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記憶のカケラ 7

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 ざわざわと、落ち着かない風が吹いて、嫌な匂いを運んできたな、と泉<ポヌ>はもぞりと身を起こした。なんだか力の抜けるような、後ろ髪を引かれるような、なんとも気持ちの悪い心もちになることが多く、このところよく眠ってばかりいた。そのせいか、今もどこか遠くに引っ張られるような、不思議な感覚が残っている。
 けれどそれより、この嫌な匂いはなんだろう。
 泉<ポヌ>はめんどくさがりな体をよいせと転がし、視線を動かしてあたりを見た。
 そして、ぱかりと大きな泡を口から吐いた。

 見慣れぬ景色だった。
 しかも、揺れていた。がつんがつんと揺れるので、泉<ポヌ>の柔らかな体がびたんびたんと水底の石にぶつかった。
 気に入りの日があたる窓辺の卓の上ではないし、かつてない乱暴な扱いだ。
 泉<ポヌ>を抱えた黒づくめの人間たちは、泉<ポヌ>がこれほど跳ねているのに、気にも留めない。

 彼らが一時立ち止まり、振り返ったので、泉<ポヌ>もそちらを見て、そして小さな黒目をまん丸に開いた。
 赤い舌を蠢かして、屋敷の壁を食らおうとしている何かがいる。
 パチパチと爆ぜる音。
 水にも溶け込んでくる、黒い煙の匂い。
 遠くの方で、人が騒がしい。けれど、みるみる広がる赤い舌を止めにやってくる者はいない。

 これは、よくない。
 泉<ポヌ>はじたばたとした。
 屋敷を、守らなくては。

 けれど小さな泉<ポヌ>がどれほど暴れて訴えようと、なんの力になろうか。

「おい、早い事それを壊しちまえよ。逃げるのにそんな大きなものは持っていけねえ」
「ちょっと待て。確か、持ち帰って来いと仰せではなかったか」
「持ち帰ってどうするんだ。そんな異端の品。室内では壊すより先に捕まると言うから、ここまで持ってきたんじゃないか。すぐ壊せ」
「いや、だめだ。神を集めるべきだとおっしゃっていた」
「神? 神だと!? お前、あんな話を真に受けてるのか? 情けないぞ」

 どうでもよいが、騒ぎながら泉<ポヌ>を振り回すのはやめてほしい。
 そうこうしているうちに、赤いメラメラがどんどん大きくなって、気が気でない。
 さらには、揉み合った者たちの手から、泉<ポヌ>はまるごとこぼれ落ちて。
 澄んだ音がして、泉<ポヌ>は突如として吹き寄せた雑多な風に、もみくちゃにされ、押しつぶされ、ちぎられた。目が回る。自分を保っていられない。
 一度は繋がりを見失い、霞んで消えかけたと思ったら、いつかまどろんでいたこの小さな世界。うっとりと安心して、また繋がりが固まるまで、懐かしい匂いのする屋敷でまどろんでいたかったのに。
 風がどんどん泉<ポヌ>の中に吹き込んで、泉<ポヌ>はみるみる薄まって膨らんで、耐えきれなくて。
 ぱふ、と小さな音を立てて、泉<ポヌ>は弾けて消えた。

——と思ったのだけど。

 気がついたら、泉<ポヌ>は地面に転がっていた。
 硬くて乾いた地面だ。
 周りと大きな足が走り回る。泉<ポヌ>と同じように地べたに寝そべるのは、先ほどまで泉<ポヌ>を振り回していた人間たちではないだろうか。よくわからない。皆、同じように見える気もする。
 荒々しい人間たちに踏み潰されそうで恐ろしいのに、体は動かない。
 視線だけ動かして屋敷を見れば、いつの間にか赤い舌はなくなっていた。弱い星明かりに、黒々とした屋敷の輪郭から暗い煙が立つのが見える。
 なんだかわからないうちに、屋敷の者が駆けつけたのだろう。きっとそうに違いない。そして、悪い人間たちをやっつけたのだろう。
 泉<ポヌ>はほっと、息をついた。屋敷の人間が傷つくのは、とても嫌なのだ。
 ああ、けれど。
 泉<ポヌ>自身の居心地の良い住処は、どうやら失われたらしい。周囲に散らばる透き通ったとんがり山は、きっとその破片だ。生まれいでてこの方、感じたことのない喪失感に、泉<ポヌ>はぺしゃんこのまま、しょんぼりとした。

 そのときだ。
 誰かが泉<ポヌ>を覗き込んだ。
 泉<ポヌ>はそれを見返して、そして、いつか見上げた青空みたいだ、とパチクリした。
 青空はものも言わずに泉<ポヌ>を見つめていたが、やがて二本の指で泉<ポヌ>をつまむと、ひょい、とどこか柔かなところに入れた。
 柔らかで。そして、泉<ポヌ>の住まいと少し似た匂いのする場所。
 泉<ポヌ>は安堵でふにゃふにゃになった。

「クラーク卿、お気付きいただき、助かりました。屋敷に火を放つとは。凶悪極まりない。だが、大事なく消火できたようです」
「それはよかった。だが、こちらは間に合わず、申し訳ない」
「っこれは……なんと」

 息を飲む音。
 悲しい気持ちがぐにゃぐにゃの泉<ポヌ>に、波のように押し寄せてきた。


「……なんと、口惜しい。忠告までいただいていながら、守りきれなかったとは」

 ぎりぎり、と奥歯の軋る音がした。

「しかし、盗み出しながら、その庭先で破壊するとは、なんと傲慢で不遜なやり口か。……被害は当家だけに留まらない予測と聞いては我が儘を通すわけには参りませぬが、曲がりなりにも当家敷地内で取り押さえた賊の身柄をお引き渡しするのです。取り調べにて判明したことは、仔細に渡り情報をいただきたい。——家の宝を破壊されて、黙っているわけにはいきませぬ」

 悲しまなくても大丈夫、大丈夫……、と思いながら、泉<ポヌ>は微睡から抜け出すことができない。とりあえず、寝よう。なんだかすごく疲れたから、まず、回復しよう。
 ここは安心だ。
 柔らかな寝床にくるりとまるまり、泉<ポヌ>はするりと眠りの門をくぐった。
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