愛のJACK POT!

水戸けい

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第4章 大きすぎる当たりは、現実味に欠ける。

いつの間にか、琉偉は真理子の内面のすべてになっていた。

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   * * *

 ゴロン、とベッドの上で寝返りを打ち、深々と気の抜けた息を吐く。

 見慣れた室内で、真理子はダラダラと過ごしていた。

 なんて、あっけなかったんだろう。

 意を決して下船して、その足で駅へ向かった。電車に揺られている間は呆然としていたが、部屋に入れば日常があっさりと真理子を迎え入れた。

 置きっぱなしの旅行カバンがなかったら、豪華客船に乗り込むところから、すべてが夢だったように感じる。

 真理子は胸に手を当てた。

 こういうとき、ドラマや映画だとヒロインは恋に胸を押しつぶされて、嘆き苦しむものなのに、真理子の内側は空っぽだった。

 なにも感じない。

 現実感がどこにもなかった。

 ふわふわと魂が漂っている。肉体もそうかもしれない。たしかにベッドの感触はあるのに、それが実感に繋がらない。

「私、ちゃんとここにいる?」

 声に出して確かめる。声を聞いて手を伸ばし、ペタリと頬に触れた。触れられるから、ちゃんといる。――でも、この感覚も幻かもしれない。

 カレンダーを確認するとか、テレビをつけてニュースを見るとかして、日付を確認したら旅行が本物だったと思えるかも。

 そう考えるのに、起き上がるのはおっくうだった。

 なにもしたくない。

 する気が起きない。

 このままゆっくりと溶けて、液体になってベッドにたまって、浸み込むか蒸発するかして消えてしまえたら。

 誰もなにも知らないまま、消滅するの。なにもかも、きれいさっぱり。痕跡も残さずに。――誰の記憶にも残らずに。

 誰とも会う気は起きないし、誰かに気にかけてもらいたくもない。間接的にも触れられたくない。ただ、こうして静かに、なにもせず、なんにもならない存在でいたい。

 からっぽの自分の外殻が、はやく消え失せてしまえばいいのにと真理子は思う。こんな状態で日常に放置されるなんて、堪えられない。――堪える? そんな必要もない。私はただ、こうやって横たわっているだけ。道端の小石とおなじ。誰も見向きもしない、ただそこにあるだけの存在でいたい。

 琉偉がもういないから。

 琉偉とはもう離れてしまったから。

 だから、なにもしたくない。

 からっぽすぎて、涙も出てこない。

 悲しいという感情すら、湧き上がらない。

 いつの間にか、琉偉は真理子の内面のすべてになっていた。

 魂をすべて、琉偉のところへ置いてきてしまった。

 だから、ここにいるのは抜け殻。

 なんにもない、からっぽ。

 あと3日、琉偉といられたはずなのに、自分からそれを放棄した。

 彼から別れを告げられたくなくて、逃げ出した。琉偉にとっては、期間限定の恋だから。それをわかっていながら、割り切れないほど好きになってしまったから。

 宝くじで高額当選をした人は、人生が変わってしまうと聞いたことがある。スロット・マシンであたりを引けば、億万長者。きっと人生が変化するだろう。

 私はあの船の上で、あのスロット・マシンで、ジャックポットを引いてしまった。琉偉というジャックポットを、引き当ててしまった。

 夢のような時間はあっという間に過ぎてしまった。夢は覚める。現実に戻らなくてはいけない。それをはやめた私の選択は、間違いだったのかな。

 琉偉。

 彫りの深い顔。青い瞳、黒い髪。――日本人と言われて、ビックリした。それよりも、彼と初対面でいきなり、キスもそれ以上もしてしまったことに驚いた。というか、あんな大胆なこと。いくらお酒に酔っていたからって、自分が信じられない。

 でもきっとそれは、夢だったから。

 あそこは現実世界とは切り離された場所。外国よりもずっとずっと遠い、夢の国だったから。

 だから私はあんなにも大胆になれた。真面目で、両親に心配をかけないで、教師ウケもよくって、大きなハメを外すこともなくて、上司からも信頼されて、アレコレと仕事を任される。友達が大勢いるわけではないけれど、すくなくもない。それなりの人間関係を営んでいた、過不足のないイイ子だった。

