運命なんて残酷なだけ

緋川真望

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15 番のフェロモン

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「……はい、はい、お待ちしております。では」

 通話をオフにした途端に、柴田はふぅーっと息を吐いた。スマホをポケットにしまう手がかすかに震えている。

「はぁ、冷や汗が止まらん……」
「電話だけで緊張っすか? 神崎ってそんなにすごい奴なんすか?」
「あぁ……まぁな。お前は直接会ったことが無いんだったか。やつのフェロモンはえぐいぞ」
「へぇ、えぐいって先代くらいっすか?」
「先代か。ぶつかりあえば、おそらく互角だろうが」
「おお……互角」
「だがな、一番性質が近いのは鬼嵜きざきのフェロモンだな」
「うげ」
「うげってなんだ。お前、ほんとはこっちの喋り方が素なんじゃないか」
「いやぁ、鬼嵜の兄貴に会ったのは俺がまだ十代の頃っすからね。睨まれただけでちびりそうになったっすから」
「あっはっはっ、そうだった、そうだった。思い出したぞ。お前、腰が抜けてしばらくへたりこんでたもんなぁ」
「そ、そんなことより鬼嵜の兄貴と同等ってことは、神崎はいったい何人殺ってるんすか」
「一人も殺ってないさ。表向きはな」
「表向きは」
「ああ。そこがやつの怖いところだ」

 しん、と廃倉庫に沈黙が降りた。

「そういや、鬼嵜の兄貴はもうすぐ出所っすよね」
「はぁ……思い出させてくれるなよ。頭が痛い」

 鬼嵜きざき恭一きょういちは中臣組の若頭だった。次期組長と目されていたが、十年前、当時の組長だった先代を狙ったヒットマンを二人殺して服役した。相手は銃を持っていたのに、鬼嵜は素手で相手を殴り殺したという。

「どうするんすか」
「どうしたもんかな。娑婆に出てきても、すでに組は無く、自分がもう若頭でも次期組長でもないと知ったら何をしでかすか……。社長は仲富商会にそれなりのポストを用意すると言っていたが」
「えーと、兄貴に堅気の会社員のふりなんて出来るんすか?」
「無理だろうなぁ。いっそ西濱の客分にしてもらうか、それとも適当な理由を付けて神崎に押し付けちまおうか」

 柴田が渇いた笑いを漏らすと、若い刑事はひくっと頬をひきつらせた。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「死体の、フェロモンを確認……?」
「ああ、死んでそれほど時間が経っていなければフェロモンは残っているそうだ。しかも、犯人の男は透にとっては番だからな。番のフェロモンならば、どんなにかすかなものでも感じ取れる可能性がある」

(犯人が、死んだ。復讐する機会も無いままあっさり死んだ。なんで俺にこんなことをしたのか、なんであそこまで酷いことをしたのか、何も聞けないまま……)

 ジャケットの中に手を入れて、ナイフ用のショルダーホルスターに指をかける。手に馴染んだ愛用のナイフ、これで犯人の肉を切り裂くはずだったのに。

(じゃぁ俺は何のために……何のために今まで……)

 頭の中がグルグルして、うまく思考できない感じがした。
 必死に整理しようと思ってうつむくと、靴を履いていない黒い靴下が目に入った。

「透……もしも嫌なら無理して確認する必要は無い。犯人かどうかを断定する証拠なら、ほかにいくらでも探すことが出来るんだ」
「……あの靴」
「え、靴?」
「ウィングチップの派手で可愛いやつ…………置いてきちゃったね」

 慶が透を抱きかかえて出てきたので、透の靴は春哉と唯月の住むあの家の玄関に残したままだ。

 春哉はあの事件を『終わったこと』だと言っていた。借金返済のために結婚をして……でも、運命ともいえるような相手と出会えて番になれたし、素敵な可愛い家も建てた。春哉の人生では確実に三年の月日が流れていて、もう透とはまったく関係のない世界でこの先の人生も続いていくのだ。

