聖獣様に心臓(物理)と身体を(性的に)狙われています。

富樫 聖夜

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1巻

1-1

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 プロローグ 天獣


 この世界でもっとも強い生き物は天獣てんじゅうだ。
 獣の姿をしていながら高い知性を持ち、人の言葉をあやつり、人にはない強大な魔力を有する。
 寿命も長く、種族によって異なるが千年生きている天獣もいた。ただし、天獣自体の数は多くなく、それだけに世界にとって稀有けうな存在となっている。
 ラファードはそんな天獣としてこの世に生を受けた。天獣の中でも虎の種族――天虎てんこ族と呼ばれる一族の出身で、誕生してたった十年しか経っていない幼獣だった。
 けれど天獣は生まれつき知識があるので、自分が何であるかはもちろん、人間が聖獣せいじゅうと呼ぶ自身の父親がどういった存在であるかもよく知っていた。
 ある日、父親はみずからが守護する土地の山にラファードを連れていき、こう言った。

「坊やは、人間が好きかい?」
「うん」

 迷いなくラファードは答えた。特に父親が加護を与えている人間たちを気に入っていた。

「では僕の跡を継いで聖獣になるかい?」

 聖獣。父親は人間にそう呼ばれていた。父親だけでなく、すでに亡くなっている祖父もまた聖獣だった。ラファードも、自分はきっといつか父親の跡を継いで聖獣になると思っていたのでうなずいた。

「なる。俺、聖獣になりたい」
「代償として、この十年間の記憶の大半を失うとしても?」

 思いがけないことを言われてラファードは目を見張る。

「聖獣になる時に、それまであった記憶の大部分が消えてしまう。それでも聖獣になりたいかい?」
「記憶がなくなる……」

 母親と暮らし、時々訪れる父と過ごす幸せな毎日。その記憶がすべて失われてしまう?
 ラファードは躊躇ちゅうちょした。けれど、恐る恐る父親に尋ねる。

「でも、記憶がなくとも父上や母上を失うわけじゃないんでしょう?」

 父親は一瞬だけ目を見張り、それから破顔はがんした。

「もちろんだとも、坊や。君の記憶が失われても、僕らが君の父母であることには変わりない」
「なら、いい。それだけなら、新しい記憶をまた作っていける」
「そうだね」

 しみじみとつぶやいて、父親は眼下を見おろす。そこには田畑が広がり、人間のいとなみが見えた。ラファードの父親が守っている風景だ。

「まだ幼い君にこの役目を負わせるのはこくだと思う。けれど、古きを捨てて新しい記憶を作ると口にできる君ならば、きっと僕とは違う関係を人間と築いていけるに違いない」

 その言葉に何かを感じてラファードが見あげると、父親は目を細めて遠くを見つめていた。

「ラファード。僕が聖獣になったのは百歳の時だ。父が寿命を迎えようとする時になって、聖獣の役目を継いだ。継いだ時にそれまでの記憶の大半は失われてしまい、新しい記憶を作ろうにも父と母は間もなく亡くなり、それは叶わなかった。父母に対する思慕しぼは残っているのに、彼らとの記憶がない。ぽっかり胸に穴が空いたようだったよ」
「父上……」
「そのせいで僕は臆病になり、加護する人間とも一定の距離を置いてきた。親しくなっても寿命の異なる人間は、あっという間に僕のそばからいなくなってしまうから。……でも妻と出会い、君という家族を得てから、思うところがあってね。人間とも距離を置くだけでなく、もっと違う関係を築けたのではないかと考えるようになった。今さら僕がその距離を詰めるのは無理がある。でも君なら」

 父親はふと視線をラファードに移す。

「きっと僕より人間に寄り添った関係を築いていけると思う。だから僕は君に聖獣の役目を託したい。父と母が愛したこの国を、守ってやって欲しい」

 ラファードは父親の大きな身体を見あげ、しっかりとうなずいた。

「うん。守るよ。父上の守ってきたこの国を、人間たちを、俺が――」

 誓うように告げるラファードを、父親は優しい眼差しで見おろしていた。



 第一章 辺境の伯爵令嬢


 フェルマ国の辺境の地にあるジュナン伯爵家の屋敷では、伯爵夫人の指示のもと、何人もの侍女が慌ただしく動き回っていた。
 それもそのはず、伯爵家の長女エルフィールが社交界デビューのために、明日王都へ出発することになっているのだ。その準備に余念がない。
 ところが肝心のエルフィールは、それに参加することなく自室で本を読んでいた。関心がないわけではなく、すでに必要な準備は終えているからだ。
 しばらくの間は黙って本に目を落としていたエルフィールだったが、とうとう我慢できなくなって顔をあげた。
 ――いくつ荷物を追加するつもりなのかしら……
 ふぅっとため息をつくと、エルフィールは本をひざに置く。そして、まだそでを通していないドレスを長持ながもちに詰めるよう侍女に指示する母親に、呆れたように声をかけた。

