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1巻
1-3
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呆れたようなリクハルドの言葉に、エルフィールは恥ずかしく思いつつも納得した。リクハルドは一部始終を見ていたからこそ、エルフィールに安心するように言ったのだろう。
「君が邪な感情を抱いて彼女に触れたわけじゃないのは分かってるさ。けれど……」
「当たり前だ。俺は人間の娘に欲情したことはない。俺がこの娘に触ったのは確かめるためだ」
そこで金色の瞳が再びエルフィールを射抜く。
「この娘の心臓が、俺の心臓かどうかを――」
「なんだって?」
心臓と聞いてリクハルドの目が大きく見開かれる。エルフィールは目を瞬かせた。
――心臓? そういえばさっきもこの人、心臓がどうとか言っていなかったかしら?
「触れて分かった。間違いない。この娘の心臓は俺の心臓だ」
「まさか、そんなことが……」
リクハルドは絶句している。
「俺が間違うと思うか?」
「いや、君に限ってそれはないと思うけど……でも、まさか、そんなことが」
「あの……」
黙って二人の会話を聞いていたエルフィールは、たまらず声をかけていた。自分より身分の高い人、それも国王の会話を中断させるのは、不作法どころか不遜な行為だと分かっていた。だが、自分のことを話題にしているらしいのに置き去りにされていることに危機感を覚えたのだ。
――訳が分からないのはこちらの方だわ!
「お話し中に申し訳ありません。ですが、私にも分かるように説明していただけませんでしょうか? まず最初に……」
エルフィールは視線を男に向ける。
「このお方は、どういった方なのでしょうか?」
「それは……」
リクハルドが判断を求めるように男を見る。男はむすっと口を引き結んだが、微かに頷いた。それを見ていたエルフィールは、あることに気づいて内心怪訝に思う。
男とリクハルドは気安く話しているものの、どちらかと言うと男の方が上の立場であるようだ。
もし男が他国の王族なら、リクハルドが気を使うのも分かる。だが、それでも対等な立場で、どちらが上とか下とか感じることはないはずだ。それなのに、なぜか二人を見ていると、一国の王であるリクハルドが男を敬っているのが感じ取れる。
聖獣の守護する国の王がそれほど敬う相手とは――?
嫌な予感がエルフィールの胸にじわじわと湧き上がった。
「そうだね。王族や重臣の中でも一部の者しか知らないことだけれど、君の心臓が彼女の中にあるというのであれば、彼女は知っておくべきだろうね」
リクハルドは男に重々しく頷き返すと、エルフィールを見る。とたんに防衛本能が働き、彼女は思わず口にしていた。
「あ、やっぱり知らなくていいです」
だが、言うのが遅かったようだ。リクハルドはエルフィールを見据えながら告げる。
「今は人間の姿を取っているけれど、彼は……彼こそがこの国を守護する聖獣――天虎族のラファードだ」
その言葉がエルフィールの頭の中に浸透するのに、時間がかかった。たっぷり十秒以上かかったのち、エルフィールは口をぽかんと開ける。
「――――は? 聖獣?」
「そうだ。聖獣だ」
それからさらに十秒後、幻想を粉々にされたエルフィールの悲痛な叫びが響き渡った。
「そんな、嘘よっ! 聖獣がこんな変態だなんて……!」
天の遣いと呼ばれ、人間にとっては神にも等しい天獣族だが、彼らはほとんど人前に姿を現すことがなく、関わろうともしない。ところが、まれに人や国を気に入って特別な加護を与えることがある。豊かな実りと平和をもたらしてくれる彼らを人々は「聖獣」と呼び、敬っていた。
ただし、聖獣の数は極端に少ない。天獣族が加護を与えることはめったになく、その加護も一代限りで終わることが多い。聖獣の寿命が尽きる前に怒りを買い、加護を失った国もあると聞く。
そんな中、フェルマ国は聖獣が三代にわたって加護を続けている稀有な国なのだ。そのため、聖獣の加護を持つ国々の中心であり指導的立場となっている。フェルマ国の聖獣は聖獣の中の聖獣と呼ばれ、もっとも尊い存在である――とエルフィールは父親から何度も何度も聞かされて育った。
「それなのに、聖獣の中の聖獣が変態だなんて……! 聖獣というのは穏やかで慈悲深くて立居振舞いも立派で品があるものと思っていたのに……」
ショックのあまり思ったことをすべて口にしていることに、エルフィールは気づいていない。
「そのイメージはおそらく先代の聖獣のことだと思うよ」
リクハルドと侍従は思わず苦笑を浮かべる。変態呼ばわりされた男――たった今この国の聖獣だと判明したばかりの存在は、ムッとして顔を顰めていた。
「悪かったな。父上のように立派じゃなくて」
機嫌の悪そうな声が聞こえ、エルフィールは自分が本音を垂れ流しにしていることにようやく気づいて口に手を当てた。
「も、申し訳ありませ……」
「まぁ、まぁ。未熟なのは僕も同じだし、拗ねる前に先代よりも立派だと言われるように頑張ろうよ」
取り成すように言うリクハルドに、エルフィールは感謝の視線を送った。
フェルマ国の聖獣は十年ほど前、それまで三百年にわたってこの国を加護してきた先代から、その子どもへと代替わりしている。今の聖獣は三代目で、長い寿命を持つ天獣としてはまだまだ若いが、とても強力な魔力を持っていると聞く。
今は人間の姿をしている聖獣を、エルフィールは改めて見つめた。
「聖獣は、人の姿にもなれるのですね……」
「獣の方が本来の姿だけどね。魔力を持っているから姿はいくらでも変えられるんだよ」
むすっとしたままの聖獣に代わって答えたのはリクハルドだった。
「そうなんですか」
