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第二部 起死回生

三軍暴骨……関東進出戦⑧

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◇◇
 永禄4年(1561年)5月25日――
 
 破竹の勢いで関東平野を進んできた上杉軍は、平井城に続き羽生(はにゅう)城を陥落させた。
 そして軍勢は、諸将の援軍を加えて三万四千まで膨れ上がった。
 そのうち五千は、沼田城に二千をはじめとして、各城の守備兵に充ててある。
 つまり羽生城の先にある、大目標の松山城へ向かうのは二万九千。
 そして出立は翌日、すなわち5月26日と定められたのだった。
 
 羽生城の一室。
 
 宇佐美定龍は『影縫』の頭目である中西弥蔵から報告を聞くと、静かに目を瞑り天を仰いだ。
 
「やはり駄目でしたか……」

 それは光徹、すなわち『関東管領』上杉憲政の出陣が叶わなかった事に対する嘆き。
 実のところ彼は、越後を出た後も何度も憲政に宛てて書状を送り、出陣を促していたのだ。
 しかし一通の返事も彼の元へ届く事はなかった。
 そこで彼は、弥蔵を遣わし、憲政の様子を探らせたという訳だ。
 だがその結果は定龍の予想通りであった。悪い意味で……
 
 上杉憲政は定龍からの書状の封を開ける事もなく、茶の湯や和歌に興じていると言うのだ。
 
 不気味な程に何の抵抗を示さない北条軍。
 そして梃子(てこ)でも動かぬ上杉憲政。
 
 悪い予感が胸騒ぎとなって彼を苦しめる。
 彼はそれを鎮めようと瞑想にふけるが、不安はますます募るばかりであった。
 
 
「こうなれば仕方ありません」


 彼はここに来て一つ方針を変えざるを得ないと直感した。
 そしてその事を総大将である上杉謙信へ告げに急いだのだった。
 
………
……
 同日 夜――
 
 上杉家の重臣たちと、援軍にかけつけた大名たちや彼らの重臣たちも加えた評定が、予定外に開かれた。
 向かうところ敵なしで勝利を重ね続けてきた諸将は、翌日の松山城攻略にも強い自信を持っており、戦勝の前祝いとばかりに多少酒の入っている者もいる。
 そんな気分の良い中に、水を差すような招集に、人々はいぶかしく思っているようで、どこかぎくしゃくした空気が部屋を包んでいた。
 しかしそんな中、最後に上杉謙信が部屋に入ってくると、場の空気はようやく引き締まり、全員が一斉に頭を下げたのだった。
 
 鋭い目つきで全員を見回し、誰一人欠けていない事を確認した謙信。そして隣の定龍に対して小さく頷くと、定龍の口から今回の評定の目的について語られた。
 
 
「突然のお呼び立てにも関わらず、御集りいただきありがとうございます。こたびは今回の遠征について、一つ変更を加えさせていただきたく、それがしから御屋形様へ進言したところ、御屋形様より、皆さまの御意見をうかがった上でお決めになられるとの事で、こうして集まっていただいた次第でございます」


 すらすらと流れるように言葉を重ねる定龍。
 しかし気の早い柿崎景家が大きなだみ声を上げた。
 
 
「ごたくはよい! その変更とやらを早く申せ! 」


 景家の言葉に定龍はきゅっと唇を引き締める。そして腹に力を入れると、重々しい口調で告げた。
 
 
「こたびの最終目標は松山城とし、同城の攻略を持って軍は解散とします!」


 その発表の瞬間に、場が一斉にざわついたのは言うまでもないだろう。
 なぜなら当初の目標は松山城の先にある河越城、そしてさらに先の江戸城まで及んでいたのだから。
 大勝を続ける軍勢の勢いを削ぐような弱気とも取れる定龍の発言に、その場の多くが憤りを覚えた。
 中でも納得がいかないのは、忍城の成田長泰や岩付城の太田資正だ。
 彼らの領土は武蔵国にあり、今回の上杉謙信の遠征に味方したのも、武蔵国における北条氏康の影響力が低下するのを目論んでの事だったからだ。
 もし定龍の提案が採用され、上杉軍が松山城を得ただけで大軍を越後へと引き上げてしまっては、引き続き北条家によって領土を脅かされる事は目に見えている。
 それではここまで兵を率いて味方した意味がなくなってしまう。そう考えれば、成田家や太田家の面々の口からは、怒気に満ちた声だけしか上がらなかったのも当然と言えよう。
 
