
 すると彼はとたんに、むっとした顔になって、言った。

「こっちに来いって意味だよ」

 反射的に従った。
 彼の傍に行って、しゃがみながら、耳だけを彼に向けて傾ける。
 すると男は上機嫌な表情に戻って、自分のいたずらを友人に打ち明けるような調子で、わざとらしくささやき声で告げた。


「うちの兄貴にね、死んでほしいって話だよ」
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