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第2章
13「並縫いとかがり縫い」
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初めての妊娠、出産。初めての子育て。
初めて尽くしのそれは不安と尽きない悩みに満ちたものであり、命を産み育てるということの重責が重く肩にのしかかってくる生活の始まりを告げるものである。
それまでとは違って自分のことだけを考えているわけにはいかなくなるのだから当然だろう。
しかしそれでも夾にとってはやはり楽しみな気持ちが勝るものなのだった。
赤子を迎え入れるための準備では決めることや手配することがいっぱいなのでつい疲れがちだが、実際に我が子がこの空間にいる光景を思い浮かべるだけで新しい生活が待ち遠しくなり、小さな我が子を胸に抱く感覚を早く味わいたくて堪らなくなる。
男性オメガの妊娠期間は女性よりも少し短い8カ月半であるために初めての妊娠では特になるべく早く環境を整える必要があるということで、璇も夾も少しずつ出産後の生活に向けての支度を始めていた。
新生児の世話のために揃えておくべきものは多岐に渡り、通常はそういったものを書き出すだけでも右往左往するものだが、彼らの場合は周りに子育て経験者が多くいたので通常よりも『何をどのように用意すればいいのか』で悩むことはなく、とてもすんなりと必要なもの全ての手配ができる。
赤子用の寝具やちょっとしたおもちゃ、そしてまだまだ使うのは先のことだろうという専用の木製食器などまで。
どれも璇と夾の好みがあるだろうからということで家族達は直接贈るのではなく『手配の代行』という形で手伝ってくれたが、それが彼らの大きな助けになったことは間違いない。
そうして着実に赤子のためのものが増えていく室内。
初夏に妊娠が分かった夾はそうして夏らしさが増していくにつれ、少しずつ変わりゆく家の中の光景にひそかに心躍らせていた。
ーーーーーーー
妊娠初期には重いつわりのためにほぼ一日中臥せっていた夾だが、かかりつけ医の見立て通りやがて徐々に起き上がっていられる時間が増え、当初考えていた家での仕事をもこなせるようになっていった。
眠りつわりとも比較的上手く付き合えるようになってきたことで、彼は時折横になって休みながらも あらかじめ他の荷車整備職人から集めていた整備に関する意見や情報をきちんとまとめ直して技術書の編纂にも使えるようにしてみたり、既存の荷車設計図を元にさらに改良できるよう設計図を引き直してみたりして毎日を有意義に過ごしている。
ほとんど趣味でもあるそうした仕事に没頭できるのは夾にとってはとてもいいことであり、それは結果として気分的にも体力的にも余裕をもたらして彼に他のこともやってみようという気を起こさせた。
きっかけは同じ男のオメガであり子育ての先輩でもある琥珀と交わしていた手紙だ。
彼はそれまで赤子用の寝台や寝具などにばかり気を取られていてすっかり赤子が着る衣については失念していたのだが、琥珀はそんな夾に《赤ちゃんのための衣も贈り物としてもらったりしてるかもしれないけど、多分僕達みたいな男のオメガの赤ちゃん用のは贈られてないよね?》と詳しく教えてくれたのである。
《男のオメガが産む赤ちゃんは女の人が産む赤ちゃんよりも小さいからさ、生まれたばかりの頃は普通の新生児用の衣よりも もう少し小さいのじゃないと合わなかったりするんだ。もちろんちょっと大きいくらいなら構わないんだよ、まだまだ動き回ることはないし、小さい体に合わせても男のオメガの赤ちゃんは生まれてからの2、3か月は特に成長が早くて結局すぐに衣の大きさが合わなくなっちゃうからね。でも僕の時はせっかくなら用意してあげたいなと思って自作したんだ、洗い替えも含めて5、6枚くらい。といっても普通の赤ちゃん用の衣の型紙を少し小さめにしただけだし、小さい分 縫うところはそんなに多くなくて時間もかからず簡単にできるから『自作した』って言うほど大仰なものでもないんだけど…。もし良かったら何枚か作って贈ろうか?作り方に興味があるなら型紙とかも一緒に贈るよ》