 そんな、どこにでもいる平凡で、なんの面白味もない地味な私が、あんなにステキな人と恋ができるなんて、現実にはあり得ない。

 そう、現実にはあり得ない。

 だから、あれは夢なんだ。夢だったの。貯金をはたいて、私は夢を買った。そこで理想以上の人と出会って、恋をして、支払った金額以上の思い出を手に入れた。

 それなのに……。

 手に入れたはずなのに……。

 どうして、からっぽなんだろう。

 おかしいな。

「……琉偉」

 手に入れたものをすべて、彼のところへ置いてきてしまったからだ。

 堂々巡りの思考を、真理子は繰り返す。

 そうするほかに、真理子はなにもできなかった。

 からっぽだから。

 手に入れたはずのものは、すべて消え去ってしまったから。

 それどころか、もともと真理子が持っていたものも、なくなってしまったから。

 私、なにか持っていたっけ?

 なにもなかった。

 なにもないのに、あるフリをして生きてきたんだと真理子は思う。

 もとから、からっぽだったんだ。

 親の言うとおり、世間の認めてくれるようにと生きてきた。ささいな好みやわがまま、望むものはあったけれど、私にはこれがある、と胸を張って言えるものではなかった。

 はじめてそう思えたのは、琉偉への想い。

 それを自分から手放した。

 手放さなくても、なくなると決まっていた。

 悪銭身につかず。

 古い言葉を思い出した真理子の口許が、不器用に歪んだ。笑みにもならなかったそれは、すぐに消える。

 ギャンブルで手に入れたお金は、すぐになくなってしまう。カジノで手に入れた恋は、あっけなく消えてしまった。

 そして真理子は、自分がからっぽだと思い知らされた。

 使い果たしちゃった。

 当初の予定通りだ。

 これといった趣味もなく、贅沢をすることもせず、旅行に行くわけでもなく、自然と増えていった貯金。

 もう全部、使い果たしてしまいたい!

 そう思って、豪華客船に乗ろうと決めたのだ。

 いままで模範的なイイ子として、両親に褒められていたはずなのに、手のひらを返したように「はやく結婚しなさい」と眉をひそめられ、その結婚相手になる予定だった男に浮気をされて、人生をすべて否定したくなった。

 思い切りバカをやって、真面目な自分をぶち壊したい。

 それが今回の、旅行の理由だった。

 からっぽになったのは、目的を達成したからだ。

「ふ……、ふふ」

 真理子の唇から笑みがこぼれる。ちいさく震えて、真理子は泣き声とも笑い声ともつかぬ音を、胸の奥からあふれさせた。

 予定通りじゃない。

 全部使い果たして、真面目な自分をぶち壊した。世間一般に言われるようなハメの外し方からすれば、ずっと軽く真面目の域を超えないものかもしれないけれど、真理子にとってはとんでもない行為だった。