 そして、麻薬で遊ぶような犯人にとっても、あれはとっくの昔に『終わったこと』だったのかもしれない。事件の被害者である透は自分達の顔も見てはいないし、あれだけのことをしても警察には捕まらなかった。好き勝手に生きても許されるから享楽に耽り続けることになり、そしてその延長線上であっさりと逝ってしまった。

 でも、透にとってあれは一生終わることのない事件だ。番の印を刻まれてしまった以上、透の番は犯人ただ一人なのだから。

「あの靴が気に入ったのなら、今度はオーダーメイドでもっといいものを作らせようか? 珀山の行きつけの店にも木型が残っているだろうが、おそらく3年でサイズも変わっているはずだから、一から測った方が……」

 一生懸命話す慶の声が聞こえてきて、透はふっと視線を上げた。
 すぐ目の前に慶の顔があった。
 綺麗な頬の一番目立つところに透がつけた傷跡があった。

 透は手を伸ばしてその傷跡に触れてみる。

「透?」

 その頬をそっと指先でなぞると、慶は透の手を取ってちゅっとキスをした。手にならキスしても良いと透が言ってから、慶は隙を見つけては何度も何度もキスをしてくる。
 その柔らかい唇の感触と体温が、すごく心地良い。

「あ……」

 胸の奥底に重く蠢いていた何かが、少し軽くなったような感覚があった。

「そっか、慶がいるんだ……」

 透のホッとしたような呟きに対して、慶が不思議そうに瞬きをした。

「ああ、いるよ。透が許す限りずっとそばにいる」
「うん。すごいね」
「すごい? 何がすごいんだ?」

 透は何だか泣きそうな気分で、慶に微笑みかけた。

「慶がいること」

 首をかしげる慶に、透は決意を込めてうなずいた。

「俺、終わらせるよ。ちゃんと自分で終わらせる。死体のフェロモン、確認してみるよ」





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 港近くの廃倉庫の前には不法に投棄されたらしいゴミが積まれていて車では入れなかった。少し手前に黒いミニバンが、その後ろに白いセダンが停まっている。

 透はベンツの窓から外を見て眉をしかめた。

「ここ、何度か来たことがある」
「そうなのか?」
「うん。俺、鬼在きさらに住んでからの3年間で、ほとんどの廃墟を見て回ったんだ。連れ去られた時は目隠しをされていたけれど、床を触った感触とか音の響きとかは覚えていたから。でも、手がかりのひとつも見つけられなかった」

 透が車を降りようとすると、慶がひょいと抱き上げてきた。片腕に透の尻を乗せるようにして太ももを支え、慶は軽々と歩き始める。

「ちょ、待って。ひとりで歩けるって」
「だめだ、足場が悪すぎる。ガラスでも踏んだらどうするんだ」
「でも……」

 ゴミの山の中には冷蔵庫やブラウン管のテレビなどもある。割れたコップのようなものも散乱していて、慶が歩くたびにザクザクと音がした。

「俺がそばにいるのに、透に怪我をさせてたまるか」

 吐き捨てるような語尾にドキリとした。
 慶は少し気が立っているようだった。
 反対に、透は妙に落ち着いている。
 ほかならぬ慶がそばにいてくれるからだけど……。

「こういう使われなくなった倉庫みたいなところも、全部見て回ったのにな……」
「事件の直後に、証拠になりそうなものはすべて片付けたんだろう。そして3年が過ぎた今、性懲りもなく戻って来て溜まり場にしたんだろうな」
「うん……」

 倉庫の扉は半開きになっていた。慶が透を抱いたまま、それを押して中へ入る。キィーッと錆びた音が響いた。

「神崎さん」
「待たせたな」

 天井が高く、中二階のある倉庫の中には二人の男がいた。
 透を腕に抱いた慶を見て、若い男は驚いたように目を見開き、初老の男は観察するように目を細めた。

「……しかし、連れがいるとは聞きましたが……」
「事情があって、ついさっき靴を失くしたんだ」
「そうでしたか」
「あ、あの、俺は県警の……」
「名乗らなくていい。俺と君は会っていない。俺達はここに来てもいない」
「は、はい、了解っす」
「現場検証の前に連絡をくれたことは感謝する。柴田さんを通して謝礼は充分にするつもりだ」
「えっと……」

