聖獣様に心臓(物理)と身体を(性的に)狙われています。

富樫 聖夜

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1巻

1-2

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 ふくれるフリンに、エルフィールはなだめるように言った。

「あなただってお父様の跡を継いで伯爵になる時に、じかに見られるじゃない」
「ちぇっ、ずいぶん先の話だよね、それって」
「ぼやかないの。いつか必ず聖獣をそばで見られるんだから。それまではミーちゃん2号と3号の毛並みでもでていなさいな」
「……姉上、やっぱり名づけセンスが変」

 フリンはトラジマのミーちゃん3号を目の前に持ち上げながら呼びかける。

「ね、お前もそう思うだろ? タビー三世」

 タビー三世というのはフリンがトラジマの子猫に「雄なのにミーちゃんはあんまりだ」と言って勝手につけた名前である。

「何よタビーって。ミーちゃんの方が可愛いじゃないの!」
「僕がつけたタビーの方がかっこいいに決まってる!」

 言い合いを始める姉弟のセンスがどっちもどっちであることを、幸いなことに二人は知らない。


     * * *


 フリンと山へ出かけてから十日後、エルフィールは王都にあるブラーム伯爵家の別宅で、白いドレスを着付けてもらっていた。
 今日はいよいよデビュタントのための舞踏会の日だ。
 朝からブラーム伯爵夫人が侍女を連れて別宅を訪れ、エルフィールの支度を手伝ってくれている。

「そのドレス、よく似合ってるわよ、エルフィール」
「ブラーム伯爵夫人、む、胸、こんなに開いてていいんですか?」

 大きく開いた胸もとを不安そうに見おろして、エルフィールはブラーム伯爵夫人に尋ねる。母親が王都のデザイナーに特注したというドレスはえりぐりが深く、胸のふくらみが覗いてしまうきわどいデザインだった。

「う、うちの母の時は首元まできっちり隠れるデザインだったって聞いたのですが……!」
「私の時もそうだったけれど、今の流行はえりぐりの深いドレスなのよ。これでもきっとデビュタントのドレスの中では大人しめだと思うわ」
「これでも大人しめ、ですか?」

 スースーする胸もとに不安しか感じないエルフィールだった。
 けれど、田舎いなかに引っ込んでいた自分より、王都の社交場でそれなりの人脈を築いているブラーム伯爵夫人の方が、よっぽど昨今の流行には詳しいはず。そう思い直して背筋を伸ばす。

「やっぱり首飾りはない方がいいわね。あなたの首筋はほっそりしていて形がいいから、首飾りをつけて隠したらもったいないもの。髪型も首のラインを邪魔しないものがいいわ」

 ブラーム伯爵夫人は侍女にテキパキと指示し、それを受けて侍女がエルフィールの髪を結い上げる。鏡がないので今自分がどうなっているかまったく分からない状態だ。
 最後に顔に化粧がほどこされると、ようやくブラーム伯爵夫人は満足そうに微笑んだ。

「素敵よ。どこから見ても完璧な淑女しゅくじょだわ、エルフィール」

 姿見の前に連れてこられたエルフィールは、鏡に映った自分の姿にびっくりする。
 やぼったい田舎いなか娘の面影は消えて、白いドレスを身にまとう貴族然とした女性が映っていた。
 ドレスは一見シンプルながらも贅沢ぜいたくにレースが使われ、腰から斜めに入ったドレープが美しいデザインに仕上がっていた。
 肩からふわりと広がったパフスリーブは可愛らしい。一方で胸もとは大きくえぐられ、深いえりぐりから覗く豊かなふくらみは匂い立つような女性らしさにあふれている。ほっそりとした首筋を強調するように高く結い上げられた髪には、瞳の色に合わせた緑色の宝石がつけられていた。

