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歌えないセイレーン

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「もし」

 と呼びかけられ、オフィーリアは緊張した顔で振り返った。

 立っていたのは、成熟した大人の男だった。

 紺碧の空が焼けるようなオレンジ色と混ざり合う、春の夜明けのこと。

 魔法士団の詰め所内にある薬草畑の管理は、オフィーリアの仕事のひとつだった。こんな時間に畑に来る者は自分くらいなので、声をかけられたことにひどく驚いた。おまけに、見える所にはいないが、この男以外にも人の気配がある。

「あなたがオフィーリア・バークス殿か。私は」
「存じております」

 わざわざ名乗ろうとするところに、彼の律儀な一面を見た。
 知らないはずがない。
 自らが所属するセプテット騎士団の若き騎士団長、ハイウェル・ブリッグズ。

 魔法士団は騎士団に編制された組織。これまで、こんな風にまじまじと顔を合わせる機会はなかったが、何度か見たことはあったから見間違えるはずがなかった。風の噂で、二十九歳だと聞いたことがある。

「いつもこんな時間から仕事をしているのか」
「はい」
「誰かに命じられているのか」
「いいえ。私の判断です」
「あなた眠れないのか」

 オフィーリアは内心眉をひそめつつも「いいえ」と答えた。
 ハイウェルは一瞬気まずそうな顔をした。深緑色の外套がいとうを翻し、ゆっくりと歩き出す。

(まだ芽が出たばかりだし、見ても楽しくないと思うけど)

 水やりの仕事に戻るわけにもいかず、無言でハイウェルの後に続いた。

 彼の短い髪と外套が春風に揺れる。朝日に照らされた金糸のような髪が美しいと思った。

「これはなんという薬草だ?」
「オレンジヒールです。ポーションの生成に使用します」
「こちらは?」

 美しいのは髪だけではない。一度見たら忘れられない、上品な美貌を持っていた。厳しく精悍せいかんな顔をしているところしか見たことがなかったが、今は荒々しさが削ぎ落とされ、静謐せいひつとした雰囲気があった。

 その美しい横顔を見ながら、オフィーリアはひとつひとつ質問に答えていく。
 オフィーリアは二十四歳。年頃の女としてこの時間に心がときめかないはずもなく、しかし、あまりにも立場に隔たりがあるため、都合の良い夢を見ることはしなかった。
 それからしばらくして、彼はおもむろに振り返った。

「あなたの噂を聞いた」

 オフィーリアの善良で慎ましやかな顔に、ピリッとしたものが走る。
 ほんのすこし鼓動を速めて身構える自分がいた。

「あなたの歌声を聞けば、どんな者でも眠りに落ちると。もしその噂が本当なら、私のために歌ってくれないだろうか」

 オフィーリアは目をそらし、うつむいた。

「歌えません」
「それは、歌いたくないのか、本当に歌えないのか。どちらだ」

 どちらも正しかった。だが、騎士団長相手に「歌いたくない」とは言えなかった。自分は特別な地位を持たない一介の魔法士。たったひとつの本心が無礼と捉えられることもある。だから、話題をそらすしかなかった。
 
「眠れないのですか」

 ハイウェルはすこし黙ってから、オフィーリアの態度を咎めるでもなく「ああ」と頷いた。

「二年前から、もうずっと満足に眠れていない。最近、業務にも支障が出てくるようになってしまってな。そんなとき、あなたの噂を聞きつけた副官があなたに会うよう勧めてきた」

 頭に浮かんだのは、三年前に起きた隣国カクーンとの間で起きた戦争だった。あれはカクーンによる一方的な侵略だった。
 西の国境ミーフィズは激戦地となり、オフィーリアは治療部隊として送り込まれた過去がある。セプテット騎士団は防衛に成功しただけでなく、カクーンの都市をひとつ攻め落とすという歴史的な勝利を収めた。そのおかげか、カクーンとの停戦交渉はすんなりと進んだ。

(終戦から二年が経つというのに、この人はまだ眠れない日々を過ごしているのね)

 騎士団長という立場なのだから、実務、政務どちらも多忙であろうことは容易に想像できる。噂に縋るほどなのだから、相当に追い詰められているのかもしれない。
 オフィーリアは目をあげて、とても控えめに、ゆっくりと話し始めた。

