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夏季休暇

フリュクティドール③・家名を書け

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「や、やっと終わりました……」
「お疲れ様です。お水はいかがでしょうか?」
「すみませんカトリーヌさん。手間をかけさせちゃいまして……」
「いいえ、これぐらいでしたらお安いご用です」

 社会科見学の気分で行ったらがっつりと書記やらされた。

 旦那様に捕まってから複数の会議を渡り歩いた。正直会議を終えてから要点をまとめていくやり方だと全然間に合わないから、会議後半ぐらいから自分の中で審議内容を整理して筆記具を紙に走らせまくるようにした。会議が終わったら提出する勢いで、清書なんてする暇ありません。
 正直そのうち文官になるんだって意気込んで字を綺麗に書くよう幼い頃から心がけていて助かった。走り書きでもそれなりに見栄えがする議事録になったもの。と言うか蛇がのたくったみたいな汚い字だった私からすれば感激物な美しさなんだけれど。

 立法府の議事録は作成者と審査者と承認者のサインをする決まりらしい。さすがに学園生の私が担当者としてサインするのはどうよと思ったのだけれど、アントン様曰く「自分で作った書類に責任を持てないのかって言われます」だそうだ。一介の使用人には荷が重すぎる。

 旦那様が参加される会議を全て消化した頃にはとっくに日が沈んでいた。会議の会議を終えて会議室を出た頃にはもう疲労困憊。とは言えわたしは旦那様に雇われて奉公する身。アントン様もいらっしゃるので疲れを表に出すわけにはいかなかった。

「凄いですねカトリーヌさんは……。僕なんて最後の方は内容が全然頭の中に入っていかなくて」
「気を楽にして参加した方がいいですよ。発表とか報告する当事者じゃあないんですし」
「でも今日が初めてだったんですよね? お父さんと一緒に王国を支える人達ばかりだったのに落ち着いていましたし」
「そうは言いましてもわたしはただ単にどなたがどれほど重要なのか分からなかっただけです」

 ソファーでぐったりなさっているアントン様の隣でわたしはこれまでの議事録を見直しつつ誤字脱字や内容の誤りが無いかを確認していく。アントン様はわたしを褒めてくるけれど、正直言っちゃうと単に一刻も早く逃げ出したいだけです。

 で、見直しが終わった所で丁度良く旦那様がこちらに向けて歩み寄ってきた。威厳を絵に描いたような佇まいなものだから恐縮してしまう。アントン様もあふれ出ていた疲れを押し込めて背筋を正した。ただその面持ちには疲労と緊張がうかがえる。

「それでカトリーヌ。今日の会議の議事録は?」
「作成は終わっております。どなたに提出すればよろしいでしょうか?」
「私が一旦預かろう。然るべき者に確認させる」
「ではこちらになります。ご確認よろしくお願いいたします」

 わたしは今日の成果をまとめて旦那様に提出する。そのまま持ち去るかと思いきや、何故か職員でもない学生が作った似非議事録に国の法を司る長が直々に読み始めた。一枚、一枚と捲っていき、旦那様は表情を次第に曇らせていく。

 いや、言っておきますけれど私がいくら社会人を経験しているからって今のわたしは酒場の店員とか配達員とかのバイト的な仕事しかしていませんからね? いきなり国の政に放り込まれてご満足いただける書類を作れなんて無理ゲーですって。……と、言い訳したい。

 ところが旦那様はわたしの作成した議事録をわたしの前に突き返し、指でわたしのサインを指し示した。私世界で言う筆記体のような流れる文字でわたしの名である『カトリーヌ』と記載されている。はて、全部手書きなのにどうしてわたしの名前だけに文句があるのかしら?

「何故家名を書かないのだ?」
「家名ですか? いえ、わたしは家名を持っておりません」

 私世界でも一般庶民まで苗字を持つようになったのは近代に入ってから。貴族のように由緒正しい家系だったり大成功を収めた商人だったりは家名を持っているけれど、貧民街出身のわたしは名前のみ。つまりわたしは正真正銘ただのカトリーヌでしかない。

 と言うかオルレアン家に雇われる際に書面にサインした時だって自分の名前だけしか書いていないのに何を今更? まさかジャンヌやマダム・マヌエラの判断を信じて事務的に流し読みしただけだったりしませんよね?