「まぁ……」

 顔も、パッと人目を引く華やかな……とまではいかないものの、化粧のおかげか美人と言っても差し支えないものになっていた。

「ありがとうございます、ブラーム伯爵夫人!」

 エルフィールが振り返ってお礼を言うと、ブラーム伯爵夫人はにっこりと励ますように笑った。

「とても綺麗よ、エルフィール。一世一代の晴れ舞台なのだから、胸を張っていきなさい」
「はい!」

 玄関で待つ父親のもとへ向かうと、エルフィールの姿を見たジュナン伯爵は驚いたように目を見開き、それから相好そうごうを崩した。

「綺麗だよ、エルフィール。お母様そっくりだ」

 愛妻家あいさいかの父親らしい言葉だ。けれど、それはエルフィールにとっては最大の賛辞さんじであるし、実際のところエルフィールは母親によく似ている。

「お前をエスコートできることを誇りに思うよ」
「うふふ。今日一日よろしくお願いしますね、お父様」

 舞踏会のおこなわれる大広間に入場する際、エスコートをするのは家族か親戚の男だけと決まっている。若い男性の方が見栄みばえがするので、兄か弟に頼むのが一般的だが、エルフィールの弟フリンはまだ子どもなので、エスコート役ができるのは父親しかいなかった。
 もっともエルフィールの父親は背が高く、引き締まった身体の持ち主で、堂々とした立ち姿は若い男にも引けを取らない。実際、城に入ってみれば、父親のさりげなくも堂に入った立居振舞たちいふるまいに、女官や他のデビュタントたちが感嘆していた。
 ――さすがお父様ね。
 エスコートされているエルフィールより父親の方が目立っているのだが、彼女はまったく気にしなかった。

「王城は想像以上に大きいのね、お父様」
「そうだろう。城を取り囲む城壁の中に、まるまる一つの街があるようなものだからね。我々が今日立ち入るのは城のほんの一部分だ。私も過去に数回しか来たことがないから、案内役の侍従じじゅうがいなければ迷うだろうな」

 控え室で他のデビュタントたちが緊張しながら入場を待つ間、エルフィール親子はのんびりとそんな会話を交わしていた。

「入場して陛下の前に進み出た時、聖獣を一番近くで見られるのよね、お父様」
「ああ、陛下の座る玉座の後ろに台座がある。あの方はそこからじっと様子を見ているんだ」
「とうとうこの目で見られるのね」

 話をしているうちに入場する時間になった。
 家名を読み上げられたデビュタントたちが、控え室から次々と出ていく。そしてついにジュナン伯爵家の名前が読み上げられ、エルフィールは父親に手を預けて控え室を出た。


 控え室と大広間は一本の廊下でまっすぐつながっている。父親にエスコートされて大きな扉の前に来ると、のんき者のエルフィールもさすがに緊張して手が震えた。
 デビュタントの最大の試練が、これからおこなわれる入場だ。大広間には主立った貴族の他、諸外国からの招待客がひしめいている。彼らに注目される中、玉座の前まで進んで国王に謁見えっけんするのだから、緊張するなという方が無理だろう。
 大勢の中でのお披露目ひろめだ、家名に泥を塗らないためにも失敗は絶対に許されない。
 扉の前で深呼吸を繰り返すエルフィールに、父親は微笑んだ。

「大丈夫、あれだけ練習したじゃないか。お前の作法は完璧だったし、たとえ失敗してもかまわないさ。我が家は社交界にめったに出入りしないから、多少物笑いの種にされようが何も問題ない」

 父親は事業で忙しく、あまり社交界に顔を出すことがなかった。身体が弱くて領地から出られない母親は言わずもがなで、ジュナン伯爵家の知名度はほとんどないに等しい。
 おそらく大広間に集まっている貴族や招待客のほとんどが、ジュナン伯爵家の名を耳にしたことすらないだろう。だから恐れずに行けと父親は言いたいらしい。

