イオリの海

尾崎葉

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第1章

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 綺麗さっぱり忘れていたせいで、球技大会のプリントに名前を書き込むことも失念していた。
 そのことを思い出したのは、悠里が期限として提示した日の放課後になってからだ。あわててプリントの置き場を確認すると、すでになくなっている。担任の教師に提出したか、そうでなければ人数の調整のために持ち帰ってしまったのだろう。

 普段はこんなうっかりしたミスはしないのに。
 ここのところ、どうもぼんやりしている。圭は軽く舌打ちした。

 まあいい。明日になれば委員長が向こうから言ってくるはずだ。その時に希望を話すなり、記入するなりしよう。
 勝手に空きの出た競技に振り分けられる可能性もあるが、それは仕方がない。

 終業後もだらだら話をしていたせいで、気づけば四十分近く教室に残っていた。
 話をしていた友人が部活動に顔を出すと言って出て行ったので、圭もこのあたりで引き上げることにした。
 教室を後にし、正面玄関へ向かう。

 ほとんどの生徒はすでに下校するか部活動へ参加するかしており、あたりに人気はなかった。
 すると、ふたりの女子生徒が靴箱の前で立ち話をしているのが目に入った。

 ひとりが倉本悠里だというのはすぐにわかった。背が高くて、姿勢がいい。目を引く容姿をしている。
 靴箱の陰になっていて、もうひとりが誰なのかはわからない。友人のひとりだろうか。

 悠里は用もなく放課後の学校に長居する人間ではないから、委員会の仕事で残っていたのかもしれない。

 どんな事情にしろ、圭にとってはラッキーだった。少しだけ早足になって、そちらに近づいていく。
 悠里は少し笑っているようだった。話に夢中で、まだ圭には気づいていない。

 やがて、ふたりは話を終えたのか、軽く手を振って別れた。
 悠里は校舎の中に戻り、もうひとりの生徒は玄関の外へ出て行った。逆光になった彼女の顔が目に焼きついた。

 そらだった。

 目の前には、はっとした顔つきの悠里が立っている。
 表情がかすかにこわばっていた。圭にさっきの場面を見られたとわかったらしい。何を言われるのか、身構えているようだ。
 どう話しかければいいのかわからないのは圭も一緒だった。一瞬迷ったすえ、本来の目的に戻ることにした。

 つまり、見なかったことにするのだ。

 「あの……。球技大会のチーム分けだけど」
 「え?」
 「いや、プリントに名前書き忘れてたんだ。今日までって言ってただろ」
 「あ、ええ。ちょうどいま持ってる。書いてもらってもいい?」
 「わかった」

 悠里は圭の「見ないふり」に合わせることにしたらしい。鞄からプリントを引っ張り出し、それを手渡した。その間も、動揺していることがありありと伝わってきた。

 言いふらすつもりはない。圭としても、そう言ってやりたかった。
 けど自分からふたりの会話を「なかったこと」にしてしまったいまでは、そんなことを口にはできない。ただプリントの記入欄に名前を書いて返すだけで精一杯だった。

 「悪かったな。遅くなって」
 「ううん、いいの。こっちこそ、わざわざありがとう」

 そう言って微笑む悠里は、もういつもの落ち着いた委員長の顔だった。
 そんな彼女に、我知らずほっとしてしまった。

 それでいい。

 みんなに頼られている優等生の委員長と、幽霊扱いされているいじめられっ子。そんなふたりが友達同士みたいに笑い合っていた光景なんて、それを目撃したときの正しい反応なんて、圭のスキルの範囲外だ。
 ただ、ほっとしながらも、その安堵の中にはかすかな後ろめたさが混じっていた。結局、俺はそらについて、どこまでも見ないふりを続けるしかないわけだ。

 さっさとこの会話を切り上げたい一心で、手早く靴を取り出し、それに履き替えた。

 「じゃあ」
 「一ノ瀬くん、ちょっと……」

 振り返った圭に、悠里は何か言おうとした。けれど、結局言葉を飲み込むと、

 「いいえ。ごめんなさい、何でもないの。それじゃ、また明日」

 そう言い残し、先に玄関の外へ消えていった。

 悠里にあらためて声をかけられたのは、それから二週間がたとうかというころ。球技大会が無事に終わった二日後のことだった。

 学年ごとにクラス対抗で争う球技大会で、圭たちA組は四組中三位だった。
 あまり好成績とはいえないが、悠里は委員長の仕事をよく果たしていた。
 クラスの意見をまとめて、チーム決めからスケジュールの調整までそつなくこなし、無事に閉会式を迎えた。

 もちろん、自らも球技に参加し、貴重な得点に貢献していた。
 運動神経も優れているのだ。さすが。
 休み時間には、さっきまで試合をしていた違うクラスの友人とふざけあって笑っていた。まったくいつも通りだった。

 圭とも、当日のちょっとしたハプニング――教員用のテントに不具合があったので、ほかの生徒と一緒に立て直すのを手伝ってもらえないかということだった――で少し話したほかは、ほとんど言葉を交わすこともなかった。これもまた、いつも通り。

 ちなみに大方の予想通り、そらは見学だった。
 本部から少し離れた場所にあるベンチに座っているのを見たが、午後には姿を消していた。閉会式にもいなかったところを見ると、早退したらしい。そういうことはよくあった。

 その二日後の、金曜日。

 「一ノ瀬くん、いま帰り?」

 そう言って呼び止められたのは、二週間前に悠里とそらが話していた玄関ホールだった。
 余談だが、圭が知る限り、校内でもっとも内緒話に適した場所がこの玄関だ。
 もちろん長い話となれば別だが、ちょっとしたやりとりなら、教室や廊下に比べて誰かに聞かれる心配は格段に少なくなる。

 まず教室より人目がまばらだということ。
 朝のラッシュ時はべつだが、こうして終業からしばらくたった時間なら、通りかかる人間はそれほど多くない。近くにいる生徒もさっさと靴を履き替えて去っていくから、こちらに注意を向けている人間がいればすぐにわかる。

 それに同じクラスなら靴箱の位置も近いから、靴箱のほうを見ながら小さな声で話せば、たまたま同時に靴を出し入れしているだけだというふりができた。ふたりきりのところを目撃されて気まずくなる心配もないというわけだ。

 「そうだけど」

 そんな場所で声をかけられて、圭はぼそぼそと答えた。
 後ろの廊下を上級生の一団が通り過ぎていく。そのうちのひとりが冗談を言って、どっと笑い声が上がった。

 ふたりを気にとめる者は、誰もいない。

 「もし時間があったら、ちょっと話せない?用事があるならいいんだけど」

 次に悠里の口から出た、思いがけない提案はそれだった。
 突然の誘いに、圭は少しの間黙り込み、用心しながら答えた。

 「……別に、用事なんてないけど。これから?」
 「ええ。歩きながらじゃなんだから、どこかのお店で待ち合わせて」

 それは一緒にいるところをクラスメイトに見られるといろいろ面倒だという配慮だったのだろう。
 圭は顔を前に向けたまま、目だけを動かして悠里の表情を確認した。にこやかなポーカーフェイスは、これが告白だとかの浮ついた話ではないと語っていた。

 迷ったが、断る理由もない。

 「わかった。店はそっちが決めてくれ」
 「駅の裏のファミレスは?」

 あらかじめ考えていたのか、すぐに出てきた待ち合わせ場所。
 圭はそれでいいと答えた。
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