人間離れした美貌も、異国風の変わった姿も、聖獣と言われれば納得できる。……胸を掴まれて谷間に顔を突っ込まれたのは解せないが。
「そんなことよりも心臓だ。おい娘、なぜお前が俺の心臓を持っている?」
聖獣が金色の目でエルフィールを睨みつける。エルフィールは思わず眉を寄せた。
「あの……先ほどからずっと心臓心臓と仰っていますが、なんのことです?」
口を開いたのは、やはりリクハルドだった。
「事情を知らない君には訳が分からないよね。僕から説明しよう。その代わり、このことは絶対に他言しないでくれ。国の重要機密なのだから」
そう前置きしてから、リクハルドはすぅっと息を吸って告げた。
「実はね、ラファード……今代の聖獣は心臓が欠けているんだよ」
聖獣――ラファードが自分の心臓がないことに気づいたのは、ほんの数年前だという。
「天獣は獣の姿を取っているけれど、それは魔力で地上の獣を模しているだけで、実際に肉体の機能が必要なわけじゃないんだ。血も出るし内臓もあるけれど、それが欠損したとしても生きていくには支障がない。だからラファードも自分の心臓が欠けていることに気づかなかった」
「それまでまったく気づかなかったんですか?」
エルフィールが思わず尋ねると、ラファードがムッとして答える。
「……魔力の一部が欠けているような気はしていた。ただ、それは聖獣の役目を父上から引き継ぐ時に行った継承の儀の影響だと思っていたし、生きていくために心臓が必要なわけではない。だからなかなか気づけなかった」
気づいたのは、国王の妹であるラヴィーナ王女がラファードに抱っこをして欲しいとねだったのがきっかけだったという。
「まだ幼いラヴィーナの要請に応じて、ラファードは人間の姿になって抱き上げた。その時ラヴィーナが、彼から心臓の音がしないことに気づいたんだよ」
『ラファ兄様、どうしてお胸の音が聞こえないの? リーおじ様のお胸からは音が聞こえるのに』
子どもらしい無邪気な言葉が、今までラファード自身がまったく気づいていなかった衝撃の事実を明らかにした。ラヴィーナ王女の言う『リーおじ様』というのは先代の聖獣のことだ。先代の聖獣からは心臓の音が聞こえるのに、ラファードからは聞こえない。この事実に一番驚いたのはラファード本人だった。彼はそれまで心臓の音が聞こえるのが当たり前だと知らなかったのだ。
心臓がないということは血が巡っていないことになるが、天獣が傷ついて血を流すことは一生に一度あるかないかのことなので、気づく機会もなかった。
人間には心臓が不可欠だということは知識として知っていたものの、彼以外の天獣にはちゃんと心臓があることも、その心臓が生きて脈打っていることも、ラファードは知らなかったのだ。
「生まれつきなかったわけじゃない。そもそも天獣の肉体が欠損して生まれることは有り得ない。つまりラファードは誕生した時は心臓があったのに、今まで生きてきたうちのどこかの時点で失っているんだ。たぶん、聖獣になる前……継承の儀式で記憶が飛ぶ前に」
「継承の儀式?」
先ほども聞いた言葉にエルフィールは首を傾げる。
「ああ。国と聖獣が交わした加護の契約を継承させる儀式だ。これはもともと別の個体、つまりラファードのお祖父さんに当たる先々代の聖獣が国と交わした契約でね。それを継承させるのはかなり負担がかかることらしく、代償としてそれまでの記憶が飛ぶらしい。だからラファードは生まれてから聖獣になるまでの間の記憶がほとんどないんだ」
「それまでの記憶が……ない?」
エルフィールは目を見開く。記憶や思い出のすべてを失ってしまうのは大変なことだ。そんな思いまでして、彼らはこの国のために聖獣の役目を継承し続けてくれている。
「聖獣になってからの十年は彼もちゃんと覚えている。もちろん僕もね。その間に心臓が欠けるような出来事はなかったと断言できるよ。だから、もしそんな出来事があったとしたら、それは聖獣の役目を継承する前だと思う。ラファードは何も覚えてなくて、手がかりがなかった。でも……」
リクハルドの視線がエルフィールの左胸に注がれる。そこに性的な意味はなかったものの、嫌な予感を覚えてエルフィールはとっさに手で胸を隠した。
さっき聖獣はなんと言った? 『あの娘の心臓は俺の心臓』?
――いやいや、まさかまさか!
エルフィールの心臓はエルフィールのものだ。運動すればどくどくと脈打つし、緊張したり興奮したりすればドキドキと高鳴る。今だって、耳の奥でバクバクとうるさいくらいに鳴っている。
これが他人の心臓であるわけがない。
「な、何かの間違いです! これは私の心臓ですから!」
ラファードがスッと目を細める。
「俺が自分の心臓を間違えるわけないだろう?」
「心臓がないことに数年前まで気づかなかったんじゃないんですか!」
「ぐっ……」
どうやら痛いところを突かれたらしい。ラファードは顔を顰めると、ずんずんと歩いてきてエルフィールの前に立った。
「そんなことはどうでもいい。問題なのは、お前の胸にあるのが俺の心臓だということだ。娘、どうやって俺の心臓を手に入れた? 覚えていることを話せ」
「だから、これは私のしんぞ――」
「言え」
短く命令されると同時に、目の前の姿がいきなりぶれた。つい今しがたまでくっきりとしていた輪郭が揺らぎ、たちまち薄くなっていく。やがて、人の形の残像が消え、目の前にいたのは大きな虎だった。間違いない。謁見の間で見たあの虎だ。
本人の言う通り、そしてリクハルドの言う通り、彼は聖獣だったのだ。
虎は息を呑むエルフィールを、その金色の目でじっと見据えている。そして静かな、けれど逆らえない響きのある声で命じた。
「言え。どうやって俺の心臓を手に入れた?」
逃げたいのに、まるで床に縫いとめられたかのように足が動かなかった。
――そんなこと言われても、知らないものは知らないのに……!