「ありがとう、お父様」

 少し気が楽になりエルフィールは微笑む。その時、扉のそばにいた侍従じじゅうがリストを手に声をあげた。

「ジュナン伯爵家ご長女、エルフィール嬢の入場です」

 いよいよエルフィールたちの番だ。父親に預けている手にぐっと力が入る。

「行くぞ」
「はい」

 父親にエスコートされ、大広間に向かって一歩踏み出す。
 大広間はエルフィールの想像より大きくて、とても豪華だった。高い天井の一面には巨大な絵が描かれ、大きなシャンデリアがいくつも下げられている。
 足元には赤い絨毯じゅうたんが敷かれ、それは扉から玉座までまっすぐ続いていた。その絨毯じゅうたんの両脇に大勢の貴族や招待客が並び、これから国王のもとへ向かうデビュタントを物見高く見守っている。先にお披露目ひろめを済ませたデビュタントたちも、エルフィールを値踏みするように見つめていた。
 大観衆の中、エルフィールはゆっくりと進む。脚が震えているのが自分でもよく分かる。父親が上手に支えてくれていなかったら、脚がもつれていたかもしれない。
 田舎いなかでのんびり育ったこともあり、こういう大勢の人がいる場は苦手だ。
 ――一刻も早く終わらせたいわ。
 そんな思いで自分の向かう先――つまり玉座に目を向けたエルフィールは、次の瞬間、すべてを忘れた。物見高い観衆も、女性に大人気だという若き国王も、何もかも目に入らなくなった。
 エルフィールに見えているのは、国王の後ろに置かれた台座に悠然と寝そべる生き物だけ。
 つややかな黄色い毛並みに黒い縞模様しまもようを持った大きな虎が、クッションにもたれるように横たわり、顔だけあげて広間をじっと見つめている。

「……あれが……」

 無意識に足を動かしながらエルフィールは息を呑んだ。
 あの虎こそが聖獣――フェルマ国を守護する聖なる天獣。この世界でもっとも強くて、もっともとうとい存在だ。
 ――ああ、なんて美しくて神々こうごうしいの……!
 この国に虎は生息していないが、三代にわたって国を守護してきた聖獣が天虎であるため、その下位動物である虎の姿は頻繁ひんぱんに絵に描かれ、あらゆるところでモチーフとして使われている。フェルマ国の民にとって虎は非常に身近なものなのだ。
 エルフィールも例外ではなく、虎と聞けばすぐにその姿を思い浮かべることができる。だから、聖獣の姿を見ても驚くことはなく、尊敬と親しみを覚える程度に違いないと考えていた。
 けれど、予想とは違っていた。ちまたで見かける虎の絵と造形こそ同じだが、存在感や力強さがまるで違うのだ。
 ――ああ、城に来てよかった……!
 目に焼き付けようと思い、夢中で見つめ続けていると、隣の父親が小さな声でつぶやいた。

「エルフィール」

 うながすような声音こわねに、エルフィールはハッとする。聖獣に見とれているうちに、いつの間にか玉座の前までたどり着いていたのだ。
 ――あ、そうだわ。淑女しゅくじょの礼……!
 エルフィールは足に力を入れて深くひざを折り、作法通りに頭を下げた。聖獣に夢中になっていたのが功を奏したのか、緊張感がほどよく飛び、練習通りにすることができた。

「よく来てくれたね、ジュナン伯爵、それにジュナン伯爵令嬢」

 頭上から若々しくも威厳に満ちた声が降ってくる。
 二年前、前国王の病死にともなって即位した、リクハルド国王の声だ。聖獣に夢中になってしまったため、エルフィールは国王の顔をよく見ていなかったが、王太后によく似た美形だともっぱらの評判だ。まだ独身の彼に、未婚の貴族令嬢たちが熱い視線を送っていると聞く。

「社交界デビューおめでとう。この先の君の人生が実り多きものであるように」

 国王の言葉はデビュタントにかける常套じょうとうであり、それに対する受け答えもほぼ決まっている。エルフィールは下を向いたまま口を開いた。

「もったいなきお言葉、ありがとうございます。国王陛下」

 やりとりはこれだけだ。社交界デビューする令嬢の数が多いため、謁見えっけんする時間は最小限、それも決まった動作と言葉を交わすだけで終了となる。
 父親と共に国王の前から下がりながら、エルフィールはホッと安堵あんどの息をついた。

「よくやった、エルフィール」
「お父様のエスコートがよかったからよ」

 一仕事終えて互いに微笑む親子は知らなかった。今までピクリとも動かなかった聖獣がこうべを巡らし、その金色の目でエルフィールの背中を追っていたことを。


     * * *


 すべてのデビュタントの謁見えっけんとお披露目ひろめが終わり、舞踏会が始まった。
 白いドレスを着たデビュタントたちが、音楽に合わせて広間の中央で踊っている。今日、白を着ることが許されているのはデビュタントだけなので、すぐにそうと分かる。
 エルフィールは父親と一度だけ踊り、ブラーム伯爵とも踊ったが、それ以降はダンスの申し込みを断っていた。