 若い男が初老の男の方を振り向く。

「遠慮しないでもらったらいい」
「は、はい、了解っす!」
「ではあまり時間が無いのでさっそく。死体はあちらです」

 初老の男が錆びた階段の奥に置かれた古びたソファのあたりを指差し、前に立って歩き出した。若い方の男は、少し怯えたように慶から距離を取ってついてくる。

「犯人の身元は?」
「主犯は鬼在きさら総合病院の院長である金田玄三郎の孫でした。与党の政治家どもが何かあるとすぐあそこに入院するんで、そのつながりを使って警察に圧力をかけたんでしょう」
「関わりのあるやつを全部知りたい」
「後でリストにして送ります」
「ああ頼む」

 薄汚れたソファの向こう側に、四人の男が転がっていた。敷かれたラグからはみ出るように、それぞれがおかしな体勢で動かなくなっていた。
 慶に抱かれて高いところから見下ろすと、四人はただ眠っているだけのように見える。

「主犯の名前は金田拓真、24歳無職、αであるということだけが自慢の典型的なバカ息子ですな。当時は医学部の受験に失敗して浪人生をしていたんですが、事件直後に不自然な形で海外へ語学留学させられています。日本に戻ってきたのがつい最近のようで」
「ほかの三人は?」
「すいません。まだ身元の確認が出来ておりません。金田拓真の取り巻きは5、6名いたらしく、今回死んだ3人と三年前の3人が同一人物かどうかもまだ……」

 透は不思議な気持ちだった。
 あんな酷いことが出来るやつらは人間じゃないと思っていた。何度も繰り返し見るあの悪夢にも、人間とは思えない凶悪な顔をした奴らが登場していた。
 でも、ここにいる4人は多少派手なだけで、どこにでもいるような普通の若者に見える。

「拓真は、大学受験の失敗は試験会場にΩがいてαの自分を誘惑したせいだと大騒ぎして、周囲の顰蹙ひんしゅくを買っています。同じ会場にいたほかのαは何事も無く合格していますから、まぁ、自分の実力不足を認められなかったんですかな。それ以来、Ωを毛嫌いするようになったらしくて、Ωをいじめたり暴言を吐いたり、調べれば余罪も多そうですな」
「ふん、馬鹿馬鹿しい身の上だ」
「はは、確かに。さらにやつにはβの弟がいるんですが、真面目で努力家なもんでαの兄より成績も良くて、そんな弟に対するコンプレックスもあったようです」
「弟は今何をしている」
「現役で希望の医学部に合格して、今は大学で学んでいるようです」
「弟がこのクズどもの乱痴気騒ぎに参加したことは」
「ありません」
「そうか」

 慶はこれに関わった人間を全部知りたいみたいだった。
 でも、透は何より理由を知りたかった。

「どうして、俺だったの」

 初老の男が首を振る。

「まだ何とも……。どこかで見かけて目を付けたのか。Ωなら誰でも良かったのか」

 すでに死んでしまった以上、理由は分からないままかも知れない。でも、ここで死んでいる四人とも透の知らない顔だった。
 あの頃、過保護な母の管理の下で暮らしていた透を、こいつらはどこで見かけたんだろうか。

「慶」

 透が静かに呼びかけると、若い男がぎょっとしたように「うぇ? 呼び捨て?」と呟いた。

 慶は男を無視して透の顔を覗き込んだ。

「透。大丈夫か? 気分が悪くなったりしないか」
「うん、平気。慶の匂いが強すぎるから、俺をここにおいて少し離れてて」
「分かった」

 素直に従う慶を見て、若い男だけでなく初老の男も少し驚いたように目を見開く。

 冷たい床に靴下で降りた。
 しゃがんで床を触り、目を閉じる。

「そこからなんか喋ってみてよ」
「透は今日も可愛いな」
「なんだよそれ。もっと怖いこと言ってみて」
「そうだな……。大人しくしろ、言うことを聞け、殴られたいのか」

