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第一章 32歳~
35 あり得ない夢 37歳
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〖紗栄子?入っていい?〗
生まれたばかりの娘といる病室に蓮が入ってきた。あのころと変わっていない見た目に違和感はあったが、あの頃以降の蓮を、紗栄子は知らない。
〖うわー…。赤ちゃん可愛いな。大志に似てる。〗
あり得ない状況だ。蓮が亡くなったから大志と結婚して子供が生まれたのであって、その様子を蓮が見に来られるわけがないのだ。
〖ありがとう。…抱っこする?〗
〖いいの?〗
蓮は病室にある洗面台で念入りに手を洗う。家でもそうだった。そこらへんは妙にリアルだ。
〖ちっちゃー…。懐かしい。瑛と奏もこうだったよな。〗
〖そうだね。〗
———私、なんで違和感なく蓮に接してるんだろう?
そう思ったところでドアがノックされた。
コンコン!
〖はいー…。〗
「紗栄子?」
目を開けたら心配そうな顔をして覗き込んでいる大志がいた。さっきのノックの音は現実のものだったらしい。病室にいるのも生まれたばかりの娘がいるのも現実だ。もちろん蓮はいない。彼の指が紗栄子のほほを撫でる。流れている涙を拭うために。
「赤ちゃんと一緒にいて、疲れてるよな。」
大志は手慣れた調子で消毒用アルコールを手に擦りつけると、生まれて間もない娘を抱き上げた。こちらも泣いていたからだ。
「ありがと…そろそろおっぱいかも。」
紗栄子はササッと準備をすると、大志から娘を受け取る。娘は懸命におっぱいを飲み始めた。
「あり得ない夢を見てた…。」
「…どんな?」
紗栄子の口から発せられる“夢”という言葉に大志は過敏に反応してしまう。
「この病室に蓮が来て、この子を嬉しそうに抱っこしてくれたの。」
つう、と紗栄子の瞳から涙が落ちる。授乳のために彼女の手がふさがっているので、大志がティッシュを取ってそれを優しく拭う。
「ごめんなさい。」
「謝ることない。話して楽になる方が、紗栄子にもこの子にもいいことだよ。」
「ありがとう…。」
「実際、蓮のやつここに来てるかもな。…喜んでくれてるといいな。」
「うん…。」
「俺も思い出すよ。瑛や奏が生まれた時、こうやってお邪魔させてもらったじゃん。」
「そうだったね。嬉しかったよ。…確かにちょっとお邪魔だったけど。」
「ひでえな。」
紗栄子はその時の感覚を思い出していた。子供が生まれて、夫である蓮と、元カレである大志とがそろって目の前にいて、いったい自分は今現在どちらの男のものだったのか、妙な感覚になったのだった。
「紗栄子と蓮の子供を抱っこしてさ。俺本当に嬉しかったんだ。あー、すげえ幸せそうでよかったって。」
大志の正直な感想は、妻の涙腺を刺激してしまう。
「そんなこと言わないでえ…。」
「ごめんごめん。ほら、赤ちゃんちゃんと抱いて。」
「だってー…。」
大志はしばらく紗栄子の涙を拭い、授乳が終わって娘を受け取ると、そっと紗栄子にキスをした。
大志は本当にずっと紗栄子を愛してくれているのだ。それは時に若い情熱的な恋情であったり、恋愛を超えた親愛であったり、形を変えてきたのだろうが。もちろん、蓮のパートナーであったことも大きいだろう。
娘を抱く大志の顔が、“初めて見るような顔ではない”ことに紗栄子は感心している。初めてのわが子だからとか、そんなことはちっとも気に留めていない顔だ。むしろ、瑛を初めて抱っこした時の方が大きく感動しているような顔だった。
それだけ瑛や奏のことをわが子のように思って接してくれている証拠なのだと思う。しかし大志にそうさせているのは自分自身だと紗栄子は自覚していない。
「大志。」
「ん?」
「お昼ご飯、食べる?」
そう言って紗栄子は両手を広げる。
「うん。ありがとう。…飯食う時間ももったいないな。」
「この子のためにもちゃんと食べて。」
紗栄子が娘を受け取ると、大志は大急ぎで昼食を食べ始めた。
「焦らないでってば。」
「時間が惜しい。」
「家のこと、どう?」
「川原家と青山家にお世話になっております。工藤の母がいよいよ名乗りを上げてきそうだけど、どうなるかなあ。瑛と奏が気を遣ってかえって面倒そうな気もするし。」
「うーん…。3人のばあばたちで分担の取り合いになりそう。」
「だなあ。」
ブルルルル!