「お母様、必要な荷物はもう王都に送ってあるし、そもそもそんなにドレスは必要ないわよ」
「いいえ。社交界デビューが済んだら、あちこちから夜会や舞踏会に誘われるようになるの。いつも同じドレスを着させるわけにはいかないわ」

 母親である伯爵夫人は断固とした口調で言った。

「もちろん装飾品も同じものを使い回すなんてだめよ。いい物笑いの種になるわ。それなのにあなたったら、必要最低限のものしか王都に送ってないそうじゃない」
「でもね、お母様。うちの交友関係が狭いことはお母様が一番分かっているでしょう? 親戚付き合いもしていないから、夜会や舞踏会に招待されることはないわ」

 エルフィールは悲しい現実を母親に示す。王都に屋敷を持つ親戚はいるにはいるが、十年前、ジュナン伯爵家の経済状態が悪化した時に縁を切られて、交流を絶ったままだ。

「それは……」
「せいぜいブラーム伯爵のご友人が義理で誘ってくれる程度だと思うの」

 ブラーム伯爵というのは父親の数少ない友人の一人だ。王都に別宅を持たないジュナン伯爵家のために、屋敷の一つを貸してくれることになっている。その上、身体が弱くて長旅ができない母親の代理として、ブラーム伯爵夫人がエルフィールの支度を手伝うと言ってくれているのだ。

「お父様もあまり他の貴族とは交流がないんですもの。私が誘われることはないと思うわ。人目を引くほど美人というわけでもないし」
「そんなことはないわ、あなたはとても綺麗よ、エルフィール!」

 すかさず母親は言ったが、それは親のひいき目というものだろう。
 エルフィールは、自分が目のえた貴族男性の気を引けるほどの容姿ではないことを知っている。
 整った顔立ちをしているものの、美人とまではいかない中途半端な娘。それがエルフィールだ。
 高くもなければ低くもない鼻。シミ一つなくなめらかだが、真っ白とは言いがたい、よく言えば健康的な肌。形はいいが、色気をまったく感じさせない唇。
 長いまつ毛は大きな緑色の目をことさら強調し、美人というより可愛らしい印象を人に与える。背中まで伸びたくせのある髪は豊かでつややかだが、薄い茶色という平凡な色合いだ。
 要するに人口の少ない田舎いなかではそこそこの容姿だが、きらびやかによそおった貴族令嬢や貴婦人たちにまぎれてしまえば、まったく目立つ要素のない容姿なのだ。
 母親は、着飾ればエルフィールだって王都に住む貴族令嬢に負けないと思っているようだが、自分を美しく見せることにけた彼女たちに勝てるわけがない。

「ともかく、私の目的はあくまで王都の見学と、城にいらっしゃる聖獣と王族の方々をこの目で見ることなんだから」

 この国の貴族令嬢は、年に一度城で開かれる舞踏会に出席することで、社交界デビューを果たす。そのため、登城が許可される十六歳になると、みんなこぞってこの舞踏会に参加するのだ。
 エルフィールも本来なら去年、王都に出て社交界デビューするはずだったのだが、当時はまだジュナン伯爵家の負債の返済が終わっておらず、貴重なお金を自分のことにてる気にはなれなかった。そこで渋る両親を説得して、一年待つことにしたのだ。
 社交界デビューが一年遅れることになったが、エルフィールは構わなかった。なぜなら――

「それに、私にはもう婚約者がいるのよ? 他の貴族令嬢のように結婚相手を探しているわけではないのだし、夜会に行く必要も――」

 母親の目がうるむのを見て、エルフィールは内心「しまった」と思った。母親にとってエルフィールの婚約は苦々しさと罪悪感を呼び起こさせることなのだ。

「ごめんなさい、エルフィール。本来なら社交界に出て身分の釣り合った相手と結ばれるはずだったのに、私たちのせいで……」
「お母様、いつも言ってるでしょう? 私は気にしないって。納得してこの婚約を受け入れているんだって」
「エルフィール……」
「それに、うちのような田舎いなか貴族と縁続きになりたい貴族がいるかどうかも分からないじゃない。確かにサンド商会の息子さんは貴族じゃないけれど、女は望まれて結婚した方がきっと幸せになれると思う」