 棒読みに近いセリフだったが、声の反響は感じ取ることが出来た。

「どうだ?」
「声の響きは、あの時とすごく近い気がする」
「フェロモンは分からないか」
「今のところは……」

 透は四人の若者それぞれの顔を見た。
 死んでいるというのに、まったく苦悶の表情ではない。むしろ、どこか間抜けでユーモラスな顔をしていた。ひとりは目が半開きで、ひとりはほんの少し鼻血が出ていて、全員の口に泡がついている。

(そう言えばヤクで死んだんだっけ)

 現実感が薄かった。
 死体を見るのも初めてで、しかもこれが三年間追い求めた犯人だというのに、恐怖も憎悪も湧いてこない。

 透はひとりひとりの顔を覗き込んで、くんくんと臭いを嗅ぎ始めた。

「!」

 三人目の匂いを嗅いだ時、いきなりビクンと体が跳ねた。
 体温が急激に熱くなる。

「あ……は…………?」

 いい匂いだった。
 甘くて、芳しくて、すり寄りたくなるくらいに。
 この匂いの主に抱きつきたい。
 この匂いの主に甘えたい。
 この匂いの主に、何でもしてあげたい。
 そう思えるくらいに。

―――― これが、番のフェロモンか……。

「こいつだ」

 何かを我慢するように、裏返った声が出た。

「こいつだ……俺の番」

 若者のひとりを指差すと、初老の男がうなずいた。

「そうです。そいつが金田拓真です」

 透はジャケットに手を突っ込み、するりとナイフを取り出した。

「透? 何をする気だ」
「終わりにする」
「終わり?」
「俺を噛んだこいつの犬歯を折る」
「ま、待って! そんなことされたら困るっす!」
「かまうな。透の好きにさせろ」
「そんな! 柴田さんも何とか言ってくださいよ!」
「仕方あるまい。後処理はわしがやる」
「ええ!」

 透は思い切りナイフを振り上げて……しかし、振り下ろすことが出来なかった。

 カラン、とコンクリートの床に金属音が響く。
 透の手から力が抜けて、ナイフが落ちていた。

「う、嘘……」

(嘘だろ。死体に残る匂いだけで……こんなに……)

「透?」
「あ……あぁ……」

(こんなかすかな臭いで発情するのかよ。それじゃぁ、もしも慶に会う前にこいつに会っていたら)

 ぞくりと寒気がした。
 目の前の若者に好き勝手にされる自分を想像した。
 それに抗うどころか、はしたなく乱れて、よがって喘ぐ自分を想像した。

「や、だ……」

 がくがくと体が震え始める。

「透?!」
「やだ、こんなやつのフェロモンで……死体のフェロモンで……い、嫌だ……!」

 慶が駆け寄って透を抱きしめた。

「透、どうした?」
「慶、慶、助けて……!」
「大丈夫、俺はここにいる。透のそばにいるだろ」

 透は震える手で必死に慶にしがみつく。

「嫌だ、もうここにいたくない」
「犬歯を折らなくていいのか」
「いい! もうそんなのどうだっていい! あ……あぁ……嫌だ、体が……!」
「おい、透」
「慶……苦しいよ……」

 必死に発情を抑えようとしたが、Ωの体は透の意思を無視してどんどん熱くなっていく。
 透は慶に抱きついてその耳に囁いた。

「二人きりになりたい、お願い、二人きりに」

 慶は透を抱き上げて、スクッと立ち上がった。

「柴田さん、すまないが」
「ええ、後処理はお任せください」
「頼む」

 慶は透を抱いたまま、焦ったように廃倉庫から駆け出した。





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