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2. 陽、睡眠の重要性に気づく
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ばち、とスイッチを入れられたように覚醒した。
まぶしい。
顔をしかめる。目の前に花のような形をしたライトがあった。
なんだこれ。こんなの家にあったっけ?
っていうか、どこだここ。
えっ、犯罪?
下手に動いたら何かが確定してしまいそうでぼうっとしていたのも束の間、今日の予定を思い出して跳ね起きる。
十時からプレゼン。九時には会社を出て、だから八時には出社して資料印刷して、そういや修正版うけとったっけ?
慌ててスマホをつけると、朝七時を過ぎたところだった。よく寝た実感があったから、てっきり寝坊したかと思ったけれど、ぎりぎりセーフだ。
よかった、と胸をなで下ろしたのも一瞬で、ベッドの下でうずくまる影に本日二度目の動揺が襲う。
なんだこれ、いやちがう、誰だこれ。
慌てながらもそっとベッドから抜け出そうとして(どうみてもキングサイズはあるベッドは、端まで行くにも一苦労だ)、最後の最後でシーツに足をとられてひっくり返った。
「……起きましたか」
かすれた声とともに、タオルケットの山がのそりと起き上がる。なかから出てきたのは例のシロクマ――もとい、大柄な男だった。あちこちに跳ねた髪の下から、不機嫌そうな両眼がじとっと陽を見つめている。
えっ、なんで? ストーカー?
「起きたなら、さっさと出てってくれませんか。寝不足なんです」
「あっはい」
はっとして部屋を見回す。広いワンフロアのど真ん中に、バカでかいベッドが一台。足の方向にはダイニングテーブルとキッチンがあって、どうやら横長の居間の片側にベッドが置かれているらしい。ソファやテレビは一切なく、花の形のライトが乗ったナイトテーブルが唯一の家具らしい家具だ。
自分の家でもなければホテルらしくもない。ということは、この男の家と考えて間違いないだろう。
「す、すみません」
慌てて立ち上がる。ちゃんとワイシャツを着ているのになぜか足がすうすうすると思ったら、スラックスを履いていなかった。
んぐ、と変な声が勝手にのど奥からせり上がる。
「あの、俺の服って」
「そこに畳んであります」
「ぬ、ぬがせ……?」
「当たり前じゃないですか」
いやそうか? いくら寝づらそうとはいえ、いきなし他人の服、剥ぐか?
「シーツがよごれるの、耐えられないんで」
「あ、そっち……」
すわ不審者かと身構えた力が抜けて、陽は丁寧に畳まれていたスラックスを履いた。ベルトを締め、カバンのなかの社用携帯を見ると、後輩から連絡が入っている。
ヤバい、プレゼン。
「あの、すみませんでした、ほんと。ちょっと急いでて、お礼はまた後日改めて!」
靴ベラを探す手間も惜しんで革靴をつっかけ、おざなりに一礼して、陽は外に飛び出した。
◇
男の家は自宅の近所だったけれど、それでも着替えに寄っている暇はなかった。
駅のトイレで顔だけ洗い、コンビニで買ったスタイリング剤で髪を整える。出社するなり、コピー機の前に立っていた後輩が、あれっと目を丸くする。
「珍しいっすね、ワタさん。朝帰りとか」
「何言ってんだよ」
エナジードリンクを机に置きながら、陽はため息をこらえた。
「え、だって昨日と同じスーツですし」
かつ、とプルタブを開けるのに失敗する。資料の表紙の誤字には気づかないくせに、そういうとこは気づくんだな、とちょっと意地悪く感心してしまった。
「ちがうよ。昨日帰り停電に巻き込まれて、ネカフェで寝たから」
「ああ、ニュースになってましたね」
「須永は大丈夫だった?」
「はい。迎えきてもらったんで」
それは何より。
「送ってもらった修正版だけど」
電車のなかで確認した資料について口火を切ると、須永は途端に肩をこわばらせた。
「よくなってたと思うよ。一部レイアウトずれてたのと、色ちょっといじりたいけど、伝えたいことはハッキリ伝わってきたし」
「ほんとですか」
こういうとき、ぱっと顔を輝かせるのではなく、ほっと安心するのが須永という人間だった。だから、毎月のように経費精算の方法をきかれても、念を押した書類を会社に忘れても、陽はこの新入社員を嫌いになれない。
「ちょっと気合い入れてきます」とトイレに消えた須永を見送ることなく、陽は資料のデータを呼び出し、気になった部分を次々に直していく。
変換ミスの修正。
色の統一。
図は大きさに意味を持たせて見せたいところの強調。
あくまで発表者は須永だから、話しているときに戸惑わない程度の修正で。
一度気になり始めるとキリがなかったけれど、どうにかこれくらいかと目途が立って時計をみると、意外と時間が過ぎていなくて驚いた。
かなりお年を召したコピー機を撫でながら起こして、カラーを選択し、五十部印刷する。心穏やかに送信したせいか、めずらしく一度もエラーを出さずに刷り上がった資料をまとめながら、なんか、いろいろうまくいくな、と思っていた。
あれか。よく寝た効果ってやつだろうか。
いつも頭の奥底にへばりついていたダルさが軽くなって、心なしか視界も広くなったように思える。
睡眠って大事なんだな。
思えばずいぶんいいベッドだった。広くて、リネンは清潔で、柔らかすぎず硬すぎず、それでいてしっとり身体に添うマットレス。
あの人、一晩中床の上で寝てたんだろうか。
真っ黒な隈をつくったよどんだ顔を思い出す。叩き起こしてくれてよかったのに、申し訳なかったな。不可抗力とはいえ、謝罪しないと。お詫びの品を考えながら、陽は資料をカバンにつっこんだ。
まぶしい。
顔をしかめる。目の前に花のような形をしたライトがあった。
なんだこれ。こんなの家にあったっけ?