そうした内容の手紙を読んだ夾は琥珀が自作したという赤子用の衣がどんなものなのか興味が沸いたのと『簡単にできるから』という一文に惹かれて是非作り方を教えてほしいという返事を書いた。
するとすぐに璇を介して琥珀から見本として手作りされた新しい衣や足に履くものなど一式と型紙、詳しい手順を記した紙、そして赤子の衣に適した布などが届けられたのだった。
布地はふかふかとしているものの、冬の終わり頃に産まれる新生児の体を温めるのには心許ない気がする。しかし、その上から義姉達に贈ってもらった大きめの衣やおくるみを着せればちょうどいいだろうということだたた。
本当は実際に作り方を教えてもらうべきなのだろうが、家に人を呼ぶということに対して少々負担を感じていた夾。琥珀はそんな夾を気遣って《人に会うとどうしても気を遣っちゃったりして気分が落ち着かなくなるんじゃないかな、僕が妊娠中そうだったから分かるんだ。少し体調が良くなってきた今だからこそ気が進まないことはせずにゆったり過ごした方がいいよ、作り方が分からなかったり話し相手が欲しいなと思ったら呼んでね》という旨の手紙を添えてくれていた。
そうした心遣いをありがたく思いながら、夾は早速その夜 きちんと手順を確かめつつ琥珀からもらった型紙を使って何とか生地を切り、縫ってみることにした。
ーーーーーー
「どうだ?仕上がりの方は」
夕食と湯浴みが済んだ夜の穏やかな時間。
洗濯した浴布などを畳みながら進捗を訊ねてくる璇に夾は眉をひそめて唸りながら答える。
「あんまり…琥珀さんが作ったのみたいには…」
「そりゃあ経験の差があるからな」
「でも…手順は簡単で間違いようがないのに…なんだか違うような気がして…」
琥珀はあまり裁縫の経験がないという夾にも分かりやすいようにと手順を書き起こしてくれていて、たしかに“裁断した布を並縫いでまっすぐ縫い合わせるだけ”というこれ以上ないほど簡単な作り方を教えてもらっているはず、なのだが…しかし琥珀が作ったお手本とは違い、夾が縫った部分は直線になるべきところが歪んでいたりしている。
縫い目の大きさが一定ではないことや少し布地が攣れたまま続けて縫ってしまっていることなどが大きな原因だろう。
縫いかけの衣を遠目に見たりしながら確認する夾。
するとそれまでそばの机で洗濯物を畳んでいた璇が「…それ、ちょっと俺もやってみていいか?」と声をかけてきた。
「韶がやってるのを見てたら面白そうだなと思ってさ、少しやってみたくなったんだ」
璇がこうした手仕事に興味を持つのは珍しいことなので、夾は針や糸と共に座っていた席を譲り、代わりに洗濯物を畳むべく隣の机へと移った。
慣れた様子で針に糸を通してまだ縫い合わせられていない部分を一針一針縫っていく璇。
…
どうやらこのアルファは裁縫の才能すらも持ち合わせていたようだ。
手順を確認しながら黙々と手を動かすその様子は傍から見ているだけでもまるで工芸地域の衣を仕立てる職人かのようで、夾は作業の邪魔にならないよう静かに衣を畳みながらその姿を見守る。
やがてそう時も経たないうちに一部分のみならず残りの全てを縫い上げた璇は「一応これで出来上がりみたいだけど、どうかな」と出来上がった衣を見せてきたのだが、それは琥珀が作った手本と同じくらい素晴らしく、本当に申し分ない仕上がりとなっていた。
「すごい…職人が作ったみたいに完璧じゃないですか、丈夫だしそれに何より…綺麗な仕上がりで…」
自分が縫った部分とは明らかに異なる見た目をしている縫い目をまじまじと見る夾。
璇は祖母から裁縫を習っていた(というよりもやらされていた)らしいのだが、もう何年も裁縫はしていなかったという割には今でもいい腕をしている。
時間を掛けてイマイチな仕上がりになってしまう夾と、短時間で美しく仕上げる璇。
どちらの方がいいかは考えるまでもないだろう。
璇も縫い物を苦にしていないようなので、彼はあと3枚ほど仕立てようと思っていたのをすべて璇に任せることにした。