「噂をご存知でしたら、私がミーフィズの戦線にいたこともご存知かと思います。あの頃、眠れない戦士がたくさんいました。以来、私は睡眠に関する研究を始めたのです。歌うことはできませんが、眠るためのお手伝いはできるかと」

 ふたりは静かに見つめ合う。互いの心のうちを覗き込むような時間だった。
 よく見れば、彼は疲れた顔をしていた。肉体的にも、精神的にも。かわいそうだと思った。かつて戦地で見た負傷兵たちの表情と重なる。

 噂は真実だった。
「悪夢を見るから眠れない」という負傷兵のために歌ったことがある。刹那的なものだとしても、安らかな夢を見られるようにと願っていた。自分の願いが、偽善的で独善的であったとも知らずに……。

 ハイウェルは諦めきれないのか、ため息をついた。

「なぜ歌えないんだ」

 オフィーリアはまた目を伏せた。

「……ごめんなさい」

 ――その日の夕方、オフィーリアは魔法士団詰め所に隣接する騎士団の訓練場に訪れた。
 せめて不眠症を治す一助となればと思い、ハイウェル宛に手紙をしたためた。鎮静作用が期待されるハーブティーの茶葉も添えて。

 夕日に染まる訓練場には剣を振る数人の兵士たちがいた。しかし、当のハイウェルが見つからない。

(執務所に行く勇気がなかったからこっちに来てみたけど、やっぱりいないか。執務所の警備兵に受け取ってもらえる気もしないし、どうしようかな)

 訓練場内をキョロキョロと見渡しているときだった。

「そこのお前、ここでなにをしている」
「っ!」

 オフィーリアは肩を震わせ、弾かれたように振り返った。
 同じ年頃の男が訝いぶかしげに首をかしげる。
 今日は厄日なんだろうか。嫌な人に会ってしまった。くせのついた柔らかな金髪や、この鋭い目つきを忘れてしまったとしても、この男との間で起きたことは忘れられない。

「その格好、魔法士か」

 確かに誰が見ても、一目でセプテット騎士団の魔法士だとわかる装いだった。黒いローブの肩と裾には深緑色で「風」を象徴する刺繍がされており、おまけにローブが翻るたびに裏地の深緑色が見えるという凝ったデザインをしていた。

「ん? アンタ、どこかで……」

 うっと身を引いて、立ち去る口実を考える。気づかれる前にどうにか逃げたい。
 しかし、男はすぐにハッとした。

「オフィーリア・バークスか」

 彼、ロレンス・コーデンは苦いものでも噛んだような顔をした。
 それが睨まれているように感じて、いっそう居心地が悪くなる。目礼だけをして立ち去ろうとするオフィーリアをロレンスは腕を掴んで引き留めた。

「待て。その手に持っているものはなんだ」

 運悪く掴まれた腕は手紙を持っている方だった。
 ぐいと腕を引き上げられて、オフィーリアは慌てた。

「た、ただの手紙です!」
「仕事に関わるものか。誰を探してる」
「ハイウェル様です」
「恋文か」

 聞いた途端、ロレンスは笑った。その笑い方は蔑みでもようであり、責めているようでもあった。
 この人はいまだに私を許していないのだと痛感した。そうでなければ、親しくない相手にこんな嫌な笑い方はしないだろう。
 オフィーリアは腕を振り払って、二歩後ろに下がった。

「そんなわけないじゃないですか!」
「なんだ、違うのか」

 あっけなく引き下がられて、振り上げた腕と気持ちをどうすればいいのかわからなくなる。
 心と手紙を守るように手を胸に引き寄せて、目をそらす。

「これは、その、個人的にご相談いただいたものに対しての回答です」
「ふーん。あの方ならもういない。今は執務所にいるはずだ。代わりに渡してやろうか」

 思いのほか、優しい提案をされて面食らう。

「よろしいんですか」
「……二年前の借りを返すだけだ」

 ズキリ、と胸の奥が痛む。
 それはきっとロレンスも同じで、気を落とした暗い表情を浮かべていた。

「そう、ですか。それでしたら、お願いします」

 これで自分たちの縁が切れますようにと祈りを込めてロレンスを見つめ、そっと手紙と茶葉の入った小包を渡した。
 ロレンスの長くて節のある指が軽々と受け取る。

「アンタ、歌わなくなったのか」

 呟くように問われ、オフィーリアは言葉を詰まらせた。
 なにも聞こえなかったふりをして頭を下げ、逃げるように駆け出す。息が苦しくなって足が止まるまで走り続けた。
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