 通常、伯爵令嬢ともなれば結婚する相手は貴族なのが普通だが、エルフィールは訳あって豪商の家に嫁ぐことが決まっている。それが母親には不本意なのだ。

「お母様、私は少しも苦じゃないわ」

 穏やかな微笑を浮かべるエルフィール。母親は涙をぐっとこらえると、震えるような息を吐いた。

「せめて……王都にいる間だけでも、貴族の娘らしく華やかな場に参加して楽しんでもらいたいの。商人に嫁いだら、夜会や舞踏会に行ける機会はないに等しいもの。ね? そのためにはいつ招かれてもいいように準備をしておかないと!」

 訴えるように言われて、エルフィールはやれやれと天井をあおいだ。

「……分かったわ。お母様に任せるわ」

 とたんに母親は顔を輝かせて、侍女たちへの指示を再開する。

「そこのドレスも荷物に入れてちょうだい。ああ、その首飾りもよ」
「はい。奥様」

 忙しく立ち働く侍女たちを、あきらめの気持ちで見つめていたエルフィールは、深いため息と共にソファから立ち上がった。

「お母様、私、少し席を外しますね」
「図書室? いいわ、いってらっしゃい」

 それにはにっこり笑って答えないまま、エルフィールは静かに自室を出る。
 部屋を出たエルフィールが向かったのは、図書室ではなく玄関だった。母親に外出すると言わなかったのは、供をつけろとうるさく言われるからだ。
 ――お供なんて連れて行ったら、せっかく慣れてくれたあの子たちが出てきてくれないじゃないの。
 見知らぬ人間がいると、エルフィールの友人たちは姿を現してくれないのだ。
 だからエルフィールは使用人たちが一番忙しい時間帯を見計らって、誰にも見とがめられないように屋敷を抜け出す。彼女が向かう先と目的を知っているのは、ほんの数人だけだ。

「姉上ぇ! 待って! 湖に行くんでしょう?」

 玄関から外に出ようとしたエルフィールを甲高かんだかい声が呼び止める。来月十歳になる弟のフリンだ。

「明日姉上は王都に行くから、きっと今日出かけると思っていたんだ。僕も連れていって!」

 フリンはバタバタと走ってくるなりスカートに抱きつく。それを受け止めながらエルフィールはにっこり笑った。

「いいわよ、一緒に行きましょう」

 彼女の行き先と目的を知っているうちの一人がフリンだ。遊び相手となる子どもが近くにいないこともあり、フリンは姉のエルフィールによくなついている。エルフィールも歳が離れた弟をとても可愛がっていた。二人は手をつないで玄関から外へ出ると、うまやに向かう。

「ジョナサン、馬を借りるわね」

 エルフィールは小屋を覗き込み、ちょうど馬の世話をしていた馬丁ばていのジョナサンに声をかける。すると、彼は振り返ってしわだらけの顔をほころばせた。

「きっとお嬢様が来るだろうと思って用意しておきましたよ」
「……そんなに分かりやすいのかしら、私ってば」

 エルフィールが思わず苦笑すると、ジョナサンはさらに深いしわを顔に刻んだ。

「お嬢様のことは生まれた時から知ってますからね」

 馬丁ばていのジョナサンは古くからジュナン伯爵家に仕えている古参の使用人だ。エルフィールが生まれた頃からの付き合いなので、彼女のやりそうなことはお見通しらしい。
 ジョナサンもまたエルフィールの行き先を知っているうちの一人だった。
 気性の穏やかな雌馬めうまに二人が乗るのを手伝いながら、ジョナサンはいつもと同じ忠告をする。

「いいですか、絶対に山には入らないでくださいね。あそこはきりが深くて、もし迷ったりしたら探し出すのが困難になりますから」
「分かってるって」

 まったく同じ言葉を姉弟が同時に発する。それを聞いて、ジョナサンはくすっと笑った。
 やがて出発の準備が整うと、エルフィールは明るい声でジョナサンに告げた。

「では行ってくるわね、ジョナサン」
「行ってらっしゃい、お嬢様、若様。お気をつけて!」

 ジョナサンの声を背に、エルフィールとフリンを乗せた馬は裏門に向けて歩き始める。
 二人の姿が見えなくなるまで見送っていたジョナサンは、浮かべていた笑みをふっと消した。仲のよい姉弟が気兼ねなく外出できるのも、あと少しの間だけであることを思い出したからだ。
 半年後、エルフィールが十八歳の誕生日を迎えれば、結婚してこの家を出ていくことが決まっている。屋敷にさわやかで明るい風を吹き込んでいたエルフィールは、もうすぐいなくなってしまう。

