イオリの海

尾崎葉

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第1章

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 圭の家は学校から歩いて二十分ほどの距離にあった。駅から伸びる、寂れた商店街の外れに建つ一軒家だ。
 借家で、もう築三十年にはなるだろうか。軋む木の階段は薄暗く、人ひとりが通るだけでやっとの狭さだ。冬は隙間風、夏は効きの悪いエアコンに悩まされ、お世辞にも快適な住居とはいえない。

 だが、住み心地が悪いと感じたことはなかった。生まれたときから暮らしている家だ。

 悠里に誘われ、一緒にファミレスへ行ったあの日から、もう数週間が経っていた。暑さも本格化し、学校でもそろそろ夏休みの話題が増え始めた、七月の朝。

 目を覚ましたばかりの圭は、まだ半開きの目のまま、階段を下りて台所へ向かった。
 母親はもう仕事に行った後だった。商店街の中にあるスーパーで働いているのだ。早番の時は朝七時前には家を出ている。
 工場勤務の父親はというと、まだ部屋で寝ている。今日も夜勤らしい。

 台所にいたのはひとりだけ。先に起きていた姉の冬子だ。広告や食器でごちゃごちゃしたテーブルに腰かけ、食事をしていた。
 冬子は今年で大学二年生。名前の由来は冬に生まれたから。信じがたい安直さだが、本人はその安直さが気に入っているらしい。

 「いいじゃない。冬生まれで冬子。潔くてかっこいい。わたしに男の子が生まれたら、最初の子は一郎にしようかしら」

 ちなみに弟である圭の名前は、亡くなった祖父からもらったものだ。父方の祖父で、名は圭一郎。潔い。

 圭はみそ汁とご飯をよそってからテーブルについた。目の前にはベーコンとほうれん草の炒め物や焦げ目のついた卵焼きなど、母が作って行ったらしい簡単なおかずが並んでいる。それを適当につまみながら、正面に座る姉に目をやった。

 冬子の食べ方はあまり行儀がいいとは言えない。べつに箸の使い方が下手とか、音を立てて食べるとかいうわけではない。
 ただ、食事をしながら本を読むくせがあった。

 彼女はスマホがなくても平気なくせに、本を忘れて外出すると不安に襲われるという、生粋の活字中毒者だった。もし食事中に本を読むなと言われれば、塩入れの成分表示だろうが量販店の広告だろうが読まずにいられない。

 その中毒者ぶりの証明として、家の中には居間や階段、果てはトイレにまで、冬子が読み散らした本が道しるべのように残されていた。四人がけのテーブルがやたらと狭く感じるのも、その一角に十冊余りの本が積み上げられているせいだ。

 もっとも両親はとうのむかしにあきらめていて、食卓で分厚い海外文学を読みふける娘に半ば感心し、半ばあきれた目を向けている。
 ちなみに文学部ドイツ文学専攻。特技は歴代ノーベル文学賞受賞者を設立当時までさかのぼって言えること。披露する機会は、たぶん永遠に来ない。

 いまもご飯を口に運んではページを繰り、みそ汁を飲んでは本を覗き込みと、忙しないことこの上ない。圭は慣れているので、いまさら気にとめたりはしなかった。

 ふいに冬子が「ふふっ」と笑いを漏らした。手もとには『地上の見知らぬ少年』と書かれた白い表紙の本。普段はいちいち何を読んでいるかなんて気にも留めないけど、その本の美しい装丁に惹かれて、圭は口を開いた。

 「それ、小説?」
 「んー……。小説とは違うかな。はっきりしたストーリーがあるわけじゃないから。一応エッセイってことになってるけど、どっちかというと散文詩ね。全編が美しいイメージの連なりで書かれてる、いかにもフランス文学って感じの本」

 そう答えて、本の冒頭部を朗読してみせる。
 文学性なんて欠片もない圭には、いまひとつ良さがわからない。ついでにどこに笑える要素があるのかもわからない。それを正直に言うと、