「璇さん、あと3枚ほど縫ってもらえませんか?琥珀さんが5、6枚くらいあった方が良いって言っていたので、この衣と琥珀さんがくれた分とを合わせてあと3枚ほど用意しておきたいんです」
「あぁ、それは良いけど。でも俺がやっちゃっていいのか?韶が作りたかったんじゃないのか」
「いいんですよ、俺は昔からどうしても裁縫だけはこんな調子で上手くいかなくて、こういうのならできるかと思って試してみただけだったんです。それにこういうのは得意な人にやってもらったほうが何事も楽に済むじゃないですか。ほら、璇さんが苦手な衣を畳むのは俺が早く終わらせたでしょう?」
夾が畳み終えたばかりの衣を抱えて見せると璇は肩をすくめる。
「料理でも裁縫でも何でもできるのに どうして衣を畳むのだけは苦手なんですか?こんなのただ全部こうやって同じように幅を見て畳んでいけばいいだけでしょう、不思議な人ですね」
「う…衣だけはな…でも他の浴布とかはきちんと畳めてるだろ?韶はいとも簡単にそうやって綺麗に畳むけど、どういうわけか俺には衣をそうやってきちんとさせるのが難しいんだよ…」
「ははっ、俺にとっての裁縫と同じですね。俺にとっては簡単なことでも璇さんには難しくて、璇さんにとって簡単なことは俺には難しいんです。だからそれぞれ得意なことをして支え合ったらちょうどいいじゃないですか。ね、“夫夫”や“番”ってそういう風に支え合うものでしょう?」
屈託なく笑う夾は手伝うために立ち上がろうとする璇を制止すると、手にしていた洗濯物を棚にしまいに行き、そして妊娠報告をした際に祝いとして家族から贈られていた新生児の身の周りのものに使える柔らかくてとても軽い綿製の反物を何種類か持ってくる。
これらから新たに布地を切り出して衣を仕立てようというのだ。
机の上を軽く片付けてから反物を並べる夾。
色も柄もそれぞれな その反物がどのような衣になるかを考えるのはなかなかに楽しいもので、璇も夾と共に「次はこの生地で作ってみようか」と型紙を当ててみたりしながら考える。
「韶も もう少しやってみるか?俺が教えるよ」
「いえ…俺は璇さんが作ってるところを見てる方が良いです。璇さんがなにか作業をしてるところを見るのが好きなので」
「そうか?まぁ、たしかに今日は結構長いこと設計図を描いたりしてたみたいだからちょっと休んでた方がいいかもしれないな」
夾が寝台の上で壁に寄りかかるようにして足を延ばし座ると、璇は広げた反物に型紙を当て、印をつけていく。
無駄のない流れるようなその手つきによる作業の音を聞きながら、夾は先ほど璇の手によって縫いあげられたばかりの新生児用の衣を広げて眺めた。
夾が手掛けた一部分の縫い目だけが少し曲がっている衣だ。
とてもとても小さい衣である。
まるで飾りもののようなその衣に、夾は「…赤ちゃんって本当にこんなに小さいんですかね?」と首を傾げた。
「いくら生まれたては小さいからといっても、これがぴったり着れる大きさだなんて信じられないです」
「あぁ。それもそうだし、なによりそれを俺達が着せてやるわけだよな?袖に腕を通させたりして。そんなに小さいのを着せるんだから相当慎重にならないとなんだか怖いぞ」
「たしかに…小さい割には体がとても丈夫なんだそうですけど、でも何をするにしても怪我をさせないように注意しないと」
「衣もさ、肌を傷つけないように縫い目がある方を表にして着せるんだよな」
「そうです。普通は縫い目を隠すために裏返しますけど、そうじゃないんですよね」
璇と夾は妊娠経過を診てもらいながら かかりつけ医や助産を担う女性から今後の生活について色々と教わっているのだが、それでもなにしろ新生児の世話などというのは初めてのことなので実際にやってみるまでは はっきりとは分からないことだらけである。
それに新生児、ましてや男性オメガが産んだ赤子などというのは璇も夾も直接見たことがないので、いくら話を聞いても想像がつきづらく、諸々の実感が湧かないのだ。
事実、つわりに苦しめられていた夾をもってしても今のところ一番妊娠しているという実感を得られるのは“家に赤子のための物が着実に増えていっているということ”というほどだった。