「踊ってくればいいのに」

 父親は苦笑したが、エルフィールは首を横に振った。

「ダンスはそれほど得意じゃないからいいの。それよりお父様、私のことは気にせずお友だちと話をしてきて」

 会場には何人かの友人や仕事仲間も来ていたが、父親がエルフィールに遠慮して挨拶あいさつだけにとどめているのを彼女は知っていた。

「いや、今日はエルフィールのエスコート役として来ているから……」
「遠慮しないで。久しぶりに顔を合わせた方もいるんでしょう? 私はずっとここにいるから」

 なおも渋る父親を説得して送り出すと、エルフィールは周囲を見回して給仕の侍女に声をかけた。

「一杯くださる? なるべくアルコールが強くない方がいいのだけれど」

 お仕着せを着た若い侍女はにこやかに微笑むと、お盆に載ったいくつかのグラスのうち、白ワインの入ったグラスをエルフィールに差し出した。

「それでしたら、こちらをどうぞ」
「ありがとう」

 グラスを受け取ると、エルフィールはそれを持ったまま壁側に下がった。
 お酒はあまり好きではないが、グラスを手にしていればダンスを断る言い訳になる。
 今日の舞踏会には独身の貴族も多く招かれていて、彼らはよりよい家柄の娘を得ようとデビュタントたちの品定めに余念がない。これでもエルフィールは伯爵令嬢というまずまずの身分なので、声をかけられることも多かった。
 ――私なんかを誘うなんて物好きね。社交界では無名に等しいのに。
 美しく着飾った自分が男性の目を引くことには無頓着むとんちゃくなエルフィールだった。
 グラスを片手に大広間を見回す。玉座に国王はいたが、その後ろの台座に聖獣の姿はない。デビュタントたちのお披露目ひろめが終わったと同時に姿を消してしまったのだ。
 ――舞踏会に聖獣は来ないのかしら? もっと近くで見てみたいのに。

「そういえばお聞きになった? 隣のロウゼルド国が最近やたらと魔術師を集めているという話よ」
「私も出入りの商人が主人にそんなことを言っていたのを耳にしたわ」
「まぁ。あの国はまたよからぬことを考えているのかしら?」

 中年の貴婦人たちが集まってそんな会話をしている。興味を引かれたエルフィールはグラスを口につけて飲んでいるフリをしながら聞き耳を立てた。
 ロウゼルドというのは東側の国境を挟んで隣り合っている国だ。ただし、歴史的にあまり仲はよろしくない。ロウゼルドはフェルマ国を侵略しようと何度も戦いを仕掛けてきたのだ。五十年ほど前に休戦協定が結ばれたものの、国交は皆無かいむに等しく、未だに緊張状態が続いている。

「まぁ、我が国には聖獣がいるのだから、ロウゼルドがいくら魔術師を集めようが心配いらないわ」

 貴婦人の言葉にエルフィールは心の中で同意した。
 聖獣の力は強大で、魔術師が束になってもかなわない。聖獣が守護する国が他国に侵略された例は有史以来一度もないのだ。
 戦争になっても聖獣が敵を蹴散けちらし、国を守ってくれる。
 ――もっとも、その聖獣がもたらす豊かさこそ、ロウゼルドがフェルマ国を憎む原因なんでしょうけど。
 フェルマ国とロウゼルド国。この二国は国土の広さがほぼ同じで、採れる資源もそう変わらない。けれど、国力や豊かさには大いに差があった。
 聖獣のいるフェルマ国は気候風土が安定し、資源の供給も安定する。産業も活発になり、物資や金が集まってくる。
 一方、隣り合わせのロウゼルドは時折旱魃かんばつや洪水に見舞われる。政治情勢は安定せず、国力もあがらず貧しいままだ。持たざる国が持てる国をねたむのも無理はない。
 ロウゼルドにも聖獣がいればいいのにと思うが、こればかりはどうしようもないのだ。
 天獣が人間に関わることはめったにないし、まして国を守護する契約を交わすことなどもっとまれだ。それだけに聖獣のいる国は希少で、周辺諸国のねたみを買うことも珍しくなかった。
 幸い、フェルマ国はロウゼルド以外の周辺諸国とは友好関係を築いている。聖獣のいる国と敵対関係になるより、友好関係を築いた方が周辺諸国にとって得策だからだ。
 ――それだけに、いつまでもフェルマをねたみ続けるロウゼルドは異質よね……
 ワインのグラスをじっと見おろしながら、そんなことを考えていたエルフィールは、周囲が妙にざわついていることに気づいて顔をあげた。
 周りの人々が視線を向けている方に目を転じたエルフィールは、そこに奇妙なものを見て、目を大きく見開いた。
 まっすぐこちらに向かってくるのは、黒髪に浅黒い肌を持ち、異国の服装をした若い男だった。たくましい上半身には、黒地に刺繍ししゅうほどこされたベストのようなものを着ている。腰には白いサッシュが巻かれ、同じ色のゆったりとしたズボンは足首できゅっと結ばれている。
 ――舞踏会に招かれた他国からの賓客ひんきゃくかしら?
 周囲の視線を余所よそに、迷いなく歩いてくるその男を見ながら、エルフィールはそんなことを思った。なぜなら男の服装は他国のおとぎ話に出てくる服によく似ていたからだ。そのおとぎ話は、東方にある砂漠の国に伝わっている。
 ――きっとあの国から来たに違いないわ。ここは聖獣の国だけあって、あんな遠くの国とも交流があるのね。さすがだわ。
 のんびりそんなことを考えていられたのは、男がエルフィールの方を見ていることに気づくまでだった。

