守るべきモノ

神崎

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柑橘

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 こんなことをしたいわけじゃなかった。なのにあの時の伊織の顔を見ていると、自然とキスをしていたのだ。そして何も言わずに手を引くと、家に上げていた。
 家に入れたということはどういうことかわかっている。こんな三十代のおばさんに本気になるわけがない。
 甘い言葉で囁かれた。「好きだよ」「ずっと一緒にいて欲しい」と囁かれ有頂天になり、真矢の前からいつの間にか去っていった。この男もきっとそうなのだろう。
 不意に春樹を思いだした。好きだったはずなのに、同居している伊織と何かあれば、伊織が気まずいだろうに。
 好きだとか言っていない。だいたい好きなのかもわからない。今日初めて会った人だ。細くて、どことなく倫子に似ている人。だから惹かれたのだろうか。ワンルームの部屋の中には本が積み重なっていて溢れそうだ。テーブルの上には読みかけの本にしおりを挟んでいる。赤松日向子の恋愛小説だ。伊織が表装を手がけたもので、思わず手に取る。
「コレ……俺が表装したヤツです。」
「……その表装を見て、あなたに頼もうと思いました。」
「え?」
「図書館のイベントのポスター。私が企画をあげたんです。」
「だから今日?」
「えぇ。直接お会いして、ポスター案を伝えたかった。何がしたいのか、何を目的にしているのか、直接あなたに伝えたかったから。」
 それだけだった。なのにこんなところに呼んでしまったのは計算外だった。
 お茶を入れて部屋に戻ると、伊織はソファーではなく床に腰掛けていた。カーペットは敷いてあるが、直接座るのは尻が痛くならないだろうか。
「ソファーの上でもいいんですけど。」
「いいえ。この下って畳ですよね。」
「えぇ。」
「畳が好きなんです。」
 畳の部屋にいたかったから、倫子の家を間借りした。板張りは嫌だ。あの暑い国を思い出すから。
 すると真矢も床に座って、伊織の前にお茶を置く。すると伊織はそれに手を伸ばしてお茶を口に入れる。
「美味しい。」
「地元のお茶なんです。」
「だろうと思いました。春樹さんが持ってきたお茶に似ているから。」
 すると真矢は少しうつむいた。そして伊織の方をみる。
「ごめんなさい。今はその名前を出さないで。」
「……。」
 倫子と真矢の会話を聞いていた。だからここで春樹の名前を口に出すと、きっと春樹のことを思いだして辛くなるだろう。自分だってそうだ。倫子のことを思えば、自分が辛くなる。
「「白夜」。」
 本棚を見ると、そこには倫子の本がある。それはデビュー作の「白夜」だった。
「小泉先生のデビュー作ですね。確かに表現の稚拙さは感じますけど、とても読みやすくて、面白かった。犯人の女性が日の沈まない土地に行って自殺をして物語は終わっています。」
 自分を幼い頃から性的虐待をしていた男たちを次々と殺し、なのに自分を暴こうとした探偵に恋をして、何もかも自白する前に女は自殺をする。それは倫子がきっと自分を重ねて書いたのだと、今は思えた。
「あれ……俺が表装したんです。」
「あなたが?」
「今の会社に入って、泣かず飛ばずだったんです。いつまでも採用されなくてもう無理かなって思ったときに、この仕事が舞い込んできた。倫子は一目見て、俺の表装が良いと言ってくれたと聞いてます。そこからぼちぼちと本の仕事が来るようになって……、今は洋菓子店のポスターとかパッケージも多くなりました。」
「……小泉先生が、きっかけだったんですね。」
 しかし伊織は首を横に振る。
「やめましょう。倫子の話も今はしたくない。」
 きっと今、倫子は春樹といるのか、政近といるのかわからない。自分ではない男と一緒にいるのだ。そう考えるとやるせなくなる。
 真矢はそのときやっと伊織が倫子のことが好きなのだと言うことがわかった。だが倫子がきっと伊織の方を見ることはない。
 そう思うと、真矢は伊織の頬に手を伸ばした。すると伊織はすっと体をよける。
「ご……ごめんなさい。」
 そんなに嫌だったのだろうか。そう思って手を引っ込める。
「いや……冷たかったんで、ちょっとびっくりして。」
「水仕事をしたからですかね。ごめんなさい。」
 すると伊織はその引っ込めた真矢の手を握る。細いがごつごつした手だと思った。そしてそのままその手を伊織は自分の方へ引き寄せる。そしてその手の甲に唇を寄せた。
 短い爪だ。そしてこんな手をよく知っている。倫子の手だった。だが目の前の人は倫子ではない。真矢は少しうつむいたが、そのままイオ地はのぞき込むように真矢に近づいた。そして唇を重ねる。
「ん……。」
 舌を入れると、答えてきた。伊織があまり慣れていないようで、少し意外だと思った。伊織は真矢の後ろ頭を支えて、そして真矢も伊織の首に手を回す。
 何度も唇を重ねて、息を付いた。そしてそのまま体を引き寄せる。
「嫌じゃないですか。こんなおばさんを相手にして。」
「誰がおばさんですか。」
「だって……。」
「俺もすぐ三十代になるんです。気を抜いたら腹が出る年頃になってきたんですから。」
 その言葉に真矢は少し笑った。
「私もお腹に肉が付いてきて。」
「そうなんですか?細く見えるのに。」
「お酒を控えないとと思ってるんですけどね。」
「今日沢山飲んでましたよ。」
「今日くらい。」
「今日くらいって、毎日言ってれば肉も付きますよ。」
 すると真矢の笑い声が聞こえた。そして体を離すと、また唇を重ねる。
「お茶、冷えますね。」
「……せっかく入れてくれたのに。」
「いつでも飲みに来てください。」
 そういって真矢の方から体を離した。すると伊織はじっと真矢の方をみる。
「どうしました?」
「いいえ……あの……。」
 ごまかすのにお茶に手を伸ばす。さっきよりぬるくなっているようだ。
「あぁ……すいません。今日はちょっと……。」
 そうだった。倫子とは違い、真矢は普通の女性できっとピルなんか飲んでないのだ。いつでもセックスが出来るわけではない。
「いいえ。俺の方こそ……あなたの体調とかも考えなくて。」
 すると真矢はあわてたように手を横に振る。そして頬を赤く染めて言う。
「……あの……実は、ゴムとか用意していなくて。」
「ゴム?」
 自分で言って自分で赤くなった。そうだ。一人暮らしの女性の部屋なのだ。コンドームなんか置いていないだろう。
「女性が用意するものなんですか?」
「そんなものじゃないんですか?」
「男が用意するんじゃないんですか。」
 どんな男と付き合っていたのだろう。きっとこの従順さで、男に騙されてきたのだろう。あまり良い恋愛はしていないようだ。
「……今度、俺が用意します。」
 その言葉に真矢の頬がさらに赤くなった。伊織は少し笑うと、また真矢の頬に手を添えて、軽くキスをする。
 この間だけでもお互いが思う人を忘れられればいいと思った。
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