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番外編4

6 のろけ話

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 社長室にある応接セットのソファに掛け、顧問弁護士の水野は項垂れた。

「……終わった……」

 ネクタイをゆるめる。
 午後九時。
 つかれた。
 普段はまだ仕事をしている時間ではある。夜はいつも起案である。書面を相手にするほうが、人間を相手にするよりもはるかに楽である。
 人間は疲れる。

「すみません、先生」

 ルイスは向かい側のソファに掛け、新しく社長秘書業務につくことになった三十代の女性秘書に、アイスコーヒーを依頼する。
 彼女が出ていくのを見届けて、水野はもう一度ため息を吐いた。

「ソフトランディングできてよかったですねー……」
「先生のおかげです。ありがとうございました」

 今朝、ルイスは水野の所属する法律事務所に電話をした。
 情報漏洩があり、第一の秘書を辞めさせたいこと、すでに退職勧奨をしていること、内容的に懲戒処分は不可能であることだ。
 通常、どんな情報の漏洩があったのかを確認したり、どの程度の損害だったのか、損害との因果関係があるのか、証拠はあるのかなど、根掘り葉掘り聞くところであるが、水野は聞かないことにした。
 訴訟案件がなく、日常のリーガルチェックも法務部でやっていて、普段は保険的な意味で顧問料を払っているだけの会社である。
 それらすべて、この裏方社長の采配でおこなっていることを水野は知っている。
 結論だけを言う依頼者は要注意だと水野は考えている。
 だが、まあこの人ならば、言いたくないなら今は言わなくてもいい。個人のプライバシー侵害の損害賠償は請求しないらしいし。まあ、請求したいと言い出したら止めるが。

「急だったのに対応していただいて」
「いえいえ。こういうことは早いほうがいいですから」

 電話をもらってスケジュールを確認し、ちょうど夕方の時間が空いていたので、急いで会社に来て、南に誓約書を書かせた。配置転換についても念のため同意を得ておいたほうがいいと考えて本人と話し合い、同意を得た。
 問題は受け皿だ。
 しかし他の役員からも嫌がられ、最終的に、ルイスはエマに泣きついた。そのエマですらも嫌がっていたが、なんとか頼み込んだのである。辞令を出して配置転換させた。そろそろエマに対する借りが多くなりすぎていることを、ルイスは悩んでいるらしい。
 水野はルイスをこっそり見る。
 持ち前の社交性を活かして外交全振りのエマ社長と、裏方の全てを引き受けるスパコンのような事務処理能力のルイス社長。まったく異なる性質の、そっくりな外国人姉弟で、二人とも恐ろしく容姿端麗で華やかである。
 とはいえ、さすがに疲れが滲んでいる。寝ていないのだろう。
 どうやらごく個人的なことを流出されたらしい。
 やめさせたいルイスの気持ちは水野にもわかる。自分だって秘書に個人的なことをバラされたら、それがたとえ「足が臭い」であったとしても夜も眠れない。
 そんな秘書、誰も受け入れたくないのもわかる。パートナーの弁護士たちにお願いしても、誰も受け入れてくれないだろうし、もし自分が持ちかけられた側でも断る。貸しを作っておきたい筋であれば検討するかもしれないが。
 南は嫌がることなく、エマ付きになった。本人にも、何らかの後ろめたさがあったようだ。
 何をバラされたのかは特定しない方向で滞りなく済んでいる。本来ならば見通しを立てるためにも内容を知っておくべきところだが、すべてが済んだ以上、もう聞く必要もないだろう。
 なにせ、当事者は双方ともに言いたくないのである。軟着陸な解決に至ったのも、内容のせいだろう。おそらく、知らないほうが幸せであるたぐいの情報だと睨んでいる。水野は勘がよく当たる。
 ルイスは言った。

「先生、お食事はいかがでしょうか。宜しければ、出前でも。実は他にも相談したいことが……もう遅いので、今日ではなくてもいいのですが。お寿司はいかがですか」
「あ、はい。じゃ、お言葉に甘えて……」

 アイスコーヒーを二つ持ってきた秘書に、今度は寿司を頼む。
 出て行ってから、水野は訊ねた。

「会社絡みではないですよね。会社との利益相反はないですね」
「ありません。ごく個人的なことです」

 ルイスは今春に、取締役解任の議案で株主と揉めている。
 その話をエマに聞かされた水野は、ルイスと争う可能性を考えて、嫌だなーと思った。不当解任に当たる可能性がある。負け筋の事件は気が重い。
 任期満了までの役員報酬全額支払いの約束を取りつけて、それを梃子に総会直前までにルイスに辞任届を書いてもらえたらいいな、と思って水面下で動いていた。
 しかし、その件は、前日に総会中止決定という形で終わった。
 どうやって事をおさめたのかはわからないが、ルイスは今も代表取締役を続けている。そうはいっても、いつだって相手方になる可能性がある人物だと水野は警戒している。
 行動や仕事ぶりを見ていると、さほど悪い人間のようには見えないというか、厳しすぎるほど厳しい、潔癖のように見える。問題行動を起こしそうにはない。
 水野は個人的に、こういう依頼者や相手方がもっとも苦手である。信念をもって全力で立ち向かってくる者なんか、心底嫌だ。悪人のほうが、悪事を自覚している分、楽である。
 ルイスは言った。

「具体的には、僕個人の相続に関することです」
「ん? お父様や、親会社絡みですか?」
「あー、株は持っていますが。いえ、僕が死んだあとのことです」

 それを聞いてしまうと、水野としては別の心配になってくる。

「え、ルイス社長。健康にご不安でも?」

 見た目は元気そうに見えるし、血色もいい。最近少し太ったのではなかろうか。
 もともと生命力に満ち溢れている風貌の人物だ。ベクトルは違うが、姉弟揃ってエネルギッシュに見える。