「え……? こっちに来るの?」

 思わずきょろきょろと辺りを見回し、男の目的が他の人物だというあかしを求めたが、それらしき者はいなかった。それどころか周囲の人々は、さっと彼女から離れてしまう。

「あわわわ」

 うろたえながら顔を正面に戻したエルフィールは、男がもう目の前に来ていたことを知って目をいた。
 ――私? やっぱり私なの?

「あ、あの……何か……?」

 男は明るい金色の瞳でじっとエルフィールを見つめている。遠目には純粋な黒に見えた髪も、近くで見るとところどころ金が混じっていた。
 一見、髪の毛を染めるのに失敗したようだが、なぜかそれが彼の容貌によく似合っている。
 すっと通った鼻筋は高く、完璧に配置された目鼻立ちは彫像ちょうぞうのようだ。目元は涼やかで、長いまつ毛にふちどられている。金色の瞳は色目の変わった光彩を帯びていて、とても神秘的だ。
 ――すごい美形だわ……。でもその美形が私になんの用かしら?
 男に答える気配がなかったので、エルフィールはもう一度尋ねる。

「あの、私に、何かご用でしょうか……?」

 じっとエルフィールを見つめたまま、男が口を開いた。けれどその口から出たのはエルフィールの質問への答えではなく、まるで予想もしない言葉だった。

「見つけた……俺のだ」
「は?」

 口をポカンと開けるエルフィールに、男はつと手を伸ばす。その長い指がつかんだのは、あろうことかエルフィールの左胸のふくらみだった。
 突然の不作法に周囲が息を呑む。一方、当のエルフィールは何が起こったのかよく分からず固まっていた。男の浅黒い手が、自分の胸を白いドレスごとわしづかみしている光景は、彼女の理解をはるかに超えていたのだ。
 固唾かたずを呑んで見守っている人々の前で、男はまた信じられない行動に出る。
 さらにぐっと寄ってきたと思ったら、その顔をエルフィールの胸の谷間に突っ込んだのだ。

「……間違いない。俺の心臓だ」

 男のつぶやきは周囲のざわめきに掻き消され、エルフィールの耳に届くことはなかった。……いや、エルフィールはそれどころではなかったのだ。
 男がささやいたことで胸の谷間に息がかかり、ぞわっと背筋に震えが走った。そのことでようやく正気づいたエルフィールは、悲鳴と共に男の頭を引きはがし、手にしていたグラスの中身を彼の顔にぶちまけた。

「何するの、この変態……!」

 ざわざわと周囲のざわめきが大きくなった。
 頭を振ってワインを払いながら、男がエルフィールをにらみつける。

「……それはこっちのセリフだ。なぜお前が俺の心臓を持っている……!?」
「は? 心臓? なんのこと?」

 エルフィールは頭のおかしなことを言う男をにらみ返した。
 ――美形だろうが、賓客ひんきゃくだろうが、乙女の胸に顔をうずめるとは! いったい、どうしてくれよう!