呼び出しの電話が、大志の白衣の胸ポケットで震えている。
大志がはーっとため息をつく。すぐには出ずに、残りの食事を頬張る。
「大変ねえ。」
「もうちょっと抱っこしたかったな。」
大志はそう言って紗栄子にキスをし、娘の頬をそっと撫でると、再びかかってきた電話に出ながら病室を出て行った。
去り際の大志の一言が、蓮の言葉のようにも聞こえて、病室に1人になった———正確には子供と2人だが———紗栄子はもう一度泣いた。
生まれたばかりの娘といる病室に蓮が入ってきた。あのころと変わっていない見た目に違和感はあったが、あの頃以降の蓮を、紗栄子は知らない。
〖うわー…。赤ちゃん可愛いな。大志に似てる。〗
あり得ない状況だ。蓮が亡くなったから大志と結婚して子供が生まれたのであって、その様子を蓮が見に来られるわけがないのだ。
〖ありがとう。…抱っこする?〗
〖いいの?〗
蓮は病室にある洗面台で念入りに手を洗う。家でもそうだった。そこらへんは妙にリアルだ。
〖ちっちゃー…。懐かしい。瑛と奏もこうだったよな。〗
〖そうだね。〗
———私、なんで違和感なく蓮に接してるんだろう?
そう思ったところでドアがノックされた。
コンコン!
〖はいー…。〗
「紗栄子?」
目を開けたら心配そうな顔をして覗き込んでいる大志がいた。さっきのノックの音は現実のものだったらしい。病室にいるのも生まれたばかりの娘がいるのも現実だ。もちろん蓮はいない。彼の指が紗栄子のほほを撫でる。流れている涙を拭うために。
「赤ちゃんと一緒にいて、疲れてるよな。」
大志は手慣れた調子で消毒用アルコールを手に擦りつけると、生まれて間もない娘を抱き上げた。こちらも泣いていたからだ。
「ありがと…そろそろおっぱいかも。」
紗栄子はササッと準備をすると、大志から娘を受け取る。娘は懸命におっぱいを飲み始めた。
「あり得ない夢を見てた…。」
「…どんな?」
紗栄子の口から発せられる“夢”という言葉に大志は過敏に反応してしまう。
「この病室に蓮が来て、この子を嬉しそうに抱っこしてくれたの。」
つう、と紗栄子の瞳から涙が落ちる。授乳のために彼女の手がふさがっているので、大志がティッシュを取ってそれを優しく拭う。
「ごめんなさい。」
「謝ることない。話して楽になる方が、紗栄子にもこの子にもいいことだよ。」
「ありがとう…。」
「実際、蓮のやつここに来てるかもな。…喜んでくれてるといいな。」
「うん…。」
「俺も思い出すよ。瑛や奏が生まれた時、こうやってお邪魔させてもらったじゃん。」
「そうだったね。嬉しかったよ。…確かにちょっとお邪魔だったけど。」
「ひでえな。」
紗栄子はその時の感覚を思い出していた。子供が生まれて、夫である蓮と、元カレである大志とがそろって目の前にいて、いったい自分は今現在どちらの男のものだったのか、妙な感覚になったのだった。
「紗栄子と蓮の子供を抱っこしてさ。俺本当に嬉しかったんだ。あー、すげえ幸せそうでよかったって。」
大志の正直な感想は、妻の涙腺を刺激してしまう。
「そんなこと言わないでえ…。」
「ごめんごめん。ほら、赤ちゃんちゃんと抱いて。」
「だってー…。」
大志はしばらく紗栄子の涙を拭い、授乳が終わって娘を受け取ると、そっと紗栄子にキスをした。
大志は本当にずっと紗栄子を愛してくれているのだ。それは時に若い情熱的な恋情であったり、恋愛を超えた親愛であったり、形を変えてきたのだろうが。もちろん、蓮のパートナーであったことも大きいだろう。
娘を抱く大志の顔が、“初めて見るような顔ではない”ことに紗栄子は感心している。初めてのわが子だからとか、そんなことはちっとも気に留めていない顔だ。むしろ、瑛を初めて抱っこした時の方が大きく感動しているような顔だった。
それだけ瑛や奏のことをわが子のように思って接してくれている証拠なのだと思う。しかし大志にそうさせているのは自分自身だと紗栄子は自覚していない。
「大志。」
「ん?」
「お昼ご飯、食べる?」
そう言って紗栄子は両手を広げる。
「うん。ありがとう。…飯食う時間ももったいないな。」
「この子のためにもちゃんと食べて。」
紗栄子が娘を受け取ると、大志は大急ぎで昼食を食べ始めた。
「焦らないでってば。」
「時間が惜しい。」
「家のこと、どう?」
「川原家と青山家にお世話になっております。工藤の母がいよいよ名乗りを上げてきそうだけど、どうなるかなあ。瑛と奏が気を遣ってかえって面倒そうな気もするし。」
「うーん…。3人のばあばたちで分担の取り合いになりそう。」
「だなあ。」
ブルルルル!
呼び出しの電話が、大志の白衣の胸ポケットで震えている。
大志がはーっとため息をつく。すぐには出ずに、残りの食事を頬張る。
「大変ねえ。」
「もうちょっと抱っこしたかったな。」
大志はそう言って紗栄子にキスをし、娘の頬をそっと撫でると、再びかかってきた電話に出ながら病室を出て行った。
去り際の大志の一言が、蓮の言葉のようにも聞こえて、病室に1人になった———正確には子供と2人だが———紗栄子はもう一度泣いた。
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