異世界に就職しました。

郁一

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戻ってきたけど、絶体絶命じゃないの、これ。

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 港についた船から乗客と荷物が続々と降りていく。
 こっちの世界で主流の移動手段が馬だからだいたい想像ついてたけど、港に横付けされた船はどれも木造の帆船だ。まだ蒸気船なども開発されていないみたいだな。
 それでも船は想像してたよりも大きく、乗客と荷物を運び出す男たちがぞろぞろ連なって降りていく。
「キュカは黙って俯いていてください。見た目が麗しい美少女でも声や目の色までは誤魔化せませんから」
 甲板に上がり船を降りる人の列に並びながら、小声でロイカが指示をしてくる。
 黙ったまま頷いて、ロイカのマントを握りしめて俯く。
 言われなくてもこんな姿をだれかに見られるなんて、恥ずかしすぎて顔を上げていられないっての。
 日本人特有の黒髪と黒っぽい目を隠すためにロイカが用意した女物のかつらは、胸元まで波打つ茶色い髪のかつらで、目元を覆うように前髪も長く作られていた。
 おかげで髪をかきわけないと目を見られる心配はないのだが、これはこれで視界が悪くてうっとうしいことこの上ない。
 一方ロイカも白髪のかつらを被り、やけにくたびれたマントを羽織っている。
 少しだけ背中を丸め膝も曲げて立っているけど、老人にしてはきれいすぎる顔立ちは隠せないだろう。
(絶対バレるって……無理だよ)
 ひとりずつ乗船許可証と身元を確認しているらしく、乗降口から降りて行く人の数はまばらで、行列は焦れったいほど進まない。
 緊張感が高まったまま、時間だけが素知らぬ顔で過ぎていく。
 俺の弱った体の中で、心臓は元気いっぱいに暴れ回ってくれてます。
 ほんと、お願いだから早く終わってよ……体に悪いから、この緊張感。
 ここでもし俺とロイカの素性がバレたら、どうなるんだ?
 皇帝のところに戻されるのか、その場で処刑なんてことないよな。
「ロイカ」
 つんつん、とマントを少し引いて呼びかけると、ロイカが顔だけで振り返った。
「何です?」
「もし身元が嘘だとわかったら、私たちはどうなるのですか?」
 ロイカが少し目を細めて微笑んだ。
 かつらを被った頭に手を乗せて、ぽんぽんと軽く叩いてくる。
「心配する必要はありませんよ。すべて私に任せなさい。そのために私がいるのですからね」
「…………」
 確かに俺ひとりなら、ここまで来れなかった。
 何しろ絶賛体調不良中で、ロイカに連れ出されなかったら皇帝たちがいた部屋から出ることもできなかっただろう。
 思い出すととたんに寒気がした。体の奥底にしつこく残っている異物感が吐き気を後押しする。
 俺はまた望んでもいないのに、男に抱かれたんだ。
 痛みがその現実を突きつけてくる。それが気持ちを暗い方へ引きずってしまう。
「もうすぐです。いいですか、キュカ。いまだけでいい、私を信じてください」
 ロイカの手がマントをにぎりしめていた俺の手に重なった。
 そのあたたかさに少しだけ気持ちが上向いた。
 とにかくいまはこの船から降りることだけ考えよう。
「次……証明書は?」
 忙しそうな係員の事務的な声がすぐそばで聞こえた。
 用意していた証明書をロイカが手渡した。
 こっそり上目遣いで前髪の間から様子を見守る。
 ばくんばくん心臓が鳴りまくってて、ちょっとうるさい。
 流れ作業的な冷めた目で書面を眺めた係員が、すぐに目を丸くした。
 やっぱりバレたのか?