「きっと、火が消えたようになるな……」

 ジョナサンは寂しそうにつぶやくと、何かを振り切るようにうまやに戻っていった。


 屋敷を離れたエルフィールとフリンは北に向かう道をのんびり進んだ。
 ここから目的地まではそれほど遠くない。
 ほどなく、なだらかな田園風景の先にいきなり山が現れた。それは奇妙な光景だった。遠くまで見渡せる平坦な土地に、ぽっかりと山がそびえ立っているのだから。
 山はそれほど大きくなく、また高さもそれほどではない。隣国との国境に横たわる山脈に比べたら、山と呼べるかどうかもあやしいほどだ。けれど皆がそれを「山」と呼ぶ。
 大昔からジュナン伯爵領にあるその山は、時代によっては「聖なる山」とか「魔が住む山」とか呼ばれていた。うっそうと木々が生い茂り、迷いやすい上に、山頂は常にきりがかっていて輪郭りんかくがはっきりしないからだ。
 どんなに周辺が晴れていても発生するそのきりは、山に近づく者の視界を奪う。そのため、領民は気味悪がって近づこうとしなかった。
 その「魔が住む山」のふもとにある小さな湖がエルフィールたちの目的地だ。
 街道から山へと向かうあぜ道を進み、しばらくすると、エルフィールたちは目的地に到着した。
 少し離れた場所に馬を停め、二人は手をつなぎながら、日の光を反射してキラキラと輝く湖に向かう。山はうっそうと木が茂り全体的に薄暗いが、ここは違う。空には晴れ間がのぞき、周囲を明るく照らしていた。
 ここを見つけたのは偶然だ。エルフィールが七歳の時、暗い屋敷の雰囲気に耐えられずに一人でふらっと出歩き、たどり着いたのがここだった。今となってはなぜあの当時、遠くからは不気味に見えていた山に近づこうと考えたのか、自分でもよく分からない。
 でも今はその偶然に感謝していた。
 なぜなら、ここでエルフィールは心をなぐさめてくれる大事な友人と出会ったのだ。
 友人はいつの間にか姿を消していたけれど、また別の出会いをもたらしてくれた。だからこの場所は、相変わらずエルフィールにとって大切な場所だった。
 エルフィールとフリンは湖のほとりに立ち、山に向かって「ピュー」と口笛を吹いた。一度ではなく、何度も。
 もしこの光景を母親が見たら「貴族令嬢が口笛なんて!」と卒倒するに違いないが、エルフィールはまったく気にしなかった。
 しばらくすると山側の茂みの中からカサッと草を踏む音が聞こえた。次いで茂みからはいくつもの顔が覗き、エルフィールたちの姿を確認すると、わらわらと姿を現す。
 茂みから出てきたのは猫だった。トラジマの猫を先頭に、黒やら白、茶色など、実に様々な色の猫たちが現れる。もちろん一匹ではなく、何匹もだ。そのうちの半数がまだ子猫と呼べる年齢だった。

「ニャア」

 先頭のトラジマの猫がエルフィールの前に来て、挨拶あいさつするかのように鳴いた。

「はぁーん、可愛い……!」

 エルフィールは相好そうごうを崩してひざまずき、手を伸ばしてトラジマの頭を、そしてのどを撫でる。猫はエルフィールの手の中で気持ちよさそうにゴロゴロと鳴いた。

「元気そうね、ミーちゃん2号。ミャアちゃんも、ニャンちゃんも、ミーチビたちも」

 一匹一匹を撫でながら挨拶あいさつすると、同じように猫を撫でていたフリンはなんとも言えない表情になった。

「いつも思うけど、姉上の名づけセンスって変……」
「え? どこが変なの? 猫らしくていいじゃない?」

 本気で良い名前だと思っているエルフィールには、弟の言葉はとても心外だった。

「2号とか、普通つけないと思う……」
「だって、初代ミーちゃんは別にいるもの」

 トラジマの毛並みを撫でながら、エルフィールは懐かしさに目を細める。

「ここを最初に見つけた時に出会った猫なの。この子のようにトラジマでね。すごく可愛かった。いつの間にかいなくなっちゃったけど……」

 いなくなったと分かった時は、本気で山に入って探そうと考えたものだ。けれどさすがに山に入る勇気は出ないまま、ジュナン伯爵家の経済状態が好転したこともあって、屋敷を抜け出してくる頻度ひんどは減ってしまった。
 それから五年後、なんとなく久しぶりに訪れた湖で出会ったのが、このトラジマ模様の「ミーちゃん2号」だ。

