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《272》ワイン
しおりを挟む「ノワ様、いらっしゃいますか?」
しっとりした穏やかな声だ。
ノワは駆け寄り、そっと扉を開いた。
扉の先に、落ち着いたモスキーグリーンの髪が揺れる。
ジョセフは少し目を見開いてから、仕方なさそうに微笑んだ。
「わざわざ扉の前までお出迎えいただき、恐縮です」
「あ」
自分でも無意識のうちに、随分と彼に懐いていたようだ。
恥ずかしくなってノブから手を離す。閉まりかけると、廊下に立ったままの彼が扉を支えた。
「先程、廊下でお姿を拝見しまして···」
一心不乱に逃げ帰っていた時だ。
ノワは益々恥ずかしくなる。
きっと、様子を見に来てくれたのだろう。
ジョセフが扉を超え、部屋に入る。
彼の手にはブルゴーニュ型のワインボトルがあった。
「とっておきの赤ワインをご用意したのですが」
彼の指の間から、魔法のようにグラスが飛び出した。
「宜しければ、少し召し上がりませんか。適度な飲酒は気分が良くなりますよ」
ジョセフは親しげにほくそ笑む。
肩に乗っていた重みが軽くなるみたいだ。
ノワも釣られて微笑んだ。
「ジョセフも一緒に飲みましょう」
「私は·····」
「1人ではつまらないです」
断ろうとしたジョセフに念を押す。彼は困惑したように頬をかき、少しだけですよと目を細めた。
辛口だが、果実の甘みが染み出すようなワインだ。
ノワは芳しい香りを楽しみながら、紫の水晶を少しずつ口に含んだ。
しかし、この身体はアルコールに弱い。一杯でやめておこうと決めていたのだが、その一杯を飲み終えるころには、ノワはほろ酔い状態だった。
ジョセフの微笑みは絵画を思わせるような優雅さだ。
どんな話にも興味深そうに耳を傾け、相槌を打ってくれる。ノワはいつの間にか継ぎ足されているワインを、あと一口、もう一口と、順調に飲み進めていった。
話題は学生時代の話に移り変わっていた。
「───それでは、陛下や閣下とは、学生の頃から仲がよろしかったのですか?」
「え?あはは、いいえ、そんなわけないです」
気分が良い。
ノワは訳もなくニコニコしながら、ジョセフの問いかけに答えた。
「ずっと、遠い存在でした。ずっと····」
ふと口を閉ざす。
死亡フラグを回避するため、命懸けでかけまわり、彼らに取り入った。
怖くて不安なことも、それでも楽しいことも、沢山あった。
あったはずだが、ひとつずつ思い出を辿ると、何かが足りない気がする。
「待ってるんです」
「待ってる?」
ジョセフが聞き返す。
「何をですか?」
答えはノワ自身分からなかった。
何を?
───誰を?
力の入らない指先から、グラスが滑り降ちた。
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