 期間限定の恋なんて、真面目な人にはできやしない。

「大成功じゃない」

 つぶやいた真理子は、クスクスと渇いた笑いに体を震わせた。

   * * *

 なぜ真理子は来ない。

 腕時計を見て、待ち合わせ時間が間違っていないことを確認し、琉偉はイライラと足先で床を叩いた。

 約束の時間はとうに過ぎている。待ち合わせ場所も間違ってはいない。それなのに真理子の姿がどこにも見えない。

 なぜだ。

 琉偉は眉間にシワをよせ、あたりを見回した。

 真理子らしい人影はどこにも見当たらない。なぜ真理子は来ないのかと、琉偉はまた腕時計に目を落とした。

 待ち合わせに遅れるような人じゃない。それはこの短い期間でわかっていた。なにか、トラブルにでも見舞われたのだろうか。

 きっとそうだ。そのほかに、真理子がここに来ない理由が思いつかない。

 どんなトラブルだろうか。

 考えるよりも確認が先だ。

 琉偉はレストランの受付に、真理子が来たら席に案内をしておいてくれと、彼女の特徴を伝えて離れた。

 せかせかと事務室に戻る。

「ニック」

 扉を開けざま呼ぶと、ニックは驚いてイスから立ち上がった。

「どうしたんですか。そんなに血相を変えて」

「どこかでトラブルはなかったか」

「トラブル? なにかあったんですか」

「だからそれを聞いている。なにかなかったか」

「……そういう報告はきていませんが。どうしてそんなに焦っているんです。いったいどうして、トラブルがあったと思ったんですか」

「――真理子が来ないんだ」

「え?」

「約束の時間に、真理子が来ない」

 琉偉はイライラと事務室の中を歩き回った。

「女性に待たされるなんて、いつものことでしょう」

「真理子は違う! 彼女は約束よりもはやく、待ち合わせ場所に来るんだ」

「……真面目な女性だと、言っていましたね」

「そうだ。真理子は俺を待たせないように、いつも先に待ち合わせ場所に来ていた。その彼女が時間を過ぎても現れないんだ」

「フラれた……、という可能性は?」

 琉偉は目を見開いた。

「……俺が、フラれた、だと?」

「あり得ませんね」

「いや……、わからない。彼女はとにかく、いままで付き合ってきた誰とも違うんだ。その可能性は……」

 琉偉は真理子のほほえみを思い出し、首を振った。

「あるとすれば、彼女はかなりの女優だ。……俺は、なにか彼女を不快にさせることをしたのか?」

 ニックは肩をすくめた。

「そんなふうに、女性に関してうろたえている姿をはじめて見ました」

「言っただろう。――本気なんだ。でなければプロポーズの相談なんて、しやしない」

「そうでしたね。……たとえば、あなたの過去の相手から、あなたの素行を聞かされて愛想をつかした、という可能性もなくはないですよ」

 琉偉の顔から血の気が引く。

「あるいは、あなたを手に入れようと考えた誰かが、彼女にイタズラを仕掛けたか……」

「すべての従業員に、真理子を探すよう命令をしろ」

「落ち着いてください」

「落ち着かなくさせたのは、おまえだろう」

 ニックはやさしい瞳でほほえんだ。

「あなたがどれほど本気なのかを、試しただけです。すぐに真理子がどこにいるのか、調べてみましょう。――すぐに見つかりますよ。クルーがどれほど優秀かはご存じでしょう」

「……ああ」

 力なく返事をした琉偉の肩に、ニックが手を置く。

「もしかしたら、単に気分が悪くなって、客室で休んでいるだけかもしれません。どこにいるかわからないのに、やみくもに探し回って、行き違いになってしまっては困るでしょう。とりあえず彼女の部屋へ行ってみてはどうですか。ウロウロなされて連絡が行き違いになると困りますし、そちらでお待ちになっていてください」

 反射的になにかを言おうとした琉偉は言葉を探し、けれど言うべきものを見つけられなくて、ただ息をこぼした。

「わかった、そうしよう。……真理子の客室へ行く」

 なぐさめるように肩をたたかれ、あるかなしかの笑みを浮かべた琉偉は事務室を後にした。

 真理子はどこで、なにをしているんだ。

 すれ違いになったのかもしれないとレストランに戻ってみたが、来ていないと言われた。

 ニックに言われた通り真理子の客室へ向かうが、事務室へ向かったときのような勢いはなく、琉偉の足取りは重かった。

 彼の脳裏にニックの言葉が引っかかっている。

――あなたを手に入れようと考えた誰かが、彼女にイタズラを仕掛けたか。

 ありえなくはない。

 琉偉は真理子と過ごしているにも関わらず、熱い視線を向けてくる女性に気づいていた。琉偉のウワサをどこかで聞いていたのか、それとも単に自信過剰なだけなのか。

 かつて琉偉の周囲にいた女性は、自分のほうが魅力的だと判断したら、遠慮などせずアプローチを仕掛けてきた。そういうタイプの女性が、真理子を気弱な女性と見て取り、威圧をかけたという可能性を思い浮かべて、琉偉は自分の素行を呪った。

「真理子」

 部屋にいてくれと願う。

 もしも想像どおりなら、いくらでも彼女をなぐさめる。抱きしめて、キスをして、どれほど愛しているのか心を尽くして伝えよう。――俺にとっては、真理子が最高の女性なんだ。

 琉偉は心の中で叫んだ。

 真理子のほかの、どんな女性にも心を動かされない自信がある。離れていても、心は真理子に支配されている。魂を取り出して、どれほど惹かれているのかを見せることができれば――ッ!