「ミーちゃんの子どもか孫なのかもしれないって思って、根気よく餌付えづけしてようやく仲良くなったのよ」

 ミーちゃん2号が他の猫との間にどんどん子猫を生んでいき、今の状態になっている。ここにいるのは、みんなミーちゃん2号の子どもなのだ。

「さぁ、みんな。お食べ」

 エルフィールは台所からこっそり持ち出していたパンを小さくちぎって投げた。ちょうど目の前にパンくずが落ちてきた白猫が、首を伸ばしてパンを口に入れる。
 催促さいそくするように鳴く猫たちに、エルフィールとフリンはせっせとパンくずを与えた。夢中で食べる猫たちをエルフィールが笑顔で見つめていると、隣に腰を下ろしていたフリンがポツリと尋ねた。

「姉上……どうして結婚するの?」
「え? どうしてって……」
「サンド商会から借りたお金は、去年全部返済し終わったって聞いたよ。だったら、姉上がお嫁に行く必要ないんじゃないの?」

 エルフィールが驚いて弟を見つめると、同じ色の瞳が真剣な光をたたえて彼女を見あげていた。

「姉上が犠牲になることないんだ」

 フリンは弱冠じゃっかん九歳ながら賢く、時々びっくりするほど大人びている。貴族ではなく商人に嫁入りする理由をエルフィールの口から告げたことはないが、母親か父親か、もしくは使用人から聞いてだいたいの事情は知っているようだ。
 手を伸ばしてフリンの頭を撫でながら、エルフィールは穏やかな口調で答えた。

「あのね、フリン。私は犠牲になるつもりはないの。納得して嫁入りを受け入れているし、嫌だと思っていないもの。確かにサンド商会から受けた融資は利子もつけて返したわ。だからといって、私の嫁入り話が帳消しになるとは私もお父様も考えていないの」

 母親は結婚話も無効になることを願っていたが、義理堅い父親は約束を破ることをよしとしなかった。それが融資を受ける条件だったからだ。もちろん、エルフィールも同じ考えだ。

「私はサンド商会にはとても感謝しているわ。親戚にも縁を切られてどん底にいたジュナン伯爵家に、ほぼ無担保で融資をしてくれたんですもの。あれがなければ我が家は今頃どうなっていたことか……」

 十年前までジュナン伯爵家はそれなりに裕福な貴族だった。辺境にある領地は交通の要所ではないが、農業が盛んで収入も悪くない。その上、父親は規模は大きくないものの事業を手がけていて、会社もうまくいっていた。エルフィールも伯爵家の一人娘として贅沢ぜいたく享受きょうじゅしており、それがこの先もずっと続くと思っていたのだ。
 それが一転したのは、父親から事業の一部を預かっていたおい――エルフィールにとっては従兄いとこが、悪徳商人にだまされ莫大ばくだいな借金を作ってしまったからだ。
 彼に事業を任せていたとはいえ、会社は父親のものだったので、負債はすべてジュナン伯爵家が背負うことになってしまった。父親は抱えている事業をすべて売り払ったが、まったく足りなかった。領地や屋敷も抵当に入り、そのままでは先祖から受け継がれてきたものをすべて手放さなければならない状況におちいっていた。
 すると、それまですり寄っていた親戚が、手のひらを返して絶縁状を突きつけてきた。使用人の半分もジュナン伯爵家を見捨てて逃げ出し、残ったのは古くから仕えてくれていた使用人たちだけ。

「お母様は心労で倒れてしまうし、お父様は金策きんさく奔走ほんそうしていて、屋敷の中が暗くて重苦しくてね……とてもひどかったわ」

 エルフィールの口元に苦い笑みが浮かぶ。七歳だったエルフィールは重苦しい雰囲気に耐えられず、一人でふらっと外出した。そしてこの湖を見つけ、一匹の小さなトラジマの猫と出会ったのだ。
 ――だから苦い思い出ばかりじゃないのだけれど、かといって再び繰り返したいとは思わない。
 幼いエルフィールにとって、あの日々はそれほど辛く重苦しいものだった。