「…実は俺、まだお腹に赤ちゃんがいるという実感が湧いてないんです。もちろんつわりとか体調の悪さとかが妊娠してるからだっていうのは分かるんですけど…特にお腹が目立ってきてるわけではないし、他に何かあるわけでもないので」
「たしかお腹が大きくなり始めるのはほとんど臨月になってからだったよな?」
「そうです、男のオメガのお腹は産まれる2ヶ月前ぐらいからやっと少しずつ目立つようになってくるくらいで女性のように大きくなることはないみたいで。…そんな状態で産まれてくるんですからそりゃあ赤ちゃんも小さいわけですよね」
寝間着の上からそっと自身の腹を撫でてみる夾。
だがそこからは割れた腹筋の感触しか感じ取ることができず、中に新たな命がいるとは到底思えない。
「………」
(こんなことをしてみたってまだ何か分かるものでもないものな)と夾が顔を上げると、璇と目が合って、どちらからともなく小さな笑いが湧き上がった。
はっきりと目に見えるような形では分からなくても、夾は今はただ自身の中で新しい小さな命が健康に育ってくれているであろうということを信じるしかないのだ。
ひとしきり穏やかに笑みを交わし合った璇はそれから型紙に沿って布地を切り出し終えた後、端切れの中から大きめのものを集めて形を整える。
琥珀曰く、この端切れも周りをかがり縫いして取っておいて、赤子の沐浴の際など身の回りの世話をするときに利用するのだそうだ。
璇は「かがり縫いだけでもやってみたらどうだ?」と切れ端を指して言う。
「ただほつれてこないように留めるだけだし、それこそすぐできるから」
「でも…俺にもできますかね」
「できるよ、その衣だってきちんと縫えてたんだから。韶は出来が気になるみたいだけど そんな思ってるほどひどくないぞ。心配なら俺が教えるからさ」
璇に励まされた夾は正方形に近い形の端切れを一枚受け取って再び針と糸を手にしてみる。
ときにはこうして2人、他愛もない話をしながら手を動かしてみるのもいいだろう。
それから数日後。
彼らの家の戸棚にはきちんと畳まれた何枚かの柔らかな綿の布地と小さな衣が加わったのだった。
初めて尽くしのそれは不安と尽きない悩みに満ちたものであり、命を産み育てるということの重責が重く肩にのしかかってくる生活の始まりを告げるものである。
それまでとは違って自分のことだけを考えているわけにはいかなくなるのだから当然だろう。
しかしそれでも夾にとってはやはり楽しみな気持ちが勝るものなのだった。
赤子を迎え入れるための準備では決めることや手配することがいっぱいなのでつい疲れがちだが、実際に我が子がこの空間にいる光景を思い浮かべるだけで新しい生活が待ち遠しくなり、小さな我が子を胸に抱く感覚を早く味わいたくて堪らなくなる。
男性オメガの妊娠期間は女性よりも少し短い8カ月半であるために初めての妊娠では特になるべく早く環境を整える必要があるということで、璇も夾も少しずつ出産後の生活に向けての支度を始めていた。
新生児の世話のために揃えておくべきものは多岐に渡り、通常はそういったものを書き出すだけでも右往左往するものだが、彼らの場合は周りに子育て経験者が多くいたので通常よりも『何をどのように用意すればいいのか』で悩むことはなく、とてもすんなりと必要なもの全ての手配ができる。
赤子用の寝具やちょっとしたおもちゃ、そしてまだまだ使うのは先のことだろうという専用の木製食器などまで。
どれも璇と夾の好みがあるだろうからということで家族達は直接贈るのではなく『手配の代行』という形で手伝ってくれたが、それが彼らの大きな助けになったことは間違いない。
そうして着実に赤子のためのものが増えていく室内。
初夏に妊娠が分かった夾はそうして夏らしさが増していくにつれ、少しずつ変わりゆく家の中の光景にひそかに心躍らせていた。
ーーーーーーー
妊娠初期には重いつわりのためにほぼ一日中臥せっていた夾だが、かかりつけ医の見立て通りやがて徐々に起き上がっていられる時間が増え、当初考えていた家での仕事をもこなせるようになっていった。