抗議したかったが、喉からはヒューッという空気の音しか出てこなかった。
――なんて大きくて、恐ろしくて、そして綺麗な虎なんだろう。
ぬっと伸ばされ、エルフィールを真正面から見つめている顔は大きい。口を開けばエルフィールの顔などがぶりとひと呑みできそうだ。前脚は太く、鋭い爪が覗いている。エルフィールの命など一撃で奪ってしまえるだろう。
この瞬間、エルフィールの命はまさしくラファードの手の中にあった。
……怖い。けれど、なぜかエルフィールは目の前の虎に魅入られていた。
やがてラファードやリクハルドたちにしてみたら、ほんの少しの――でもエルフィールにとっては永遠とも思えるような時間が過ぎ、彼女の身体にかかっていた見えない圧力がふっと消えた。
急に脚の力が抜け、エルフィールはがくりと床に座り込んだ。なぜか全身がぶるぶる震え、心臓が痛いほど脈打っている。
「ふん。どうやら知らないというのは本当らしい」
ラファードは人間の姿になると、床に座り込んで震えているエルフィールから顔を背けた。
「心臓を失った原因や、この娘に渡った理由が分かると思ったんだが……」
「結局分からなかったのかい?」
リクハルドがのんびりした口調で尋ねる。ラファードはつまらなそうに頷いた。
「この娘は何も知らないし、覚えてもいないらしい」
「父親のジュナン伯爵は何か知っているかな?」
「知っていればいいが、望みは薄いだろう。謁見の間で見た時も、彼からは何も感じなかった。娘の心臓が俺のものだと知っていたなら、あれほど平静でいられるわけがないからな」
やれやれとため息をつき、ラファードはソファまで歩くと、ドカッと腰を下ろした。
「心臓が見つかったはいいが、肝心なことは分からずじまいだ」
「心臓は取り戻せそうかい?」
その質問に、ラファードはちらりとエルフィールに視線を向けて、それから首を横に振った。
「いや。無理だ。さっき触って分かった。俺の心臓とその娘の心臓は同化している。もともとは俺の魔力なので取り出すことは不可能ではないが、それをやるとその娘が死ぬ」
「それは……困ったね」
リクハルドは深いため息をついた。エルフィールは二人の会話を聞いて、呆然とする。
「……死ぬ……」
――本当にこの心臓は聖獣のものなの? そして取り出されると……私は死ぬの?
お腹の奥がすぅっと冷たくなり、顔から血の気が引いていく。
信じたくない。自分をからかっているだけだと思いたい。けれど、聖獣とこの国の王がエルフィール相手に冗談を言う必要はない。つまり、彼らは真実を言っているのだ。
――私の心臓が、聖獣の……
ぎゅっと手のひらを胸に押し当てると、いつもより速く鼓動を刻む音が聞こえた。
「どうするんだい、ラファード?」
俯くエルフィールをちらりと見ながらリクハルドが尋ねる。
「どうするもこうするも、一つしかない。こうしている間にも、俺の魔力はその娘を生かすために費やされている。微々たるものだが、今は少しでも魔力が惜しいんだ」
「彼女の寿命が尽きるまで待ってあげられないのかい? 人間にとっての一生は、長寿の君にとってそれほど長い時間じゃないはずだ」
「平素ならそれでもいいんだが、お前も知っている通り、隣のロウゼルドの動きが怪しい。魔術師を集めているという話だし、もしかしたら百年ぶりに戦争になるかもしれない。その時に魔力が万全でなければ困るんだ」
「どれほど大勢の魔術師を集めようと、天獣に勝てるわけはないと思うんだけど……」
「だが、油断はできない。俺は百戦錬磨の父上と違って、戦った経験があるわけじゃないからな」
二人の会話を聞きながら、エルフィールはのろのろと顔をあげた。
全部が理解できたわけではないが、ラファードがエルフィールから心臓を取り戻したい理由がおぼろげながら分かるような気がした。
この国のためにだ。……なぜなら彼は聖獣だから。ただの変態ではないからだ。
エルフィールはドレスの胸もとをきゅっと握る。
この国の貴族の一人として、命を捨ててでも心臓を返すべきなのだろう。それが義務であり道理だ。
――でも……でも……
父親や母親、そして弟の顔が脳裏に浮かぶ。そのとたん、ぶわっと目に涙が浮かんだ。
どんなに利己的だと言われようが、非国民だと責められようが、エルフィールはまだ死にたくなかった。
――だって、私はまだ親孝行していないし、小さな弟にも何もしてあげていない……!
辛い時に支えてくれた使用人たちにも、どんなに感謝しているか言っていない。助けてくれたリクリードさんやサンド商会にも何も報いていない。
――まだまだみんなの傍にいたい。まだ、死にたくない……!
ぽろぽろと目から涙が零れ落ちていく。
チッという舌打ちの音が聞こえたのは、その時だった。
「ああ、もう。泣くな」
驚いて顔をあげると、目の前にいつの間にかラファードが跪いていた。ラファードはエルフィールの頬を指でぐいっと拭う。そのしぐさは少し乱暴だったにもかかわらず、なぜかエルフィールには優しく感じられた。
「別にお前の命を奪おうと思ってはいない。怖がらせて悪かった」
「で、でも、私の心臓が必要なのでしょう……?」
「それは最後の最後、どうしようもなくなった時の手段だ。守護するべき民の命をいたずらに奪うつもりはないし、そうならないように努力する。だから泣くな」
泣くなと優しく言われると、さらに涙が出てきてしまうのはどうしてなのか。
目じりに溜まった新たな涙を、浅黒くて温かな指が拭っていく。
「だから泣くなというのに。心配はいらない。お前の命を奪わないで済むような方法を考えよう」
「どうやって?」
そう尋ねたのはリクハルドだった。ラファードがエルフィールの涙を見てうろたえている図が面白いのか、愉快そうな表情をしている。ラファードはチッと舌打ちした。
――聖獣が舌打ちって……
エルフィールの抱いている幻想をとことんぶち壊してくれる人だ。……いや、人ではないけれど。
調子が戻ってきたのか、瞬きして涙を振り払いながら、そんなことを考えているエルフィールだった。
「父上なら、この娘を死なせずに心臓を取り戻す方法を知っているかもしれないだろう」
ラファードは立ち上がりながらリクハルドに言った。
「そうだね。先代の聖獣ならご存知かもしれないね。あの人は博識だから。ただ、フェルマに戻ってくるのは来年とか言っていなかった?」
「ああ、だがそんなに待っていられない」
獣としての習性か、ラファードは指についていたエルフィールの涙をペロリと舐め取る。地面に座り込んだままのエルフィールは見ていなかったが、ラファードは何かに気づいたように目を見開き、一瞬だけ動きを止めた。