「お待ちください。お二人とも」

 にらみ合う両者の間に割って入ったのは、侍従じじゅうの服を着た背の高い男性だった。

「国王陛下のご命令です。お二人とも、別室へいらしてください」

 有無を言わせない口調に、エルフィールは口を引き結ぶ。変態男は不服そうに顔をしかめているが、侍従じじゅうの言うことを無視する気はないようだ。
 人々の注目の中、侍従じじゅうの後について大広間を出ながら、エルフィールは頭の中で毒づいた。
 ――まったく、とんだ社交界デビューだわ。


 一方、たまたま近くにいてエルフィールと男の会話を聞いていた者がいた。

「心臓? 心臓とはまさか……まさか……あれは……」

 その者はエルフィールたちが大広間から出ていくのを呆然と眺めていたが、ハッと我に返り、さりげなくその場を離れた。このことを一刻も早く本国に伝えるために。



 第二章 フェルマ国の聖獣


 侍従じじゅうが男とエルフィールを連れて行ったのは、大広間からほど近い控え室らしき部屋だった。

「ここでしばらくお待ちください」

 男を警戒し、なるべく離れたところに立ちながらエルフィールはうなずく。男はエルフィールに近づきはしなかったが、彼女を金色の目で追っていた。
 ――もう、いったいなんなのかしら?
 彼をにらみ返していると、扉が開かれて数人の男が颯爽さっそうと入ってきた。エルフィールはそのうちの一人を見て、ぎょっと目をく。

「待たせたね」

 護衛の騎士を連れて、にこやかな笑みを浮かべながら入ってきたのは、なんとついさっきまで玉座に座っていた人物だった。王族特有の青い瞳と、柔らかそうな金色の巻き毛をした青年――フェルマ国の若き国王、リクハルドである。
 数年前、病気で亡くなった前国王の跡を継いで王位についた彼は、二十三歳という若さながら、なかなかのやり手だと聞く。即位した直後、童顔のせいかくみしやすいと見た臣下や諸外国の使者が、彼に手ひどくり込められたという話だ。

「こ、国王陛下」

 慌ててドレスのスカートをまんで頭を下げながら、エルフィールは混乱していた。
 ――まさか国王陛下がみずからいらっしゃるだなんて!
 理解が追いつかないが、自分がとんでもないことをやらかしてしまったのは分かった。思えば国の賓客ひんきゃくらしき男にワインをかけてしまったのだ。先に不作法な行為をしたのが男の方だとはいえ、エルフィールのおこないは下手をすれば外交問題になりかねない。
 ――マズい……!
 床を見おろしながらさぁっと青ざめていると、柔らかな声がかかる。

「ジュナン伯爵令嬢、ここは非公式の場だからそんなにかしこまる必要はないよ。顔をあげて」
「は、はい」

 恐る恐る顔をあげて国王をうかがうと、穏やかな光を浮かべた目と視線がかち合う。その明るい青の瞳にも端整な顔にも非難の色は見当たらず、エルフィールはホッと安堵あんどの息をついた。
 ――よかった。陛下はお怒りじゃない。

「君にもジュナン伯爵家にも悪いようにはしないから、安心するといい」
「は、はい。ありがとうございます」

 リクハルドはエルフィールを安心させるためか、にこっと笑いかけた後、今度は男の方に視線を向けた。

「ラファード。そんな姿をしていったい何をやっているのさ、君は?」

 その声はとがめるような響きを帯びていたものの、先ほどよりはるかに気安い口調だった。

「すぐに気づいて大広間から隔離かくりしたからいいものの、もう少しで大騒ぎになるところだったよ」

 そう言われた男は悪びれもせずに肩をすくめた。

「大した騒ぎにはならないし、うたげの余興だと思って皆すぐに忘れるだろうさ。そのためにこの姿を取ったのだから」
「騒ぎにならなかったのは、騒がれる前に対処したからだよ。……まったく、早く気づいてよかった」

 ふぅっとリクハルドは深い息を吐く。

「そういえば、ずいぶん早い対応だったな」
「玉座から君の姿が見えていたからね! まったく何をするのかと思えば、よりによってあんな場所で女性の胸をつかむとか、胸に顔を押しつけるとか、いったい何を考えているんだ?」


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