眠りつわりとも比較的上手く付き合えるようになってきたことで、彼は時折横になって休みながらも あらかじめ他の荷車整備職人から集めていた整備に関する意見や情報をきちんとまとめ直して技術書の編纂にも使えるようにしてみたり、既存の荷車設計図を元にさらに改良できるよう設計図を引き直してみたりして毎日を有意義に過ごしている。
ほとんど趣味でもあるそうした仕事に没頭できるのは夾にとってはとてもいいことであり、それは結果として気分的にも体力的にも余裕をもたらして彼に他のこともやってみようという気を起こさせた。
きっかけは同じ男のオメガであり子育ての先輩でもある琥珀と交わしていた手紙だ。
彼はそれまで赤子用の寝台や寝具などにばかり気を取られていてすっかり赤子が着る衣については失念していたのだが、琥珀はそんな夾に《赤ちゃんのための衣も贈り物としてもらったりしてるかもしれないけど、多分僕達みたいな男のオメガの赤ちゃん用のは贈られてないよね?》と詳しく教えてくれたのである。
《男のオメガが産む赤ちゃんは女の人が産む赤ちゃんよりも小さいからさ、生まれたばかりの頃は普通の新生児用の衣よりも もう少し小さいのじゃないと合わなかったりするんだ。もちろんちょっと大きいくらいなら構わないんだよ、まだまだ動き回ることはないし、小さい体に合わせても男のオメガの赤ちゃんは生まれてからの2、3か月は特に成長が早くて結局すぐに衣の大きさが合わなくなっちゃうからね。でも僕の時はせっかくなら用意してあげたいなと思って自作したんだ、洗い替えも含めて5、6枚くらい。といっても普通の赤ちゃん用の衣の型紙を少し小さめにしただけだし、小さい分 縫うところはそんなに多くなくて時間もかからず簡単にできるから『自作した』って言うほど大仰なものでもないんだけど…。もし良かったら何枚か作って贈ろうか?作り方に興味があるなら型紙とかも一緒に贈るよ》
そうした内容の手紙を読んだ夾は琥珀が自作したという赤子用の衣がどんなものなのか興味が沸いたのと『簡単にできるから』という一文に惹かれて是非作り方を教えてほしいという返事を書いた。
するとすぐに璇を介して琥珀から見本として手作りされた新しい衣や足に履くものなど一式と型紙、詳しい手順を記した紙、そして赤子の衣に適した布などが届けられたのだった。
布地はふかふかとしているものの、冬の終わり頃に産まれる新生児の体を温めるのには心許ない気がする。しかし、その上から義姉達に贈ってもらった大きめの衣やおくるみを着せればちょうどいいだろうということだたた。
本当は実際に作り方を教えてもらうべきなのだろうが、家に人を呼ぶということに対して少々負担を感じていた夾。琥珀はそんな夾を気遣って《人に会うとどうしても気を遣っちゃったりして気分が落ち着かなくなるんじゃないかな、僕が妊娠中そうだったから分かるんだ。少し体調が良くなってきた今だからこそ気が進まないことはせずにゆったり過ごした方がいいよ、作り方が分からなかったり話し相手が欲しいなと思ったら呼んでね》という旨の手紙を添えてくれていた。
そうした心遣いをありがたく思いながら、夾は早速その夜 きちんと手順を確かめつつ琥珀からもらった型紙を使って何とか生地を切り、縫ってみることにした。
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「どうだ?仕上がりの方は」
夕食と湯浴みが済んだ夜の穏やかな時間。
洗濯した浴布などを畳みながら進捗を訊ねてくる璇に夾は眉をひそめて唸りながら答える。
「あんまり…琥珀さんが作ったのみたいには…」
「そりゃあ経験の差があるからな」
「でも…手順は簡単で間違いようがないのに…なんだか違うような気がして…」
琥珀はあまり裁縫の経験がないという夾にも分かりやすいようにと手順を書き起こしてくれていて、たしかに“裁断した布を並縫いでまっすぐ縫い合わせるだけ”というこれ以上ないほど簡単な作り方を教えてもらっているはず、なのだが…しかし琥珀が作ったお手本とは違い、夾が縫った部分は直線になるべきところが歪んでいたりしている。
縫い目の大きさが一定ではないことや少し布地が攣れたまま続けて縫ってしまっていることなどが大きな原因だろう。