「ラファード?」
彼の様子に気づいたリクハルドが眉を顰める。
「あ、ああ。なんでもない。リクハルド。すぐに父上を探して戻ってくるように伝えてくれ」
気を取り直したように指示すると、ラファードはエルフィールを見おろした。
「娘、お前の名前は?」
エルフィールは目を丸くしながら答える。
「え? えっと、エルフィールと申します。エルフィール・ジュナンです」
「エルフィールか。ではエルフィール」
ラファードはエルフィールの腕を取って立たせながら、尊大に命じた。
「お前の身柄は今この瞬間から俺が引き受ける。俺の名を呼ぶことも、傍に仕えることも許そう」
「え?」
唖然とするエルフィールを見おろし、ラファードはにやりと笑った。
「見つけたからには、俺の許可なくこの城から出られると思うなよ、我が心臓よ」
バタバタと複数の足音が近づいてきているのを耳にしながら、エルフィールはポカンと口を開けたのだった。
* * *
「とんだ一日だったわ……」
用意してもらった部屋のベッドに横たわりながらエルフィールはぼやく。
ラファードの宣言通り、エルフィールは城から出ることを許されず、ひとまず居残ることになった。あの後、駆けつけてきた父親は仰天したものの、国王と聖獣に言われれば断れるはずもなく、娘をひどく心配しながらも屋敷に戻っていった。
もちろんジュナン伯爵もエルフィールの心臓が聖獣のものとはまったく知らなかったので、なぜこのような事態になったのかは分からずじまいだ。
「私、どうなるのかな……いつになったら帰れるのかしら?」
当然、心臓のことが解決したらだ。発した疑問に自分で答えを出すと、エルフィールはどっと疲労感を覚えた。
今日は舞踏会の準備で朝から忙しかった。体力的には大したことがなくても、慣れない場所でとんでもない事実が発覚し、さすがのエルフィールも疲れ果ててしまった。
――もう休もう。眠れるかどうか分からないけれど。
そんなことを思いながら目を閉じたエルフィールだったが、自分で思っていた以上に疲れていたらしく、五分後には静かな寝息を立てていた。
それからしばらくして、一人の男性が音もなく姿を現す。人の姿となったラファードだ。
ラファードはエルフィールを見おろし、寝入っているのを確認すると、彼女の身体をベッドから抱き上げた。すっかり深い眠りに落ちているのか、エルフィールが目を覚ます気配はない。ラファードはそれをいいことに、彼女を一瞬にして自分の部屋の寝所に運んだ。
寝所のベッドにエルフィールを横たえる。規則正しい呼吸を繰り返す彼女の胸もとをじっと見つめていたラファードは、おもむろに手を伸ばして夜着のボタンを外していった。
レースのついた薄いシュミーズ一枚にされても、エルフィールは目覚めることなくすやすやと眠り続ける。あどけない寝顔にラファードは一瞬だけ気が削がれたが、すぐに頭を振って罪悪感を隅に追いやり、エルフィールに覆いかぶさった。
「エルフィール、目を開けろ」
そう囁きながらうっすらと開いたピンクの唇に口を寄せる。柔らかな皮膚を押し開き、その隙間から舌を潜り込ませると、すぐさまラファードの中に甘美な魔力が流れ込んでくる。
ああ、やはり――そう思いながらエルフィールの舌を絡ませ、咥内を満たす唾液を啜った。
「……ん……ぁ、っ……ん……」
エルフィールは口に違和感を覚えて目を覚ます。うっすらと目を開け、飛び込んできた光景に仰天した。
「んっ? んんんっ!?」
口を塞がれている上に、男が自分に覆いかぶさっているのだ。エルフィールが驚くのも無理はない。
――いったい、何!?
男を押しやろうと両手で胸を押したが、まるで歯が立たなかった。その時になって、ようやくエルフィールは口の中で蠢く舌の存在に気づく。
――こ、これ、キ、キスされているの!?
しかもキスといっても親愛のキスではなく、夫婦や恋人同士がするような濃厚なキスだ。
――やめて!
混乱しながらバンバンと男の胸を叩く。ようやく男がエルフィールの口から舌を引き抜いた。その顔を見て、エルフィールは自分に覆いかぶさっていた男の正体を知る。
それは人の姿をした聖獣だった。
「な、な、なんでっ……」
ラファードはにやりと笑う。
「ようやく起きたか。ここまで起きないとは警戒心がなさすぎやしないか?」
あんぐりと口を開けたエルフィールは、ラファードの頭越しに見える風景が眠る前のものとは違うことに気づいて絶句した。
――ここ、どこ?
周囲は天井から吊るされた白いカーテンで覆われていた。広さはエルフィールの寝室より狭いようだが正確なところは分からない。なぜなら部屋の角が見当たらず、円形の空間だったからだ。変わった形の天蓋付きのベッドかと一瞬思ったが、それとは少し違うようだ。さっきから起き上がろうと身をよじってもベッド特有の軋む音がしなかった。
「ど、どこなの、ここ……」
「俺の寝所だ」
「あ、あなたの……聖獣の、寝所? ここが寝所?」
「砂漠の国の様式だがな」
エルフィールは知らなかったが、かつて砂漠の国の民は砂漠を移動する生活をしており、大きなテントの中をカーテンで仕切ることで用途別に分けて使っていたのだ。その名残で、砂漠の国の王族や要人の部屋は居間と寝所をカーテンで仕切る方式になっている。
寝所はマットレスが敷き詰められているので一段高くなっているが、居間の床と高低差はほとんどなく、虎であるラファードが生活しやすいように整えられていた。
「異国風……」
つい物珍しそうに周囲を眺めていたエルフィールだったが、ハッと我に返る。今はそんな場合ではない。
エルフィールは自分の姿を見おろし、顔を顰めた。
身に着けていたはずの夜着はなく、シュミーズとドロワーズだけというありさまだ。いくらのんき者のエルフィールでも、今自分がどんな状況に置かれているか分からないほどばかではない。寝所のベッドに押し倒され、逃がさないとばかりに組み敷かれているのだから。
けれど、何かの間違いということもある。……というか、間違いだと思いたい。そんな期待を込めて、エルフィールは目の前のラファードに尋ねた。
「君が邪な感情を抱いて彼女に触れたわけじゃないのは分かってるさ。けれど……」
「当たり前だ。俺は人間の娘に欲情したことはない。俺がこの娘に触ったのは確かめるためだ」
そこで金色の瞳が再びエルフィールを射抜く。
「この娘の心臓が、俺の心臓かどうかを――」
「なんだって?」
心臓と聞いてリクハルドの目が大きく見開かれる。エルフィールは目を瞬かせた。
――心臓? そういえばさっきもこの人、心臓がどうとか言っていなかったかしら?