「いえ、健康です」
「おいくつでした? ルイス社長」
「三十四歳です」
「私よりお若い」
「ええと、先生は」
「四十歳です。エマ社長と同じ」
「なるほど」
「いや、実は当職、早めに遺言書を書いておけ、そして速やかに公正証書にしておけ委員会の委員長なんですよ。そろそろ認知症になりそうなタイミングなんて見計らえませんし、認知症になってからじゃ遅いし、死んでからじゃ後の祭りでしょう。って、依頼者には普段は言うんですけど。さすがに三十四歳は、時期尚早では?」

 命でも狙われているのだろうか。

「アメリカにはプロベートの問題があるので、アメリカの財産はトラストを検討していまして」

 ルイスは言った。
 プロベートとは、アメリカの遺産分割の手続きのことだ。アメリカにある遺産は、かならず裁判所にて手続きをしなければ、相続できない。
 プロベートの大きな問題のひとつは、時間がかかることだ。

「トラスト。あー、生前信託ですか。面倒なプロベートを省けたり、節税対策になるとかいう。詳しくないんですが」
「そうです。若死にした実母のプロベートに三年かかったそうです」
「ルイス社長じゃ、十年経っても終わらなさそうですねえ」
「それ、笑えません……」
「まあ、プロベートは面倒って聞きますよね。日本人には。現地の感覚でも面倒なんですか。私、わからなくて。あれ? でもアメリカってファミリーロイヤーがいるのでは?」

 ファミリーロイヤーとは、かかりつけ医の弁護士版のことだ。ご家庭のかかりつけ弁護士ということである。
 なぜそちらに頼まないのだろうか。アメリカは州によって法律が異なる。顔見知りで州法に詳しいファミリーロイヤーに相談するのが自然なのに。それに、彼であれば、他にもアメリカでの伝手はあるだろう。
 この会社はたしか、渉外系の事務所も顧問になっている。資格を持っている人も当然いる。なぜ自分に、と水野は思う。自分はありふれた町弁である。

「父に知られたくないんです」

 ルイスはきっぱり言った。水野に相談したことの肝である。年齢が近い水野はルイスにとって相談しやすい。
 そこにトラブルのにおいがして、水野は警戒する。水野は嗅覚が鋭い。
 ルイスは目を伏せる。

「……日本に婚約者がいるんです。まだ結婚できません。英語も話せませんし、頼れる人もいません。残念ながら学力も高くない。ある能力が傑出していて、地頭もいいんですが。とにかく、僕に万一があった場合に備えて、生活保障をしたいんです。ただし、面倒事に巻き込まれないようにしてあげたいんです。とにかく心配で、それで取り急ぎトラストを。他の国の資産もあるので、全体の見通しを立てる必要があり……税金の問題はありますがPODも組み合わせて……」

 ぶつぶつ言っている。どうすれば一番いいのか、色々考えているらしい。
 物憂げなルイスの表情に、水野は意外で驚いた。こんな脆い一面があったのか。左手の薬指にはめた指輪の恋人の噂は、監査役に聞いている。人工知能だと。
 水野は言った。

「わかりました。じゃあ、近々、資格のある知人を紹介します。私は贈与契約書を作りますよ。事務所に戻ったら、メールで、契約書作成手数料のお見積りを送りますんで」

 何も考えなくても、他人ならば、生きているうちに贈与しておけばいいのである。あとは税金の問題だ。それは税理士と検討することで、自分の仕事ではない。

「先生は商売人ですね」

 ルイスは苦笑した。
 この人、こんな風に笑ったりするんだ、と水野は思った。
 こんな冷静そうな氷の王様を溶かしたなんて、いったいどんな傾国の美女だというのだろう。
 南が知って、どこかに暴露して、ルイスが切れて、父が反対というのならば、解任の件も南の件も、その婚約者が原因に違いあるまい。
 父親に内緒で生前信託するというのだから、ルイスは本気である。
 有名女優か。実業家と結婚する女優はよくいる。
 政治関係だろうか。ありえない話ではない。
 まさか禁断系だろうか。まだ結婚できない、とは。未成年、人妻、反社。他に何があるかな。
 姉妹。いくらなんでもエマはなかろう。英語が話せるし頭がキレる。考えたくもない。彼の半血の妹は確か全員海外だ。日本にいない。
 AI、犬、猫。ペットは可愛いので財産を遺したくなる気持ちはわかる。反対する父の気持ちもわかる。
 競合他社の社長令嬢。よし、本命馬だ。ロミオとジュリエット。対抗馬は、女優……いや、人工知能かな。

「あとは受け取り側の説得ですね……」
「ん?」
「僕が何か渡そうとすると、きっと断られるので。話をつけておきます」

 莫大な財産だろうに、受け取らないとは。ややこしい性格なのか、プレゼント攻勢のきかない相手なのか。プレゼントのレベルを超えていて、争奪戦による殺人事件が起きそうなものだが。
 自分がその立場なら今すぐにもらっておく。遺漏なく契約書をまいて、すぐに履行する。ひ孫の代まで遊んで暮らせそうだ。
 海外では、万一離婚したときのために特有財産を守るべく、婚前契約書を交わすという話もよく聞く中、真逆の方向性である。

「…………ご執心ですね、社長」
「ふふ。可愛いんですよ」

 ルイスの柔らかい表情を見て、極力かかわりあいになりたくないな、と水野は思うのだった。ルイスらしくない。人が変わったようだ。
 あまり聞いてしまうと、今後ものろけ話を聞かされるかもしれない。早いところ寿司を食べて退散しなくてはならない。



 <番外編4 のろけ話 終わり。他の話に続く>
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