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【第四章】歩み

【第八話】簡単に揺らぐ決意(スキア・談)

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「——っ!」

 突如視界に真っ白な天井が広がった事に驚き、勢いよく体を起こした。今、自分が見ているのが“記憶の夢”なのか現実か、一瞬わからず慌てて周囲を見渡す。
「…… くぅ…… 」
 外から聞こえてくる小鳥の囀り、カーテンの隙間から差し込んできる優しい朝の日差し。すぐ隣で、幸せそうに寝息をたてつつ口の端から涎をこぼして眠っているルスの顔を見てやっと、自分が“記憶の夢”から覚めたのだと自覚した。
 ちょっと大きなシャツを着て、穿いているショートパンツから伸びた細い脚を掛布が捲れて無防備に晒している。
 ほっと息を吐き、ぐっすり眠っているルスを見ていると、夢で見た過去の姿と、今の彼女の姿が重なって瞳に映った。あんなにも見窄らしかった、当時・九歳だった少女が、此処では立派なアイスブルー色をした尻尾を持ち、胸以外はちゃんと育って健康的な体になっている。不健康でくすんでいた肌も、今では白くてとても艶やかだ。
 幸せそうに寝入っている姿がとても眩しい。とてもじゃないが、あんな過去を経験してきた者には到底見えない。

「…… 昨日は、ちょっと弄り過ぎたか?」

 ふっと笑い、顔の方に落ちてきている髪を指でそっとよけてやる。ちょっとだけくすぐったそうに眉を寄せたが、ルスはまたすぐに眠りの中に戻って行った。
「もう…… 離れないと、手放さないと…… なんだよ、な」
 ルスとの契約を切れば、彼女の想像力に頼って構成されたこの体を僕は失う事になる。肉体が無ければこうやってもうルスに触れることは叶わない。ただ近くに居るだけで伝わってくる心地いい体温、触れると手に馴染む柔らかな肌、微かに香る甘い匂い。その全てを…… もう感じられなくなるのかと思うと、即座に顔を顰めてしまった。

 悔しいが、腹が立つが、だけどもう…… 僕には騙し討ちみたいな真似は無理そうだ。

 肉体を持たない性質の僕が、“善性”という猛毒には勝てない事がこの契約で痛い程にわかった。欲に溺れさせるどころか、まずは心を開かせる事で手一杯になり、手も足も出せず、真っ白な魂をドロドロとした欲望で黒く染め上げてやろうとした思惑の一切が叶わなかった。何も手にする事なく育ったせいか、幸せに感じる物事の基準があまりに低過ぎてどうにも出来ないとか、こんなの僕にどうしろというんだ。

 だから僕は、これ以上ルスの側には居られない。素直に負けを認めたからには、また別の憑依対象者を探さねば。そしてもう、善性に満ちた存在に取り憑くのは今後一切止めておこう。今度こそは相応の相手を選ぼう。二度も、こんなにも早く精神を侵されては堪らないからな。
 窓越しに感じる温かな日差しにすら感謝したくなったり、草原の空気が美味しいってだけで心が弾むとか。そんな茶番劇みたいな感覚を味わうのはもうこれで最後だと思うと清々する。

(…… する。してる、うん)

 自分に言い聞かせるみたいな事を考えていると、「んっ」と短く唸りながらルスが目を覚まし、カシス色をした綺麗な瞳をこちらに向けてきた。
「おはよぉ、スキア…… 」
 まだ少しとろんとした目をしながら体を起こし、あくびをしている。
「あぁ、おはよう。よく眠れたか?」
「んー…… うん。でも、夢見は、悪かったかなぁ…… 」
 視線を少し逸らしていて、何だか気まずそうな雰囲気だ。

(——ん?これは…… )

 もしかすると、僕がルスの記憶を夢に見ている時、彼女も同じ夢を見ているのか?今まではそんな様子は無かったが、それ程重たい記憶ではなかったのなら、いくらでも誤魔化せたはずだ。僕よりも先に起きて気持ちを切り替えていたという可能性もある。心に蟠りすらない記憶なら、夢を見た事をも覚えていなかったというパターンもあり得るか。だけど、今日は…… 生まれた世界そのものから逃げたくなった程の出来事が起きた日の記憶では、即座に感情へ蓋をしようがないのかもしれない。