「あー、オタクさ。三権府の正式文書って自分の本名を全て略さずに書くものなんだ。つまり自分の名前と家名に誓って仕事を全うしました、みたいな」
「そうは言われましてもわたしにはこれ以上書きようがありません。称号や冠位を授かったわけでもないですし」

 不思議に思っていたら横からラウールさんがフォローしてきた。成程、万が一粗相をしでかしたら個人的な責任ばかりじゃあなくて実家まで迷惑がかかるって訳か。となると更に仕事に対して真剣に取り組む……って抑止を狙ったんじゃあなくて、王国の政にとって極めて重大だからか。

 とは言え何某のカトリーヌ、みたいな格好いい異名みたいなものも無い。やはりただのカトリーヌでしかないわたしに書けるのはここまでだ。知っていたら旦那様に言われるがままに議事録を作成するなんて無駄な手間はかけなかったのに。

「ではわたしが記した議事録は不採用になるんでしょうか? でしたらこちらで処分致します」
「その程度であれば構わぬよ。カトリーヌが家名を記せば済む話だからな」
「旦那様。先ほども申しましたがわたしには家名は……」

 話聞いてるのか?と抗議するわたしを黙らせるように旦那様がわたしが提出した議事録の束をこちらへと差し出してきた。

「オルレアン、と書けば良い。終わったらラウールに提出しておけ」
「……はい?」

 え? ちょっと待って。オルレアン? わたしが?
 いやいやいや、どう考えてもおかしいでしょう!

 どうしてわたしが王国にその家ありとまで謳われる御三家であるオルレアン公爵家の家名を名乗れるんだ? 貴族の名を騙るのは重罪だと法で定められている。そして分家筋すら安易に本家の名を持ち出せないのに、単なる学園生で、貧民娘で、使用人のわたしには畏れ多い。

「旦那様。いかに寛大なお言葉を頂いたところでオルレアンの家名を自分のものとして記すわけにはまいりません」
「カトリーヌ、私は許可を与えたつもりは無い。命令を与えているのだ。書け、とな」

 まさかの強制である。出来る限り穏便に断りたかったのにこれで退路は断たれてしまった。このまま何もかもかなぐり捨てて逃亡すれば最後、公爵家の名の下にわたしは社会的に抹殺されるのは必至。わたしを迎え入れたジャンヌすら責任を負わされるかもしれない。

 わたし達のやりとりを耳に入れていた文官達が一斉にこちらの方へと意識を向けた、気がした。さすが一流の仕事をするだけあってすぐに自分の業務に戻ったけれど、なおもこちらへとちらちらと視線を向けてきている。

 別に紙切れに文字を書くぐらいなら実に簡単な作業だ。しかしそれが及ぼす影響は計り知れない。オルレアンを名乗る庶民は何者か、公爵令嬢ジャンヌと瓜二つなのはもしや、なら何故オルレアン家で育てられなかったのか、等の追及の手が伸びるかもしれない。

 わたしはいい。けれどジャンヌやお母様に迷惑はかけられない。ましてやそれが旦那様の安易な命令が起因だったら……。

「カトリーヌ、そう難しく考えんでも良い」
「旦那様?」

 旦那様は深刻に悩むわたしに向けて見る者を安心させる慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。それは宮廷舞踏会の日にジャンヌやお母様の傍にいてくれと言われた際の旦那様を思い出させた。とても大きくて、頼もしくて、そして優しくて……。

「立法府の規定がある以上は書面には名前と家名を記載しなければならぬ。そなたの働きをオルレアン家が責任を持つ事を当主である私が認める、と申しているだけなのだから」
「……畏まりました。そこまで仰っていただきましてありがとうございます」

 わたしは筆記具を取ってそれぞれの議事録に付け加えていく。初めは緊張で少し文字が汚くなってしまったけれど、作業を繰り返したら次第に流暢に書けるようになってきた。最後の一枚まで書き切った所でインクが乾いているのを確認、傍らで佇んでいたラウールさんに手渡した。

 ラウールさんは議事録を上から下までさっと目を通していき、やはりと言うかわたしのサインが記された一番下らへんで視線が釘付けになっていた。書類に目を落としていても困惑が手に取るように分かるぐらいに表れている。

 旦那様は既に踵を返して自席へと戻られていく。後はただ色々と複雑に考え込むラウールさんと、こちらをただじっと見つめてくるアントン様と、呆然と旦那様の背中を追うわたしが残るばかりだった。

 カトリーヌ・ドルレアン。
 この日、わたしは公爵家の、生家の家名を初めて自分のものとして認識した。
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