 
「それは到底受け入れる事は出来ませぬ!」

「ここまで来て弱気になる謂(いわ)れなど全くない! 断固として反対じゃ!」


 彼らが顔を真っ赤にさせて抗議すれば、血の気の多い上杉の重臣たちもまたそれに乗っかり、定龍の意見を真っ向から反対する。
 しかし定龍は彼らの罵声を物ともせずに、腹を決めて強い瞳で人々を見つめ続けていた。
 最終的に決断を下すのは彼らでないのは分かっている。
 だからどんなに周囲が彼の意見に反対しようとも、彼に慌てる理由はなかった。
 
 するとそれまで目を瞑っていた上杉謙信が、ゆっくりとその目を開くと、低い声で定龍に尋ねたのだった。
 
 
「理由を述べよ、定龍」


 謙信だけは場の空気に飲まれる事もなく、定龍の進言に対して吟味する姿勢を見せる。
 それは彼の定龍に対する信頼の証でもあったと言えよう。
 定龍は感謝の気持ちを小さく頭を下げる事で示すと、言葉を選ぶように口を開いた。
 
 
「こたびの戦においては、未だ北条の反撃は小さく、必ずや何か罠を仕掛けて待ちかまえているに違いありません。そこで最大の目標である松山城を攻略した後は、勝って兜の緒を締めるごとく、一度伸びた戦線を整え、松山城に確固たる地盤を整えた後、進軍を再開する事といたすのが上策と思われます」

「つまり敵があまりにも無抵抗であるがゆえに、戦を中断せよ、こう言いたいのか?」


 謙信の言葉に定龍は頷いた。
 
 しかしそれは定龍にとっては肝心な理由を口に出せないでいるもどかしい瞬間でもあった。
 無論その理由とは、上杉憲政が出陣してこない事による影響が思いの外大きすぎるという事だ。
 まがいなりにも将軍足利義輝公から指名された『関東将軍』の称号であったが、今の上杉謙信にはその威光を背負うだけの実績が少なすぎていた。つまり今の上杉謙信には、諸将をまとめるだけの強い求心力がなかったのだ。
 それを示すかのように援軍にかけつけた斎藤、成田、太田、宇都宮といった大名たちは、自国の利ばかりを追い求めているではないか。
 心を一つにして関東の平和を目指しているのは佐野昌綱くらいなものであろう。
 つまり何か小さな綻(ほころ)びが生じただけで、軍勢がばらばらになってしまいそうな危うさを、定龍は身に沁みて感じていたのである。
 
 だがその事は、とてもじゃないが口に出せるはずもない……
 
 なぜならそれは当主である上杉謙信を冒涜するようなものなのだから。
 
 定龍にこれ以上言葉がないと見るや、もう一度目を瞑る上杉謙信。
 
 しばらく重々しい沈黙が場を支配した。
 
 そして……
 
 謙信は一つの決断を下したのだった。
 
 
「こたびの定龍の意見は却下。予定通り、江戸城攻略を最終目標とする」


 と……
 
――ワァァァァァッ!!

 謙信の言葉と共に、部屋が割れんばかりの歓声に包まれる。
 人々の顔は紅潮し、削がれかけた気力はむしろ倍増したかのように、爆発寸前といった所だ。
 そんな中、一人冷静な定龍は人々と謙信の両方を交互に見比べていた。
 そして一つの事を胸に想い浮かべていたのだった。
 
――御屋形様は初めからこうなさるおつもりであったか……

 それは人々の士気を鼓舞させる為に定龍が利用されたという事実。
 しかし定龍は苛立ちや憤りに頭が真っ白にはならなかった。
 むしろ一杯食わされた事に喜びすら覚える。
 
――関東将軍なるお方であれば、これくらい肝が据わっていなくてはなりません

 定龍は口元に笑みを浮かべて謙信の方へちらりと視線を向けたが、謙信は定龍の方を見る事なく、一人で部屋を後にしていったのであった。
 
 
………
……
 謙信が退出した後も、興奮のるつぼにあった評定の間を出た定龍は、真っすぐに自室に戻った。
 そして大きく息を吸い込むと、これからの事を今一度頭に浮かべた。
 
 
――さて…… こうなればもはや御屋形様の御武運をお祈りするしかありません。それともう一つだけ……


 定龍は心に秘めた最後の策を実行する事を決めた。
 その為に『影縫』の弥蔵を自室に呼び、一つ指示を出したのだった。
 
 
………
……
 永禄4年(1561年)5月28日――

 上杉謙信を総大将とした連合軍が松山城を取り囲んでからわずか三日後のこと。
 
――松山城陥落!!

 という速報が謙信と定龍が待機していた本陣にもたらされた。
 それは上杉謙信にとっての大目標である鎮東府の本拠地を得た瞬間であった。

――ウオォォォォォ!!
 
 歓喜に包まれる連合軍。
 しかし謙信は全く気を緩めずに、早くも次の目標である河越城攻略の策を定龍に求めていた。
 そして翌日には連合軍は意気揚々と進軍を再開したのだった――


 
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