「触れて分かった。間違いない。この娘の心臓は俺の心臓だ」
「まさか、そんなことが……」
リクハルドは絶句している。
「俺が間違うと思うか?」
「いや、君に限ってそれはないと思うけど……でも、まさか、そんなことが」
「あの……」
黙って二人の会話を聞いていたエルフィールは、たまらず声をかけていた。自分より身分の高い人、それも国王の会話を中断させるのは、不作法どころか不遜な行為だと分かっていた。だが、自分のことを話題にしているらしいのに置き去りにされていることに危機感を覚えたのだ。
――訳が分からないのはこちらの方だわ!
「お話し中に申し訳ありません。ですが、私にも分かるように説明していただけませんでしょうか? まず最初に……」
エルフィールは視線を男に向ける。
「このお方は、どういった方なのでしょうか?」
「それは……」
リクハルドが判断を求めるように男を見る。男はむすっと口を引き結んだが、微かに頷いた。それを見ていたエルフィールは、あることに気づいて内心怪訝に思う。
男とリクハルドは気安く話しているものの、どちらかと言うと男の方が上の立場であるようだ。
もし男が他国の王族なら、リクハルドが気を使うのも分かる。だが、それでも対等な立場で、どちらが上とか下とか感じることはないはずだ。それなのに、なぜか二人を見ていると、一国の王であるリクハルドが男を敬っているのが感じ取れる。
聖獣の守護する国の王がそれほど敬う相手とは――?
嫌な予感がエルフィールの胸にじわじわと湧き上がった。
「そうだね。王族や重臣の中でも一部の者しか知らないことだけれど、君の心臓が彼女の中にあるというのであれば、彼女は知っておくべきだろうね」
リクハルドは男に重々しく頷き返すと、エルフィールを見る。とたんに防衛本能が働き、彼女は思わず口にしていた。
「あ、やっぱり知らなくていいです」
だが、言うのが遅かったようだ。リクハルドはエルフィールを見据えながら告げる。
「今は人間の姿を取っているけれど、彼は……彼こそがこの国を守護する聖獣――天虎族のラファードだ」
その言葉がエルフィールの頭の中に浸透するのに、時間がかかった。たっぷり十秒以上かかったのち、エルフィールは口をぽかんと開ける。
「――――は? 聖獣?」
「そうだ。聖獣だ」
それからさらに十秒後、幻想を粉々にされたエルフィールの悲痛な叫びが響き渡った。
「そんな、嘘よっ! 聖獣がこんな変態だなんて……!」
天の遣いと呼ばれ、人間にとっては神にも等しい天獣族だが、彼らはほとんど人前に姿を現すことがなく、関わろうともしない。ところが、まれに人や国を気に入って特別な加護を与えることがある。豊かな実りと平和をもたらしてくれる彼らを人々は「聖獣」と呼び、敬っていた。
ただし、聖獣の数は極端に少ない。天獣族が加護を与えることはめったになく、その加護も一代限りで終わることが多い。聖獣の寿命が尽きる前に怒りを買い、加護を失った国もあると聞く。
そんな中、フェルマ国は聖獣が三代にわたって加護を続けている稀有な国なのだ。そのため、聖獣の加護を持つ国々の中心であり指導的立場となっている。フェルマ国の聖獣は聖獣の中の聖獣と呼ばれ、もっとも尊い存在である――とエルフィールは父親から何度も何度も聞かされて育った。
「それなのに、聖獣の中の聖獣が変態だなんて……! 聖獣というのは穏やかで慈悲深くて立居振舞いも立派で品があるものと思っていたのに……」
ショックのあまり思ったことをすべて口にしていることに、エルフィールは気づいていない。
「そのイメージはおそらく先代の聖獣のことだと思うよ」
リクハルドと侍従は思わず苦笑を浮かべる。変態呼ばわりされた男――たった今この国の聖獣だと判明したばかりの存在は、ムッとして顔を顰めていた。
「悪かったな。父上のように立派じゃなくて」
機嫌の悪そうな声が聞こえ、エルフィールは自分が本音を垂れ流しにしていることにようやく気づいて口に手を当てた。
「も、申し訳ありませ……」
「まぁ、まぁ。未熟なのは僕も同じだし、拗ねる前に先代よりも立派だと言われるように頑張ろうよ」
取り成すように言うリクハルドに、エルフィールは感謝の視線を送った。
フェルマ国の聖獣は十年ほど前、それまで三百年にわたってこの国を加護してきた先代から、その子どもへと代替わりしている。今の聖獣は三代目で、長い寿命を持つ天獣としてはまだまだ若いが、とても強力な魔力を持っていると聞く。
今は人間の姿をしている聖獣を、エルフィールは改めて見つめた。
「聖獣は、人の姿にもなれるのですね……」
「獣の方が本来の姿だけどね。魔力を持っているから姿はいくらでも変えられるんだよ」
むすっとしたままの聖獣に代わって答えたのはリクハルドだった。
「そうなんですか」
人間離れした美貌も、異国風の変わった姿も、聖獣と言われれば納得できる。……胸を掴まれて谷間に顔を突っ込まれたのは解せないが。
「そんなことよりも心臓だ。おい娘、なぜお前が俺の心臓を持っている?」
聖獣が金色の目でエルフィールを睨みつける。エルフィールは思わず眉を寄せた。
「あの……先ほどからずっと心臓心臓と仰っていますが、なんのことです?」
口を開いたのは、やはりリクハルドだった。