 思わずロイカのマントをぎゅっと握りこんだ俺の想像を裏切って、係員は丁寧に証明書を折り畳みロイカに恭しく差し出した。
「ほ、本日は、こ……このような小船に、あり、ありがとうございました」
 差し出された証明書を受け取りながら、ロイカは優雅に微笑んでみせる。
「こちらこそ大変助かりました。船長によろしくお伝えくださいね」
「ももも、もちろんでございますっ!!」
 明らかに不審すぎる俺たちを直立不動で見送る係員に背を向けて、ロイカが俺の手を引いて桟橋へ降りた。
「……ロイカ? なぜあの人の態度が……」
 人ごみに紛れるように歩きながら、ロイカにそっと問いかける。
 言い終わる前にロイカがくすっと笑った。
「急に変わったのか、でしょう? それはね、これですよ」
 ロイカがまた証明書を取りだして俺に手渡す。少し厚めの紙を広げて、一番上の文字を読みとる。
 身元証明書だ。
「キュカは文字が読めますね?」
「……リ、ワ…エル」
 読めるっちゃ読めるんだけど、騎士団に来てからは身の回りのことと薪割りばっかりで、本なんてほとんど読まなかったから、すらすら読みとれなかった。
「リワイエル=ドゥ・アンバ。騎士団がある地域一帯を治める領主の名前です。彼は皇国に下りましたが、いまだ多くの国民たちから慕われているようですね」
「……そんな人がなぜ、私たちに?」
 ロイカが証明書を俺の手から抜き取って、胸元にしまいながらにっこり笑う。
「おやおや、キュカは気づいていないのですね? ずいぶん前から騎士団に入って、直々にキュカを見守ってくれていたのに」
「……えっ!」
「ですから、騎士団で本人に会ってますよ?」
 そんな偉い人と、俺が出会うわけないじゃん。
 騎士団に入ってから俺が見たのは、のんだくれの騎士団員たちと、物資の搬入に来た村人たちの呆れ顔だとか、副団長の仏頂面くらいだ。
 あ、それと無駄に美形な奴が一名いたっけ。
「……誰です?」
 領主と言えば締まりのない太った体つきで、髭面のおじさんが頭に浮かんでくるんだけど、騎士団にそれらしき人間はいなかった気がする。
 しかも俺が本人に会ってるらしい。
 気になって仕方がない。ロイカの後を追いかけながら問いかけること三回目で、ようやく教えてくれた。
「偽名を使ってましたからね……リワルド、と言えばわかりますか?」
「リワルド……って、え……?」
 チップが地下室で戦っているところへ連れて行ってくれた人じゃないか。
 くるくる巻き毛で、恭しく手の甲にキスをした爽やかイケメンさんだ。
「亡国からは裏切り者と責められることを覚悟の上で、だれよりも早く皇国に寝返り領地の自治権を守ってくれました。騎士団がこれまで皇帝から逃れられたのは、彼のおかげですよ」
「……知りませんでした」
 皇帝の手先を演じていたロイカと、裏切り者になることで騎士団を含めた領地を守ったリワルド。
 戦争を回避するために、いろんな人がいろんな決断をして、いまがある。
 いままで他人事だった異世界事情が身に迫ってくる。
 当事者と実際に会って、話をしたからだろう。
 ちら、とロイカを見上げる。
 俺を裏切ったように見せかけている間、どんな心境だったんだろう。
 皇帝の言う通りに動いているように振る舞いながら、ロイカは何を考えていたんだろう。
 そう思うからこそ、事情を親身に感じるんだろうな。
「ところでどこへ行くんですか?」
「この先でエルヴィーと待ち合わせているのですよ」
 手はつかんだまま道を歩いていくロイカが、開店準備中らしい酒場の角を曲がる。
 細くて薄汚れた道を通り抜けた先に、幌のついた荷台と2頭の馬がいた。荷馬車のようだ。
 その前に腕を組んで立つ男がいた。
 口をへの字に曲げた、表情の少ない真面目そうな顔立ち。騎士団にいたはずの治療師エルヴィーだ。
「無事か?」
 俺たちに気づくと、エルは腕組みを解いて御者台に乗りながら一声かけてきた。
 荷台に俺を乗せてから、ロイカも荷台に乗る。
「辛うじて。船の中で目覚める前まで、記憶に障害が」
「なるほど。荷台の端に薬湯を置いておいた。ちょっとずつでもいい。飲ませろ」
 ぶっきらぼうに言い放つと、エルは馬をけしかけて荷馬車を走らせた。
 がら、と大きく揺れてから少しずつ速度を上げて走りだす。
 言われた通り荷台の隅に、倒れないように固定された箱があった。
 ロイカが蓋を開けて中から瓶を取り出し、灰色の液体を瓶の口に伏せてあった杯に注ぐ。
 手渡された杯を見下ろして、中身の見た目の悪さに躊躇する。
「飲みなさい、少しは楽になるはずです」
「……エルも、ロイカの仲間だったんですか?」