「じゃあそんな日は、美味しい朝食でも食べて忘れるに限るな」

 くしゃっと獣耳ごと頭を撫でると、ルスは「へへっ。そうだね」と珍しく作り物くさい笑顔を浮かべた。辛かろうとも、所詮はもう過去の事だと割り切っていけるといいのだが。
「昨日帰りに買って来たクロワッサンとサラダに…… そうだな、後はコーンスープでも温めるか」
「いいね、お腹空いてきちゃった。卵とウインナーも焼いていい?」
「あぁ。じゃあ、それで決まりだな」

 二人揃ってベッドから降りて着替えを用意する。リアンを起こすのはルスに任せるとして、僕は最後の足掻きを試みる事にした。
「…… そうだ、夫婦になって一ヶ月が経ったから、記念に何か買ってやろうか。欲しい物はないのか?高価な宝石とか、部屋いっぱいの服、だとか。僕個人で貯蓄があるから何でもいいぞ」
「それって、スキアも欲しい物なの?」
「いや、別に」と言い、緩く頭を横に振る。いくらでも好き勝手に盗めるのに、わざわざ金を払って自分用にと買うのも馬鹿馬鹿しい話だ。
「じゃあ私もいらないよ」
「何でだ?置く場所は充分あるのに」

「だって、夫婦になった一ヶ月目の記念品なんでしょう?なら、どっちも欲しい物とかじゃないと。夫婦って、二人で一つみたいなもの何だもんね?ワタシはスキアが傍に居てくれるだけで、寂しくないってだけで充分嬉しいよ」

「…… っ」
 そんなのは理想論だ、とは一蹴出来なかった。純粋に綺麗事を信じ、それを言葉にしてくれている事実がただただ嬉しい。
「特別な品を買わない代わりに、お祝いに分厚いお肉でも買って、ステーキでも焼こうか。でも知らなかったよ、一ヶ月目とかでもお祝いしたりするんだね」
「人によっては、『初めてキスした日』だ『初デートした日』だと、手帳が記念日だらけだって奴もいるらしいぞ」
「お、お祝い事が、よっぽど大好きなんだね。まぁ一緒にイベントを楽しみたいって気持ちはわかるけど」
 ルスが驚いた顔をしている。そんな彼女へ「でも、そういうカップル程、別れるのも早いらしいけどな」と言って、僕達にも迫っている現実を突きつけると、一瞬驚き、「そう、なんだ…… 」と悲しげに呟いた。

「——じゃあ、ワタシ達が前例を塗り替えていけばいいか。そうしたら、みんな気軽に記念日を楽しめるようになるかもね」

 一転、にっと笑うルスの顔が太陽みたいに眩しい。『さっさと離れなければ』と思っていた気持ちが容易く揺らぐ。
 そ、そう言えば、“記憶の夢”の中で勧誘者としてルスをこの世界に連れて来た魔法使いのルートラが気になる事を口にしていたな。まるでこの、復興を目的とした異世界からの移住者計画自体、ルスの為に用意したのものなのでは?と疑いたるなるような、そんな話を。

(…… 僕には時間がたっぷりあるんだ。別に、事の真偽を知ってから離れても遅くはないんじゃ?どうせもう負けは認めているんだから、『堕としてやる』だ『毒されるな』と片意地を張らず、変に焦る必要はもう無いんだしな)

 まだ少し、彼女の傍に居る為の理由を必死に探し出しながら二人並んで着替えを済ませ、尻尾を揺らしながら寝室を出て、リアンを起こしに行ったルスの背を見送る。疑問の解消の為に過去を探りつつ、離れる前にちょっとでも家族としての思い出を残してやろうか——と考えながら僕は、キッチンへ向かい、朝食の用意を始めた。
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