「事情を知らない君には訳が分からないよね。僕から説明しよう。その代わり、このことは絶対に他言しないでくれ。国の重要機密なのだから」
そう前置きしてから、リクハルドはすぅっと息を吸って告げた。
「実はね、ラファード……今代の聖獣は心臓が欠けているんだよ」
聖獣――ラファードが自分の心臓がないことに気づいたのは、ほんの数年前だという。
「天獣は獣の姿を取っているけれど、それは魔力で地上の獣を模しているだけで、実際に肉体の機能が必要なわけじゃないんだ。血も出るし内臓もあるけれど、それが欠損したとしても生きていくには支障がない。だからラファードも自分の心臓が欠けていることに気づかなかった」
「それまでまったく気づかなかったんですか?」
エルフィールが思わず尋ねると、ラファードがムッとして答える。
「……魔力の一部が欠けているような気はしていた。ただ、それは聖獣の役目を父上から引き継ぐ時に行った継承の儀の影響だと思っていたし、生きていくために心臓が必要なわけではない。だからなかなか気づけなかった」
気づいたのは、国王の妹であるラヴィーナ王女がラファードに抱っこをして欲しいとねだったのがきっかけだったという。
「まだ幼いラヴィーナの要請に応じて、ラファードは人間の姿になって抱き上げた。その時ラヴィーナが、彼から心臓の音がしないことに気づいたんだよ」
『ラファ兄様、どうしてお胸の音が聞こえないの? リーおじ様のお胸からは音が聞こえるのに』
子どもらしい無邪気な言葉が、今までラファード自身がまったく気づいていなかった衝撃の事実を明らかにした。ラヴィーナ王女の言う『リーおじ様』というのは先代の聖獣のことだ。先代の聖獣からは心臓の音が聞こえるのに、ラファードからは聞こえない。この事実に一番驚いたのはラファード本人だった。彼はそれまで心臓の音が聞こえるのが当たり前だと知らなかったのだ。
心臓がないということは血が巡っていないことになるが、天獣が傷ついて血を流すことは一生に一度あるかないかのことなので、気づく機会もなかった。
人間には心臓が不可欠だということは知識として知っていたものの、彼以外の天獣にはちゃんと心臓があることも、その心臓が生きて脈打っていることも、ラファードは知らなかったのだ。
「生まれつきなかったわけじゃない。そもそも天獣の肉体が欠損して生まれることは有り得ない。つまりラファードは誕生した時は心臓があったのに、今まで生きてきたうちのどこかの時点で失っているんだ。たぶん、聖獣になる前……継承の儀式で記憶が飛ぶ前に」
「継承の儀式?」
先ほども聞いた言葉にエルフィールは首を傾げる。
「ああ。国と聖獣が交わした加護の契約を継承させる儀式だ。これはもともと別の個体、つまりラファードのお祖父さんに当たる先々代の聖獣が国と交わした契約でね。それを継承させるのはかなり負担がかかることらしく、代償としてそれまでの記憶が飛ぶらしい。だからラファードは生まれてから聖獣になるまでの間の記憶がほとんどないんだ」
「それまでの記憶が……ない?」
エルフィールは目を見開く。記憶や思い出のすべてを失ってしまうのは大変なことだ。そんな思いまでして、彼らはこの国のために聖獣の役目を継承し続けてくれている。
「聖獣になってからの十年は彼もちゃんと覚えている。もちろん僕もね。その間に心臓が欠けるような出来事はなかったと断言できるよ。だから、もしそんな出来事があったとしたら、それは聖獣の役目を継承する前だと思う。ラファードは何も覚えてなくて、手がかりがなかった。でも……」
リクハルドの視線がエルフィールの左胸に注がれる。そこに性的な意味はなかったものの、嫌な予感を覚えてエルフィールはとっさに手で胸を隠した。
さっき聖獣はなんと言った? 『あの娘の心臓は俺の心臓』?
――いやいや、まさかまさか!
エルフィールの心臓はエルフィールのものだ。運動すればどくどくと脈打つし、緊張したり興奮したりすればドキドキと高鳴る。今だって、耳の奥でバクバクとうるさいくらいに鳴っている。
これが他人の心臓であるわけがない。
「な、何かの間違いです! これは私の心臓ですから!」
ラファードがスッと目を細める。
「俺が自分の心臓を間違えるわけないだろう?」
「心臓がないことに数年前まで気づかなかったんじゃないんですか!」
「ぐっ……」
どうやら痛いところを突かれたらしい。ラファードは顔を顰めると、ずんずんと歩いてきてエルフィールの前に立った。
「そんなことはどうでもいい。問題なのは、お前の胸にあるのが俺の心臓だということだ。娘、どうやって俺の心臓を手に入れた? 覚えていることを話せ」
「だから、これは私のしんぞ――」
「言え」
短く命令されると同時に、目の前の姿がいきなりぶれた。つい今しがたまでくっきりとしていた輪郭が揺らぎ、たちまち薄くなっていく。やがて、人の形の残像が消え、目の前にいたのは大きな虎だった。間違いない。謁見の間で見たあの虎だ。
本人の言う通り、そしてリクハルドの言う通り、彼は聖獣だったのだ。
虎は息を呑むエルフィールを、その金色の目でじっと見据えている。そして静かな、けれど逆らえない響きのある声で命じた。
「言え。どうやって俺の心臓を手に入れた?」
逃げたいのに、まるで床に縫いとめられたかのように足が動かなかった。
――そんなこと言われても、知らないものは知らないのに……!