っていうか、どこだここ。
えっ、犯罪?
下手に動いたら何かが確定してしまいそうでぼうっとしていたのも束の間、今日の予定を思い出して跳ね起きる。
十時からプレゼン。九時には会社を出て、だから八時には出社して資料印刷して、そういや修正版うけとったっけ?
慌ててスマホをつけると、朝七時を過ぎたところだった。よく寝た実感があったから、てっきり寝坊したかと思ったけれど、ぎりぎりセーフだ。
よかった、と胸をなで下ろしたのも一瞬で、ベッドの下でうずくまる影に本日二度目の動揺が襲う。
なんだこれ、いやちがう、誰だこれ。
慌てながらもそっとベッドから抜け出そうとして(どうみてもキングサイズはあるベッドは、端まで行くにも一苦労だ)、最後の最後でシーツに足をとられてひっくり返った。
「……起きましたか」
かすれた声とともに、タオルケットの山がのそりと起き上がる。なかから出てきたのは例のシロクマ――もとい、大柄な男だった。あちこちに跳ねた髪の下から、不機嫌そうな両眼がじとっと陽を見つめている。
えっ、なんで? ストーカー?
「起きたなら、さっさと出てってくれませんか。寝不足なんです」
「あっはい」
はっとして部屋を見回す。広いワンフロアのど真ん中に、バカでかいベッドが一台。足の方向にはダイニングテーブルとキッチンがあって、どうやら横長の居間の片側にベッドが置かれているらしい。ソファやテレビは一切なく、花の形のライトが乗ったナイトテーブルが唯一の家具らしい家具だ。
自分の家でもなければホテルらしくもない。ということは、この男の家と考えて間違いないだろう。
「す、すみません」
慌てて立ち上がる。ちゃんとワイシャツを着ているのになぜか足がすうすうすると思ったら、スラックスを履いていなかった。
んぐ、と変な声が勝手にのど奥からせり上がる。
「あの、俺の服って」
「そこに畳んであります」
「ぬ、ぬがせ……?」
「当たり前じゃないですか」
いやそうか? いくら寝づらそうとはいえ、いきなし他人の服、剥ぐか?
「シーツがよごれるの、耐えられないんで」
「あ、そっち……」
すわ不審者かと身構えた力が抜けて、陽は丁寧に畳まれていたスラックスを履いた。ベルトを締め、カバンのなかの社用携帯を見ると、後輩から連絡が入っている。
ヤバい、プレゼン。
「あの、すみませんでした、ほんと。ちょっと急いでて、お礼はまた後日改めて!」
靴ベラを探す手間も惜しんで革靴をつっかけ、おざなりに一礼して、陽は外に飛び出した。
◇
男の家は自宅の近所だったけれど、それでも着替えに寄っている暇はなかった。
駅のトイレで顔だけ洗い、コンビニで買ったスタイリング剤で髪を整える。出社するなり、コピー機の前に立っていた後輩が、あれっと目を丸くする。
「珍しいっすね、ワタさん。朝帰りとか」
「何言ってんだよ」
エナジードリンクを机に置きながら、陽はため息をこらえた。
「え、だって昨日と同じスーツですし」
かつ、とプルタブを開けるのに失敗する。資料の表紙の誤字には気づかないくせに、そういうとこは気づくんだな、とちょっと意地悪く感心してしまった。
「ちがうよ。昨日帰り停電に巻き込まれて、ネカフェで寝たから」
「ああ、ニュースになってましたね」
「須永は大丈夫だった?」
「はい。迎えきてもらったんで」
それは何より。
「送ってもらった修正版だけど」
電車のなかで確認した資料について口火を切ると、須永は途端に肩をこわばらせた。
「よくなってたと思うよ。一部レイアウトずれてたのと、色ちょっといじりたいけど、伝えたいことはハッキリ伝わってきたし」
「ほんとですか」
こういうとき、ぱっと顔を輝かせるのではなく、ほっと安心するのが須永という人間だった。だから、毎月のように経費精算の方法をきかれても、念を押した書類を会社に忘れても、陽はこの新入社員を嫌いになれない。
「ちょっと気合い入れてきます」とトイレに消えた須永を見送ることなく、陽は資料のデータを呼び出し、気になった部分を次々に直していく。
変換ミスの修正。
色の統一。
図は大きさに意味を持たせて見せたいところの強調。
あくまで発表者は須永だから、話しているときに戸惑わない程度の修正で。
一度気になり始めるとキリがなかったけれど、どうにかこれくらいかと目途が立って時計をみると、意外と時間が過ぎていなくて驚いた。
かなりお年を召したコピー機を撫でながら起こして、カラーを選択し、五十部印刷する。心穏やかに送信したせいか、めずらしく一度もエラーを出さずに刷り上がった資料をまとめながら、なんか、いろいろうまくいくな、と思っていた。
あれか。よく寝た効果ってやつだろうか。
いつも頭の奥底にへばりついていたダルさが軽くなって、心なしか視界も広くなったように思える。
睡眠って大事なんだな。
思えばずいぶんいいベッドだった。広くて、リネンは清潔で、柔らかすぎず硬すぎず、それでいてしっとり身体に添うマットレス。
あの人、一晩中床の上で寝てたんだろうか。
真っ黒な隈をつくったよどんだ顔を思い出す。叩き起こしてくれてよかったのに、申し訳なかったな。不可抗力とはいえ、謝罪しないと。お詫びの品を考えながら、陽は資料をカバンにつっこんだ。
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