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伯爵 1
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薄暗い部屋に取り残された僕は、もはや立ち上がる気力もなくただ次に来る躾を待った。背中に感じる湿った視線からも、これで終わりでは済まないことが分かる。
ギ、とスプリングが軋む。ジル伯爵がソファから立ち上がった音だ。
「さて…」
「………」
観覧席からゆっくりと大股でこちらにやって来た男が僕の真後ろで歩を止める。
できれば、もうあまり痛くしないでほしい。決定権がこちらにないことは重々承知だが、叶うことならこのまま捨て置いてほしかった。けれど同時に、きっとこの願いは聞き入れてはもらえないだろうと結論付けながら僕は諦念まじりの目線を男に向けた。
見下ろすジル伯爵と目が合う。
(足なっが)
思っていたよりも上背のあった伯爵は跪くように長身をかがめた。遠目でも感じていたがやはり顔は良い。凛々しい眉に甘いマスク。社交界では花達が放っておかないだろう。瞳の色だけはベルフェリオと同じ空色で、母親もそこだけは同じ色だったんだろうかとぼんやり思った。
「失礼」
足と首の下に手が差し込まれる。一瞬公爵に首を絞められていた感触を思い出して身体が強張った。
「…大丈夫。けれど怪我をしたら大変だ、大人しくしていて」
心地の良いテノール。安心させるような静かな声に力が抜ける。身体が浮く感覚。僕は伯爵に抱え上げられたらしかった。遠くなった地面に小さな染みを見つける。
(僕の汗と涙と…よだれと鼻水が…絨毯ってどう汚れを落とすんだろ…そのうち乾くだろうけど、掃除の人には申し訳ないな)
歩き出した振動に合わせて両足がぷらぷら揺れる。キャパオーバーと気疲れで働かない脳みそが変なことを心配した。
ぽすん、と存外優しい所作で降ろされたのは先程まで伯爵が座っていたソファだ。人が鞭で打たれている様をオカズにしていた人間とは思えない紳士ぶりに戸惑ってしまう。
「公爵の手前、下手に庇うこともできず悪かったね」
眉を下げて陳謝する伯爵にベルフェリオは目を瞬かせる。長いまつげに縁取られた美丈夫の苦悶の表情は、それだけで一枚の絵画のようだった。
もしかしたら、この人も兄や主治医の先生のように現状を憂いてくれているのかもしれない。ジル伯爵にとっては妹の旦那といえど公爵と伯爵、あまりに家格が離れていれば対等な関係は築けないものだ。
「ベルフェリオ…いや、」
僕のために気狂いの変態を演じた彼に嫌悪感を抱くなんて、悪いことをした。全ては話せずとも、せめて詫びを入れ
「女王様」
「なんて?」
「え?」
音を立てるほどの勢いで、目の前の長身が顔を上げる。驚きに見開かれた先には、同じ色の僕が映っている。声を出してしまったことよりも耳慣れない単語に頭が追いつかなかった。
「っ女王様、声が戻ったのかい…?!」
「何???」
女王様、女王様。
世間では甥をそう呼称するんだったか。
感極まった様子で瞳に膜を張った伯爵に冷静な切り返しなんてもうできなかった。
「あ、の…ジル伯父様?」
「な!ジル、伯父様…?!………く、っ」
「え?な、大丈夫ですか?」
うめき声とともに膝をついて崩れた伯父に慌てて声をかける。僕の貧弱な体と比べれば巨躯とも言える体格の推定四十代男性が、身体を丸めて小さく震えていた。
意味不明な単語のことはひとまず置いておいて、屈んで伺うと伯爵が顔を赤くして短く息を吐いている。持病や発作だろうか、一般的なサラリーマンだった自分にはこういった時にすぐ対処できる知識がないのが悔やまれる。普通異世界に行ったらなにかしらチートが付くものだろう、と会ったこともない神に毒づいた。
それでも部屋に僕と伯爵しかいない状況では、この場は僕がなんとかするしかないと拳を握る。
そっと覗き込むと、うるんだイケオジもこちらを見返してきた。赤い目元がやけに色っぽくてどきりとする。
「水、持ってきましょうか?すぐに助けを呼んで、」
「いや、…その必要はないよ。その…」
恥ずかしそうに口ごもる伯爵に、耳を寄せる。
「…名前を呼ばれて、興奮して粗相をしてしまったんだ」
「……は?」
「嬉ション、というやつだね」
「ア?」