 騎士団から連れ出された時のことを思えば、見た目の悪さを別にしても、飲んでいいものか疑いたくなるもんだ。
 俺の視線の意味に気づいたロイカが、弱々しく微笑んだ。
「はじめエルヴィーは計画に反対していましたが、自分がいた方がキュカを守れるからと参加してくれたのです。彼を責めないでください」
「…………」
 そう言われても、やっぱり飲みたいと思えない。
 吐き気は治まらず、眩暈はひっきりなしに襲ってきて、荷馬車の揺れが実際以上に感じるけど。
 小学校の時に使ってた白っぽい泥みたいなノリに、砂を混ぜたらこんな風になるんじゃないかって見た目でさ。
 薬に美味しさを求めちゃいないが、これは口に入れちゃいけない物だろ。
 試しに匂いを嗅いでみた……意外にも、無臭だった。
「それにしても、おまえら何て姿してんだよ……くくっ、笑える……っ」
 御者台からエルが話しかけてきた。
 そうだった、いま俺は女装中なのでした……エルは表情は変わってなかったけど、ばっちり俺の女装は確認してたらしい。いまごろになって笑い転げてやがる。
 体調の悪さが苛立ちを加速させて、女物の靴を履いた足で荷台の壁を蹴りつけた。
「笑わないでくださいっ!」
「似合ってるから、構わないだろ? にしても、ロイカが用意しておけって言ったから用意したものの、何に使うのか不思議だったんだが……まさかキュカに着せるとは……腹がよじれそうだ」
「しつこいですよ、エルっ!」
 くつくつ笑うエルに、もう一回壁を蹴りながら声を張り上げたけど、エルは笑い続けてた。
 どうやら普段感情の起伏が少なそうな奴だけど、一度笑い出すと止まらないタイプみたいだ。
「チップに見せてやりたいな~。そのままの姿で騎士団に戻ろうか」
「……脱ぎます、いますぐ脱ぎます」
 杯をロイカに返して、服を脱ごうとした手をロイカにつかまれて、邪魔されてしまった。
「まず薬を飲みなさい。目覚めた時よりも顔色が悪くなっています。自覚していますか?」
「……うっ……でも、それは……」
 ロイカが俺の体を抱き寄せて、キスしそうなほどに顔を近づけた。
「口移しで飲ませて欲しいですか?」
「すみません、自分で飲みます」
 あっさり白旗を上げて、俺は目を閉じて、一気に杯を干した。
 まずさが舌に広がる……はずが、果物を食べた後のような甘さを感じた。
「……甘い」
 意外すぎて感想を声に出して言うと、エルが応えた。
「甘いと感じる間は、体が弱っている証拠だ。少量に分けて、喉が渇いたら何度でも飲めよ。まずいと感じたら卒業だ」
 ロイカが瓶を持ち上げて、軽く振ってみせた。
「もう少し飲みますか?」
「……いりません」
 飲んだばかりなのに体が内側からほかほかしてきた。真冬の雪が降り続く外から暖かい部屋に帰り、こたつにもぐり込んだ時みたいだ。ほっと体が弛緩する。
「眠ってください。私が願ったこととは言え、キュカは力を使いすぎたんです」
「……ちから?」
 ちからって何のことだったっけ。
 必死で習い覚えたはずの異世界語が眠すぎてあやふやになる。
 ロイカが背中から体を抱き包んで、揺れから守ってくれた。
 そっとかつら越しに頭を撫でてくれる手が気持ち良かった。


 あまりの心地よさに、いつの間にかうとうとしていたらしい。
 気がついたら荷馬車がものすごい勢いで走っていた。21世紀の日本とは全然違う、剥きだしの道を走る荷馬車はとんでもなく揺れる。
 上下左右に振られて傾く体を、ロイカが胸に抱き抱えるようにして支えてくれていた。
「ろ、い……か……何が」
 背中をロイカの胸につける体勢になっていた俺は、背後を振り返りながら問いかけた。
 たったこれだけ言うのに、何度も舌を噛みそうになった。ほんと、どうなってんの。
 ロイカは険しい顔で幌の向こうを見つめていたが、俺の声に一瞬だけこちらを見た。
「追手です。三騎」
 短い返答を残して、また荷馬車の後方へ視線を戻してしまう。
 人が座れるくらいには高さがある荷台には、深緑色の幌がかかっている。
 御者台の近くに俺たちは座っていて、後方には出入りするための切れ目が縦についている。
 幌の合わせ目は紐で止めてあるけれど、疾走する荷馬車のせいで旗のように波打っていた。
 波打つ幌の合わせ目からははっきりと外を見ることはできなかった。
 代わりに耳を済ました。
 疾走する荷馬車が生む音とは別の、蹄の音と声がする。
「どうやら行きと違う道筋を辿ることを読まれていたようです」
 ロイカが早口で告げながら、服の下から短剣を抜いた。
 そんなところに隠してたのか。俺にもない?