縫いかけの衣を遠目に見たりしながら確認する夾。
するとそれまでそばの机で洗濯物を畳んでいた璇が「…それ、ちょっと俺もやってみていいか?」と声をかけてきた。
「韶がやってるのを見てたら面白そうだなと思ってさ、少しやってみたくなったんだ」
璇がこうした手仕事に興味を持つのは珍しいことなので、夾は針や糸と共に座っていた席を譲り、代わりに洗濯物を畳むべく隣の机へと移った。
慣れた様子で針に糸を通してまだ縫い合わせられていない部分を一針一針縫っていく璇。
…
どうやらこのアルファは裁縫の才能すらも持ち合わせていたようだ。
手順を確認しながら黙々と手を動かすその様子は傍から見ているだけでもまるで工芸地域の衣を仕立てる職人かのようで、夾は作業の邪魔にならないよう静かに衣を畳みながらその姿を見守る。
やがてそう時も経たないうちに一部分のみならず残りの全てを縫い上げた璇は「一応これで出来上がりみたいだけど、どうかな」と出来上がった衣を見せてきたのだが、それは琥珀が作った手本と同じくらい素晴らしく、本当に申し分ない仕上がりとなっていた。
「すごい…職人が作ったみたいに完璧じゃないですか、丈夫だしそれに何より…綺麗な仕上がりで…」
自分が縫った部分とは明らかに異なる見た目をしている縫い目をまじまじと見る夾。
璇は祖母から裁縫を習っていた(というよりもやらされていた)らしいのだが、もう何年も裁縫はしていなかったという割には今でもいい腕をしている。
時間を掛けてイマイチな仕上がりになってしまう夾と、短時間で美しく仕上げる璇。
どちらの方がいいかは考えるまでもないだろう。
璇も縫い物を苦にしていないようなので、彼はあと3枚ほど仕立てようと思っていたのをすべて璇に任せることにした。
「璇さん、あと3枚ほど縫ってもらえませんか?琥珀さんが5、6枚くらいあった方が良いって言っていたので、この衣と琥珀さんがくれた分とを合わせてあと3枚ほど用意しておきたいんです」
「あぁ、それは良いけど。でも俺がやっちゃっていいのか?韶が作りたかったんじゃないのか」
「いいんですよ、俺は昔からどうしても裁縫だけはこんな調子で上手くいかなくて、こういうのならできるかと思って試してみただけだったんです。それにこういうのは得意な人にやってもらったほうが何事も楽に済むじゃないですか。ほら、璇さんが苦手な衣を畳むのは俺が早く終わらせたでしょう?」
夾が畳み終えたばかりの衣を抱えて見せると璇は肩をすくめる。
「料理でも裁縫でも何でもできるのに どうして衣を畳むのだけは苦手なんですか?こんなのただ全部こうやって同じように幅を見て畳んでいけばいいだけでしょう、不思議な人ですね」
「う…衣だけはな…でも他の浴布とかはきちんと畳めてるだろ?韶はいとも簡単にそうやって綺麗に畳むけど、どういうわけか俺には衣をそうやってきちんとさせるのが難しいんだよ…」
「ははっ、俺にとっての裁縫と同じですね。俺にとっては簡単なことでも璇さんには難しくて、璇さんにとって簡単なことは俺には難しいんです。だからそれぞれ得意なことをして支え合ったらちょうどいいじゃないですか。ね、“夫夫”や“番”ってそういう風に支え合うものでしょう?」
屈託なく笑う夾は手伝うために立ち上がろうとする璇を制止すると、手にしていた洗濯物を棚にしまいに行き、そして妊娠報告をした際に祝いとして家族から贈られていた新生児の身の周りのものに使える柔らかくてとても軽い綿製の反物を何種類か持ってくる。
これらから新たに布地を切り出して衣を仕立てようというのだ。
机の上を軽く片付けてから反物を並べる夾。
色も柄もそれぞれな その反物がどのような衣になるかを考えるのはなかなかに楽しいもので、璇も夾と共に「次はこの生地で作ってみようか」と型紙を当ててみたりしながら考える。
「韶も もう少しやってみるか?俺が教えるよ」
「いえ…俺は璇さんが作ってるところを見てる方が良いです。璇さんがなにか作業をしてるところを見るのが好きなので」
「そうか?まぁ、たしかに今日は結構長いこと設計図を描いたりしてたみたいだからちょっと休んでた方がいいかもしれないな」