抗議したかったが、喉からはヒューッという空気の音しか出てこなかった。
――なんて大きくて、恐ろしくて、そして綺麗な虎なんだろう。
ぬっと伸ばされ、エルフィールを真正面から見つめている顔は大きい。口を開けばエルフィールの顔などがぶりとひと呑みできそうだ。前脚は太く、鋭い爪が覗いている。エルフィールの命など一撃で奪ってしまえるだろう。
この瞬間、エルフィールの命はまさしくラファードの手の中にあった。
……怖い。けれど、なぜかエルフィールは目の前の虎に魅入られていた。
やがてラファードやリクハルドたちにしてみたら、ほんの少しの――でもエルフィールにとっては永遠とも思えるような時間が過ぎ、彼女の身体にかかっていた見えない圧力がふっと消えた。
急に脚の力が抜け、エルフィールはがくりと床に座り込んだ。なぜか全身がぶるぶる震え、心臓が痛いほど脈打っている。
「ふん。どうやら知らないというのは本当らしい」
ラファードは人間の姿になると、床に座り込んで震えているエルフィールから顔を背けた。
「心臓を失った原因や、この娘に渡った理由が分かると思ったんだが……」
「結局分からなかったのかい?」
リクハルドがのんびりした口調で尋ねる。ラファードはつまらなそうに頷いた。
「この娘は何も知らないし、覚えてもいないらしい」
「父親のジュナン伯爵は何か知っているかな?」
「知っていればいいが、望みは薄いだろう。謁見の間で見た時も、彼からは何も感じなかった。娘の心臓が俺のものだと知っていたなら、あれほど平静でいられるわけがないからな」
やれやれとため息をつき、ラファードはソファまで歩くと、ドカッと腰を下ろした。
「心臓が見つかったはいいが、肝心なことは分からずじまいだ」
「心臓は取り戻せそうかい?」
その質問に、ラファードはちらりとエルフィールに視線を向けて、それから首を横に振った。
「いや。無理だ。さっき触って分かった。俺の心臓とその娘の心臓は同化している。もともとは俺の魔力なので取り出すことは不可能ではないが、それをやるとその娘が死ぬ」
「それは……困ったね」
リクハルドは深いため息をついた。エルフィールは二人の会話を聞いて、呆然とする。
「……死ぬ……」
――本当にこの心臓は聖獣のものなの? そして取り出されると……私は死ぬの?
お腹の奥がすぅっと冷たくなり、顔から血の気が引いていく。
信じたくない。自分をからかっているだけだと思いたい。けれど、聖獣とこの国の王がエルフィール相手に冗談を言う必要はない。つまり、彼らは真実を言っているのだ。
――私の心臓が、聖獣の……
ぎゅっと手のひらを胸に押し当てると、いつもより速く鼓動を刻む音が聞こえた。
「どうするんだい、ラファード?」
俯くエルフィールをちらりと見ながらリクハルドが尋ねる。
「どうするもこうするも、一つしかない。こうしている間にも、俺の魔力はその娘を生かすために費やされている。微々たるものだが、今は少しでも魔力が惜しいんだ」
「彼女の寿命が尽きるまで待ってあげられないのかい? 人間にとっての一生は、長寿の君にとってそれほど長い時間じゃないはずだ」
「平素ならそれでもいいんだが、お前も知っている通り、隣のロウゼルドの動きが怪しい。魔術師を集めているという話だし、もしかしたら百年ぶりに戦争になるかもしれない。その時に魔力が万全でなければ困るんだ」
「どれほど大勢の魔術師を集めようと、天獣に勝てるわけはないと思うんだけど……」
「だが、油断はできない。俺は百戦錬磨の父上と違って、戦った経験があるわけじゃないからな」
二人の会話を聞きながら、エルフィールはのろのろと顔をあげた。
全部が理解できたわけではないが、ラファードがエルフィールから心臓を取り戻したい理由がおぼろげながら分かるような気がした。
この国のためにだ。……なぜなら彼は聖獣だから。ただの変態ではないからだ。
エルフィールはドレスの胸もとをきゅっと握る。
この国の貴族の一人として、命を捨ててでも心臓を返すべきなのだろう。それが義務であり道理だ。
――でも……でも……
父親や母親、そして弟の顔が脳裏に浮かぶ。そのとたん、ぶわっと目に涙が浮かんだ。
どんなに利己的だと言われようが、非国民だと責められようが、エルフィールはまだ死にたくなかった。
――だって、私はまだ親孝行していないし、小さな弟にも何もしてあげていない……!
辛い時に支えてくれた使用人たちにも、どんなに感謝しているか言っていない。助けてくれたリクリードさんやサンド商会にも何も報いていない。
――まだまだみんなの傍にいたい。まだ、死にたくない……!
ぽろぽろと目から涙が零れ落ちていく。
チッという舌打ちの音が聞こえたのは、その時だった。
「ああ、もう。泣くな」
驚いて顔をあげると、目の前にいつの間にかラファードが跪いていた。ラファードはエルフィールの頬を指でぐいっと拭う。そのしぐさは少し乱暴だったにもかかわらず、なぜかエルフィールには優しく感じられた。
「別にお前の命を奪おうと思ってはいない。怖がらせて悪かった」
「で、でも、私の心臓が必要なのでしょう……?」
「それは最後の最後、どうしようもなくなった時の手段だ。守護するべき民の命をいたずらに奪うつもりはないし、そうならないように努力する。だから泣くな」
泣くなと優しく言われると、さらに涙が出てきてしまうのはどうしてなのか。
目じりに溜まった新たな涙を、浅黒くて温かな指が拭っていく。
「だから泣くなというのに。心配はいらない。お前の命を奪わないで済むような方法を考えよう」
「どうやって?」
そう尋ねたのはリクハルドだった。ラファードがエルフィールの涙を見てうろたえている図が面白いのか、愉快そうな表情をしている。ラファードはチッと舌打ちした。
――聖獣が舌打ちって……
エルフィールの抱いている幻想をとことんぶち壊してくれる人だ。……いや、人ではないけれど。
調子が戻ってきたのか、瞬きして涙を振り払いながら、そんなことを考えているエルフィールだった。
「父上なら、この娘を死なせずに心臓を取り戻す方法を知っているかもしれないだろう」
ラファードは立ち上がりながらリクハルドに言った。
「そうだね。先代の聖獣ならご存知かもしれないね。あの人は博識だから。ただ、フェルマに戻ってくるのは来年とか言っていなかった?」
「ああ、だがそんなに待っていられない」