 心の声が聞こえたのか、ロイカは俺を見下ろして苦笑する。
「すみません。これしか用意していないので」
 がっかりするほどは期待してない。持っててもロイカたちほどは使いこなせないだろうから。
「やれっ」
 幌の向こうで男のかけ声がした。
 車輪が何かを巻き込んだらしい。がっ、と一瞬荷馬車が止まったかのように前後に大きく揺れた直後、派手な破壊音が続けざまに鳴り響く。
「うわぁああああっ」
「!」
 荷馬車が傾きながら盛大に横滑りして、何かに側面から激突した。
 衝突の勢いで荷台から外に放り出される。
 とっさにロイカが俺を胸に抱きこんで庇ってくれたから、地面に落下した衝撃は少なかったけど。
「ロイカッ、ごめんなさい!」
「……怪我はありませんか?」
 俺の体重も受け止めたロイカは、どこか怪我をしたに違いない。
 慌てて起き上がってロイカを覗きこんだら、苦しそうな顔をしたのも束の間、はっと目を開いて立ち上がり、俺の腕を思いっきり引っ張った。
 がつん、と背後の地面に何かが勢いよく突き刺さる音がする。
 嫌な予感がする。
 おそるおそる振り返れば、馬を降りた追手が暗い目で俺たちを見ていた。
 その手がさっきいた場所に突き刺さった剣を握っている。
 背筋に悪寒が走った。
 俺、殺されるの?
「走って!」
 ロイカに叱咤されなければ、俺はそのまま立ち尽くしていただろう。
 手を引かれるがまま走りだした俺の背後を、追手が引き抜きながら横薙ぎに振った剣が通り過ぎる。
「待てよ。かわい子ちゃんとお犬ちゃん。陛下ばっか贔屓にしないで、オレたちの相手もしろよ」
 どうせ逃げられないと確信しているらしい。追手はゆっくり追いかけてくる。
 もちろん言われた通り待つはずもなく、ロイカは俺の手を痛いほど引っ張って走り続ける。
 何度も振り返って追手を見てしまうのは、怖くてたまらないからだ。
 追手の肉体からかげろうのように黒い影が立ち昇っている。
 ここにもサイカがいる……追手の周囲の影は濃くて、ゆらゆら揺れるたびに追手の顔を隠してしまうほどだ。
 でも本人には見えていないらしく、俺たちをしっかり見て追いかけてくる。
「飼い主の手に噛みつく悪いお犬ちゃんは、しつけしなおさないといけないよなぁ? そっちのかわい子ちゃんも、陛下にちゃんと解してもらっただろ? その熱くて柔らかなお肉をオレにも味見させろ」
 追手の話し方と笑い声は、耳に入ったとたん粘りを帯びて鼓膜に貼りつくような感じがする。とにかく声を聞くだけで気持ち悪い。
 すると突然ロイカが立ち止まり、背後を見ていた俺は気づかずに背中に激突してしまった。
 ロイカの方がしっかり立ってくれていたので、弾き飛ばされたのは俺ひとりだったけど。
 地面に尻もちをついたまま、ロイカの向こうに何があるのかを見てみると。
「仲間を見捨てて逃げるとは。騎士団の結束はそんなものか?」
 左目に布を巻いた男が、ダミ声で静かに言った。その男が片腕でだれかを引きずっている。
 顔の半分を血に染めたエルヴィーだ。荷馬車が追突した時か、男にやられたのか。頭に傷を負ったらしいエルは目を閉じていて、意識がないようだった。
 男はエルの首に回していた腕を上げて、エルを持ち上げるとその首元に剣を向ける。
「銀のお犬さんよ、大人しくそいつを俺たちに渡しな」
「……お断りいたします」
 ロイカは男を正面から見据えて、きっぱりと断った。
「別の道筋を辿って戻ることを見破ったことは称賛いたしますよ。けれど彼をあなたたちに渡すつもりにはなれませんね」
 エルに剣を突きつけたまま、男はため息をついた。
「俺たちに従っておいた方が得だぜ。おまえさん肋骨を折ってるだろ。俺たち相手にそいつを庇いながら、ひとりで立ち回る気か? やめとけ、時間の無駄にすぎん。それより大人しく従え」
 男の台詞に思わずロイカを見上げてしまう。
 言われたロイカも無意識にだろう、手が脇腹の上を押さえていた。
「おまえほど顔のいい犬なら、十分に可愛がってやれる。命を捨てるよりは、体を捨てる方がましだろうが」
「私も以前はそう思っていましたが……あいにくと、この頃は考えが変わりまして」
 ロイカが手を下ろした。
 しかもふふっと楽しそうに笑う。
 ちょっと、いま笑う場面じゃないと思うよ?