「それを助けてくれたのが、サンド商会を立ち上げたリクリードさんよ。彼は屋敷にやってきて、無担保で融資をすると言ってくださったの」

 ただし、条件があった。それがリクリードの一人息子とエルフィールの結婚だ。女であるエルフィールにジュナン伯爵家を継ぐ資格はないが、彼女をめとることで貴族と親戚関係になれるという思惑があったようだ。
 父親は迷ったが、領民や残ってくれている使用人たちのことを思ったら、その条件で融資を受けざるを得なかった。エルフィールもいなやはなく、自分が嫁に行くことですべてが収まるなら安いものだとさえ思った。
 けれど両親にとっては娘を売ったも同然のため、二人はエルフィールに深い罪悪感を抱いている。エルフィール本人はまるで気にしていないのに。

「私はね、フリン。あの時にサンド商会から受けたご恩を返したいの。一番大変な時に手を差し伸べてくれた人にむくいたいの。だからお母様が考えるほど、この結婚がなげかわしいものとは思っていないわ。それにね」

 悪戯いたずらっぽく笑ってエルフィールは付け加えた。

「息子さんと会ったことはないけれど、父親のリクリードさんはとても美形なのよ。あの人の血を継いでいる息子さんなら、絶対に不細工ではないはず。貴族だからって偉そうにふんぞり返った、あぶらぎった男に嫁ぐよりマシじゃない?」
「そんな人、父上が姉上の相手に選ぶわけないよ」

 不満そうに口をとがらせるフリンの頬を、エルフィールはつんと指でつついた。

「そうね。でもお父様でもどうにもならないこともあるのよ」

 まだ子どもで他の貴族と接したことのないフリンには理解できないだろうが、父親だって自分より上の身分である侯爵や公爵、あるいは王族にエルフィールを差し出せと言われたら、相手がどんな人間であれ逆らうことはできない。それが貴族社会だ。
 いずれ父親の跡を継いでジュナン伯爵になるフリンは、否応いやおうなくその事実と向き合わなければならないだろう。
 ――でも、まだ分からなくて当然ね。子どもだもの。お父様のもとでゆっくり覚えていけばいい。
 フリンはよい領主となるだろう。エルフィールはそんな予感がしている。だからこそ、この秘密の場所に連れてきて、猫たちに慣れさせているのだ。
 エルフィールが家を離れていった後も、大切な場所と猫たちをフリンが守ってくれるだろう。
 そのフリンがトラジマ模様の子猫――ミーちゃん3号を抱き上げながら、ふと思い出したように言った。

「そういえばデビュタントのための舞踏会では、聖獣様のお姿を見ることができるんだよね」

 おそらくフリンが聖獣のことを思い出したのは、目の前の猫がトラジマだからだろう。
 この国の聖獣は天虎族――つまり、虎だ。
 聖獣と聞いてエルフィールの顔が笑み崩れた。

「そうなの。私のような田舎いなか貴族が聖獣様を見られる唯一の機会なのよ」

 王族は何か行事があるたびに国民の前に姿を現してくれるが、聖獣はそうではない。聖獣の姿が見られるのは、ほんの限られた機会しかないと言われている。
 ――デビュタントのための舞踏会が終わったら城に招かれることは二度とないでしょうから、これが聖獣の姿を見られる最初で最後の機会になるわ。

「いいなぁ、姉上、じかに見られるなんて!」

 心底うらやましそうな目をしてフリンはエルフィールを見あげた。その気持ちはエルフィールにも痛いほど分かる。
 この国の者にとって聖獣は憧れであり、誰よりもうやまうべきとうとい存在だ。ともすれば王族よりも。
 伯爵以上の爵位を継ぐ時には、必ず国王に謁見えっけんしなければならない決まりがある。その謁見えっけんの時には聖獣も同席すると聞いている。
 父親が伯爵位を継いだ時、謁見えっけんの間で見た先代聖獣の姿は、神々こうごうしく輝いていたという。今代の聖獣は代替わりして間もない若虎だというが、きっと先代に負けず劣らず立派な姿に違いない。
 ――ああ、早く見たい……! きっとミーちゃんのような毛並みに違いないわ。

「なんで男には社交界デビューのもよおしがないんだろう? 不公平だ!」


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