獣としての習性か、ラファードは指についていたエルフィールの涙をペロリと舐め取る。地面に座り込んだままのエルフィールは見ていなかったが、ラファードは何かに気づいたように目を見開き、一瞬だけ動きを止めた。
「ラファード?」
彼の様子に気づいたリクハルドが眉を顰める。
「あ、ああ。なんでもない。リクハルド。すぐに父上を探して戻ってくるように伝えてくれ」
気を取り直したように指示すると、ラファードはエルフィールを見おろした。
「娘、お前の名前は?」
エルフィールは目を丸くしながら答える。
「え? えっと、エルフィールと申します。エルフィール・ジュナンです」
「エルフィールか。ではエルフィール」
ラファードはエルフィールの腕を取って立たせながら、尊大に命じた。
「お前の身柄は今この瞬間から俺が引き受ける。俺の名を呼ぶことも、傍に仕えることも許そう」
「え?」
唖然とするエルフィールを見おろし、ラファードはにやりと笑った。
「見つけたからには、俺の許可なくこの城から出られると思うなよ、我が心臓よ」
バタバタと複数の足音が近づいてきているのを耳にしながら、エルフィールはポカンと口を開けたのだった。
* * *
「とんだ一日だったわ……」
用意してもらった部屋のベッドに横たわりながらエルフィールはぼやく。
ラファードの宣言通り、エルフィールは城から出ることを許されず、ひとまず居残ることになった。あの後、駆けつけてきた父親は仰天したものの、国王と聖獣に言われれば断れるはずもなく、娘をひどく心配しながらも屋敷に戻っていった。
もちろんジュナン伯爵もエルフィールの心臓が聖獣のものとはまったく知らなかったので、なぜこのような事態になったのかは分からずじまいだ。
「私、どうなるのかな……いつになったら帰れるのかしら?」
当然、心臓のことが解決したらだ。発した疑問に自分で答えを出すと、エルフィールはどっと疲労感を覚えた。
今日は舞踏会の準備で朝から忙しかった。体力的には大したことがなくても、慣れない場所でとんでもない事実が発覚し、さすがのエルフィールも疲れ果ててしまった。
――もう休もう。眠れるかどうか分からないけれど。
そんなことを思いながら目を閉じたエルフィールだったが、自分で思っていた以上に疲れていたらしく、五分後には静かな寝息を立てていた。
それからしばらくして、一人の男性が音もなく姿を現す。人の姿となったラファードだ。
ラファードはエルフィールを見おろし、寝入っているのを確認すると、彼女の身体をベッドから抱き上げた。すっかり深い眠りに落ちているのか、エルフィールが目を覚ます気配はない。ラファードはそれをいいことに、彼女を一瞬にして自分の部屋の寝所に運んだ。
寝所のベッドにエルフィールを横たえる。規則正しい呼吸を繰り返す彼女の胸もとをじっと見つめていたラファードは、おもむろに手を伸ばして夜着のボタンを外していった。
レースのついた薄いシュミーズ一枚にされても、エルフィールは目覚めることなくすやすやと眠り続ける。あどけない寝顔にラファードは一瞬だけ気が削がれたが、すぐに頭を振って罪悪感を隅に追いやり、エルフィールに覆いかぶさった。
「エルフィール、目を開けろ」
そう囁きながらうっすらと開いたピンクの唇に口を寄せる。柔らかな皮膚を押し開き、その隙間から舌を潜り込ませると、すぐさまラファードの中に甘美な魔力が流れ込んでくる。
ああ、やはり――そう思いながらエルフィールの舌を絡ませ、咥内を満たす唾液を啜った。
「……ん……ぁ、っ……ん……」
エルフィールは口に違和感を覚えて目を覚ます。うっすらと目を開け、飛び込んできた光景に仰天した。
「んっ? んんんっ!?」
口を塞がれている上に、男が自分に覆いかぶさっているのだ。エルフィールが驚くのも無理はない。
――いったい、何!?
男を押しやろうと両手で胸を押したが、まるで歯が立たなかった。その時になって、ようやくエルフィールは口の中で蠢く舌の存在に気づく。
――こ、これ、キ、キスされているの!?
しかもキスといっても親愛のキスではなく、夫婦や恋人同士がするような濃厚なキスだ。
――やめて!
混乱しながらバンバンと男の胸を叩く。ようやく男がエルフィールの口から舌を引き抜いた。その顔を見て、エルフィールは自分に覆いかぶさっていた男の正体を知る。
それは人の姿をした聖獣だった。
「な、な、なんでっ……」
ラファードはにやりと笑う。
「ようやく起きたか。ここまで起きないとは警戒心がなさすぎやしないか?」
あんぐりと口を開けたエルフィールは、ラファードの頭越しに見える風景が眠る前のものとは違うことに気づいて絶句した。
――ここ、どこ?
周囲は天井から吊るされた白いカーテンで覆われていた。広さはエルフィールの寝室より狭いようだが正確なところは分からない。なぜなら部屋の角が見当たらず、円形の空間だったからだ。変わった形の天蓋付きのベッドかと一瞬思ったが、それとは少し違うようだ。さっきから起き上がろうと身をよじってもベッド特有の軋む音がしなかった。
「ど、どこなの、ここ……」
「俺の寝所だ」
「あ、あなたの……聖獣の、寝所? ここが寝所?」
「砂漠の国の様式だがな」
エルフィールは知らなかったが、かつて砂漠の国の民は砂漠を移動する生活をしており、大きなテントの中をカーテンで仕切ることで用途別に分けて使っていたのだ。その名残で、砂漠の国の王族や要人の部屋は居間と寝所をカーテンで仕切る方式になっている。
寝所はマットレスが敷き詰められているので一段高くなっているが、居間の床と高低差はほとんどなく、虎であるラファードが生活しやすいように整えられていた。
「異国風……」
つい物珍しそうに周囲を眺めていたエルフィールだったが、ハッと我に返る。今はそんな場合ではない。
エルフィールは自分の姿を見おろし、顔を顰めた。
身に着けていたはずの夜着はなく、シュミーズとドロワーズだけというありさまだ。いくらのんき者のエルフィールでも、今自分がどんな状況に置かれているか分からないほどばかではない。寝所のベッドに押し倒され、逃がさないとばかりに組み敷かれているのだから。
けれど、何かの間違いということもある。……というか、間違いだと思いたい。そんな期待を込めて、エルフィールは目の前のラファードに尋ねた。
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