 驚いたのは男も同じらしく、見えている方の目を少し開いて言った。
「何がおかしい?」
「あなたの言う通り、本音はこの体などどうなろうと構わないのです。いまあなたたち三人に体を開くことに微塵も抵抗を感じませんけれど……こんな私を叱りつける者がいる。その者は自分自身が傷つくよりも大げさに泣くのです。その者を泣かせるとうっとうしいので、そのような真似はしたくないのです」
 にっこりと笑って言い切ったロイカの背後に、黒い影をまとった追手が追いついた。
「わけわかんねぇこと、ぐちゃぐちゃぬかしてんじゃねぇっ!!」
 追手が剣を振り上げ、勢いよく振り下ろされた。
「ロイカッ!!」
 俺はとっさに地面を蹴って、ロイカに頭から飛びかかった。
 追突したロイカの体ごと、地面に押し倒す。
 足首に熱が弾けた気がした。振り返って確認すると、追手の剣を完全には避け切れなかったらしく、足首がぱっくり切り裂かれていた。
「……っ」
 痛いって言葉じゃ物足りない。足を抱えて声も出せなくなる。
 切られた足の傷は相当深いらしく、脈拍に合わせて噴き出る血の量が半端なかった。
 足をつかんだ手がすぐに濡れて、色を変える。
「キュカ、怪我を……っ」
 体を起こしたロイカが俺の足を見て声を失った。
 絶句するほどひどいの、俺の怪我……ひどいだろうけど、ロイカが絶句するほどなんてよっぽどじゃん。
 あぁ、ロイカの反応を見たらよけいに痛くなってきた気がする。
 もうこのまま気絶してやろうかなと思った時、俺の足を切った男が腹の底から吠えた。
「ぐぅおおおっ」
 いつの間にか、追手の腕に矢が深く突き刺さっていた。
 どくどくと手の間から血が流れ落ちる。
 仲間の異変に気づいた片目の男が顔を険しくして、どこかを睨みつけながら吠えた。
「何者だっ!」
 片目の男が吠えたのは、何かに衝突して壊れた荷馬車がある方角だ。
 目を凝らして見ると、荷馬車の方から馬が駆けてくる。
 馬具はついているけれど馬上に人影はない。
「……くそっ」
 片目の男は低く毒づいて、エルをその場に投げ捨てた。
 そこから先は何が起きたのか、すべてを把握できないほど同時にいろんなことが起きた。
 片目の男が腕を抱える男に駆け寄る。
 彼らのすぐ間近まで迫った馬の背後に、もう一体馬が走っていた。
 先を走る馬が方角を少しずつ変えて、俺たちのそばを通り抜けて行く。
 後方の馬に隠れるように、頭を低くしていた騎手が体を起こしながら弓矢を放つ。
 その騎馬の前に飛び出したのは、三人目の追手だ。
 追手が騎手に迫りながら剣を突きだす。
 弓矢で両手が塞がっている騎手に、剣がまっすぐに突き進んでいく。
 放たれた矢も狙い定めた片目の男へ。
 足の痛みも忘れて、俺は叫んだ。
 三人目の追手が狙う騎手に向かって、声の限りに。

「チップっ!!」
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