夾が寝台の上で壁に寄りかかるようにして足を延ばし座ると、璇は広げた反物に型紙を当て、印をつけていく。
無駄のない流れるようなその手つきによる作業の音を聞きながら、夾は先ほど璇の手によって縫いあげられたばかりの新生児用の衣を広げて眺めた。
夾が手掛けた一部分の縫い目だけが少し曲がっている衣だ。
とてもとても小さい衣である。
まるで飾りもののようなその衣に、夾は「…赤ちゃんって本当にこんなに小さいんですかね?」と首を傾げた。
「いくら生まれたては小さいからといっても、これがぴったり着れる大きさだなんて信じられないです」
「あぁ。それもそうだし、なによりそれを俺達が着せてやるわけだよな?袖に腕を通させたりして。そんなに小さいのを着せるんだから相当慎重にならないとなんだか怖いぞ」
「たしかに…小さい割には体がとても丈夫なんだそうですけど、でも何をするにしても怪我をさせないように注意しないと」
「衣もさ、肌を傷つけないように縫い目がある方を表にして着せるんだよな」
「そうです。普通は縫い目を隠すために裏返しますけど、そうじゃないんですよね」
璇と夾は妊娠経過を診てもらいながら かかりつけ医や助産を担う女性から今後の生活について色々と教わっているのだが、それでもなにしろ新生児の世話などというのは初めてのことなので実際にやってみるまでは はっきりとは分からないことだらけである。
それに新生児、ましてや男性オメガが産んだ赤子などというのは璇も夾も直接見たことがないので、いくら話を聞いても想像がつきづらく、諸々の実感が湧かないのだ。
事実、つわりに苦しめられていた夾をもってしても今のところ一番妊娠しているという実感を得られるのは“家に赤子のための物が着実に増えていっているということ”というほどだった。
「…実は俺、まだお腹に赤ちゃんがいるという実感が湧いてないんです。もちろんつわりとか体調の悪さとかが妊娠してるからだっていうのは分かるんですけど…特にお腹が目立ってきてるわけではないし、他に何かあるわけでもないので」
「たしかお腹が大きくなり始めるのはほとんど臨月になってからだったよな?」
「そうです、男のオメガのお腹は産まれる2ヶ月前ぐらいからやっと少しずつ目立つようになってくるくらいで女性のように大きくなることはないみたいで。…そんな状態で産まれてくるんですからそりゃあ赤ちゃんも小さいわけですよね」
寝間着の上からそっと自身の腹を撫でてみる夾。
だがそこからは割れた腹筋の感触しか感じ取ることができず、中に新たな命がいるとは到底思えない。
「………」
(こんなことをしてみたってまだ何か分かるものでもないものな)と夾が顔を上げると、璇と目が合って、どちらからともなく小さな笑いが湧き上がった。
はっきりと目に見えるような形では分からなくても、夾は今はただ自身の中で新しい小さな命が健康に育ってくれているであろうということを信じるしかないのだ。
ひとしきり穏やかに笑みを交わし合った璇はそれから型紙に沿って布地を切り出し終えた後、端切れの中から大きめのものを集めて形を整える。
琥珀曰く、この端切れも周りをかがり縫いして取っておいて、赤子の沐浴の際など身の回りの世話をするときに利用するのだそうだ。
璇は「かがり縫いだけでもやってみたらどうだ?」と切れ端を指して言う。
「ただほつれてこないように留めるだけだし、それこそすぐできるから」
「でも…俺にもできますかね」
「できるよ、その衣だってきちんと縫えてたんだから。韶は出来が気になるみたいだけど そんな思ってるほどひどくないぞ。心配なら俺が教えるからさ」
璇に励まされた夾は正方形に近い形の端切れを一枚受け取って再び針と糸を手にしてみる。
ときにはこうして2人、他愛もない話をしながら手を動かしてみるのもいいだろう。
それから数日後。
彼らの家の戸棚にはきちんと畳まれた何枚かの柔らかな綿の布地と小さな衣が加わったのだった。
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