「真理子、真理子! いないのか」

 扉をノックし声をかけても、客室の中から返事はなかった。真理子はいるのか、いないのか。それだけでも知りたいのに、知るすべがない。

「真理子……」

 つぶやき、ドアノブに視線を向ける。客室の鍵を持ち出して、室内に踏み込もうか。

 行き過ぎた行為だと、琉偉は考えなかった。ただ真理子の姿を見たい。そのためなら、職権を利用してもかまわない。

 それほどに、琉偉は追い詰められていた。

 イヤな予感が胸のあたりにざわめいている。その原因はニックの言った予想だろうか。

 琉偉はふと、朝食のときに真理子の笑顔がくもった瞬間を思い出した。どうかしたのかと問えば、なにがと返された。心配事があるときは、なにが、ではなく、なんでもないと、とっさに返答をしてしまうものだ。だから、ただの気のせいかと思った。それでも気になって、表情が沈んでいるように見えたからと告げると、真理子は「ヤだ」と笑った。

「私、真顔になると暗いとか、心配事がありそうとか言われるのよね」

 ぼうっとしていると、そういうふうに見られると答えられて、そうなのかと琉偉は納得した。黙っているだけなのに怒っているように見える人や、泣いているように見える人もいる。生真面目に生きてきた真理子は、考えることがクセになっているので、ふとした瞬間に案じ顔になってしまうのだろう。

 そんなふうに受け流した。

 だがもし、本当の心配を抱えていたのだとしたら。

 もっと深く聞けばよかったと悔やんでも、どうしようもない。あの瞬間はもう、帰っては来ないのだから。

「真理子」

 いま、どこにいる。

 祈るように名を呼んで目を閉じた琉偉は、扉に額を置いた。

 ニックが従業員たちに、真理子の居所を探すよう手配をしている。この船のクルーは優秀だ。きっとすぐに真理子の所在が分かる。ここで待っていた方がいい。

 探しに行きたい衝動を堪えるために、琉偉はこぶしを握った。それを扉に打ちつける。

 この音に気づいて、真理子が出てきてくれはしないか。

 そんな思いを込めてみたが、室内からはなんの反応もない。

 部屋にいないのか。

 なら、どこにいる。

 ジリジリと焦燥にあぶられる琉偉の耳に、せわしない靴音が届いた。顔を上げれば、困惑顔のニックが近づいてくる。

 琉偉は扉から離れ、ニックに駆け寄った。

「真理子は?!」

「それが……」

「なんだ。はやく言え! 彼女はいま、どこにいる」

「……下船をしています」

「――え?」

「彼女は予定を繰り上げて、神戸で船を降りてしまっているんです」
「ばかな!」

 琉偉はニックが差し出した下船手続きの書類をひったくった。真理子が間違いなく下船をしたという証拠が、目の中に飛び込んでくる。

「……なぜだ」

 琉偉はよろめいた。

「真理子、どうして」

 壁に背をあずけて、琉偉はずるずると床に座り込んだ。そんな彼の姿を、ニックは気の毒そうに見下ろす。

「彼女との縁も、ここまでだったということですね。――彼女は、あなたから逃げ出した」

 なぐさめにしてはシビアなニックの言葉に、琉偉は気を取り直した。

「いいや、まだだ」

「え?」

「これから3日。俺に時間をくれないか、ニック」

「どういうことです」

「真理子を手に入れる」

「――は?」

 立ち上がった琉偉は、書類をニックの胸に押し当てた。

「日本近郊なら、俺がいなくとも問題なく旅程を進められるだろう。博多を出発するころには、船に戻る」

「船に戻る……、って。まさか――」

「その、まさかだ」

 琉偉はニヤリとした。

「真理子を手に入れてくる」

 彼女を得るためなら、どんなことでもしてみせる。

 あっけに取られるニックを残し、琉偉は準備のために大股で自分の船室へ向かった。
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