握りしめた決意の拳を、伯爵のやたら熱い手のひらが包む。
「ふふ。その冷たい目も、すごくイイ」
咄嗟に手が出た僕は、悪くないと思う。
ギ、とスプリングが軋む。ジル伯爵がソファから立ち上がった音だ。
「さて…」
「………」
観覧席からゆっくりと大股でこちらにやって来た男が僕の真後ろで歩を止める。
できれば、もうあまり痛くしないでほしい。決定権がこちらにないことは重々承知だが、叶うことならこのまま捨て置いてほしかった。けれど同時に、きっとこの願いは聞き入れてはもらえないだろうと結論付けながら僕は諦念まじりの目線を男に向けた。
見下ろすジル伯爵と目が合う。
(足なっが)
思っていたよりも上背のあった伯爵は跪くように長身をかがめた。遠目でも感じていたがやはり顔は良い。凛々しい眉に甘いマスク。社交界では花達が放っておかないだろう。瞳の色だけはベルフェリオと同じ空色で、母親もそこだけは同じ色だったんだろうかとぼんやり思った。
「失礼」
足と首の下に手が差し込まれる。一瞬公爵に首を絞められていた感触を思い出して身体が強張った。
「…大丈夫。けれど怪我をしたら大変だ、大人しくしていて」
心地の良いテノール。安心させるような静かな声に力が抜ける。身体が浮く感覚。僕は伯爵に抱え上げられたらしかった。遠くなった地面に小さな染みを見つける。
(僕の汗と涙と…よだれと鼻水が…絨毯ってどう汚れを落とすんだろ…そのうち乾くだろうけど、掃除の人には申し訳ないな)
歩き出した振動に合わせて両足がぷらぷら揺れる。キャパオーバーと気疲れで働かない脳みそが変なことを心配した。
ぽすん、と存外優しい所作で降ろされたのは先程まで伯爵が座っていたソファだ。人が鞭で打たれている様をオカズにしていた人間とは思えない紳士ぶりに戸惑ってしまう。
「公爵の手前、下手に庇うこともできず悪かったね」
眉を下げて陳謝する伯爵にベルフェリオは目を瞬かせる。長いまつげに縁取られた美丈夫の苦悶の表情は、それだけで一枚の絵画のようだった。
もしかしたら、この人も兄や主治医の先生のように現状を憂いてくれているのかもしれない。ジル伯爵にとっては妹の旦那といえど公爵と伯爵、あまりに家格が離れていれば対等な関係は築けないものだ。
「ベルフェリオ…いや、」
僕のために気狂いの変態を演じた彼に嫌悪感を抱くなんて、悪いことをした。全ては話せずとも、せめて詫びを入れ
「女王様」
「なんて?」
「え?」
音を立てるほどの勢いで、目の前の長身が顔を上げる。驚きに見開かれた先には、同じ色の僕が映っている。声を出してしまったことよりも耳慣れない単語に頭が追いつかなかった。
「っ女王様、声が戻ったのかい…?!」
「何???」
女王様、女王様。
世間では甥をそう呼称するんだったか。
感極まった様子で瞳に膜を張った伯爵に冷静な切り返しなんてもうできなかった。
「あ、の…ジル伯父様?」
「な!ジル、伯父様…?!………く、っ」
「え?な、大丈夫ですか?」
うめき声とともに膝をついて崩れた伯父に慌てて声をかける。僕の貧弱な体と比べれば巨躯とも言える体格の推定四十代男性が、身体を丸めて小さく震えていた。
意味不明な単語のことはひとまず置いておいて、屈んで伺うと伯爵が顔を赤くして短く息を吐いている。持病や発作だろうか、一般的なサラリーマンだった自分にはこういった時にすぐ対処できる知識がないのが悔やまれる。普通異世界に行ったらなにかしらチートが付くものだろう、と会ったこともない神に毒づいた。
それでも部屋に僕と伯爵しかいない状況では、この場は僕がなんとかするしかないと拳を握る。
そっと覗き込むと、うるんだイケオジもこちらを見返してきた。赤い目元がやけに色っぽくてどきりとする。
「水、持ってきましょうか?すぐに助けを呼んで、」
「いや、…その必要はないよ。その…」
恥ずかしそうに口ごもる伯爵に、耳を寄せる。
「…名前を呼ばれて、興奮して粗相をしてしまったんだ」
「……は?」
「嬉ション、というやつだね」
「ア?」
握りしめた決意の拳を、伯爵のやたら熱い手のひらが包む。
「ふふ。その冷たい目も、すごくイイ」
咄嗟に手が出た僕は、悪くないと思う。
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