 「生まれ出たばかりの子どもの視点で眺めた世界、っていうのがテーマね。この作者、ル・クレジオは二〇〇八年にノーベル賞を受賞したフランスの作家なんだけど、別の代表作でも同じテーマを扱ってるの。たとえば『海を見たことがなかった少年』っていう短編集では……」

 まだ話し続ける姉から逃げるように、圭はさっさと朝食を平らげ、身支度を済ませた。そのまま鞄をつかんで玄関へ向かう。
 やっぱり滅多なことは言うもんじゃない。

 冬子は弟である圭と同じく口数が多いほうではないが、一度本の話題で乗り気になると、相手が根を上げるまでしゃべり続ける人間だ。
 こういう時はさっさと背中を向けるに限る。

 外に出ると、早朝だというのに眩しい光が照りつけていた。ようやく梅雨が去り、解放された太陽が、これまでの鬱憤を晴らそうとしているようだ。
 そんなきつい日差しを浴びながら、通学路を歩く。

 冬子と話していたせいで、学校についたのは予鈴ぎりぎりの時間だった。自分の席に身体を滑り込ませ、隣を確認する。
 そらは少し前にやってきたばかりらしい。膝の上に鞄を置き、中から教科書を取り出している。

 悠里と話をしてから、圭はこれまで以上に注意深くそらの様子を窺うようになった。
 指摘を受けたこともあって、出来る限りじろじろ見るような真似は慎んだ。本人に話しかけることも、もちろんしない。
 ただ、彼女の周りで変化が起こった時、それを見逃さないように心がけた。

 始めのころ、そらの様子はこれまでと変わりないように見えた。
 相変わらずぼんやりしていることが多く、積極的に人とかかわろうとはしない。クラスメイトと会話をすることはまずないし、声を聞くことすら稀だ。
 くじらの絵を見た時に浮かべた笑顔は、なにかの勘違いだったんじゃないかと疑うこともあった。

 けれど少しずつ、彼女の何気ない行動の端々に引っ掛かりを覚えるようになった。

 たとえば美術の授業の時。
 第一高校では、芸術の授業は音楽と美術の二科目があって、生徒自身の希望でどちらかを選択できる。圭は美術を選ぶことにした。

 興味がないのはどちらも同じだ。ただ、音楽は合唱や合奏など多人数で一緒に行う授業が多い。それなら、まだ美術のほうが楽そうだった。
 パートごとのまとまりを考えながら声を張って歌うより、自分ひとりで作品に集中するほうが性に合っている。

 同様の理由か、そらも美術。
 いじめを受けていた頃は、作品を壊されたり汚されることも日常茶飯事だったらしいが、今はそんなこともなくなった。もちろん周囲の生徒がいじめを反省したわけではなく、〈幽霊>とはかかわりたくないという気持ちの現われだったのだが。

 どんな理由であっても、そのおかげで圭はそらの作品を目にする機会を得た。授業で描いた絵は、それからしばらく美術室の壁に張り出されるからだ。

 そらの絵は目を見張るほど上手いものではなかった。
 信じがたいほど下手くそというわけでもないが。
 まあほどほど、平均的な高校生が手本を見ながら真面目に描けばこうなるかな、という程度だ。

 絵は平均的だったけど、その作業をしているそらの姿には、なぜか目を惹かれた。
 机にかじりついて、夢中に絵筆を動かすそら。放っておけば何時間でもそうしていそうな熱中ぶりで、目の前の絵のこと以外はなにも考えていないようだった。

 実際、時間をかけすぎたせいで完成させることが出来ず、結局家へ持ち帰って仕上げることになった。ほかの生徒は、圭も含めて適当に色を塗っておしまいにしたというのに。

 悠里がいつか言ったとおり、それはこの世に出てきたばかりの子どもにも似ていた。初めて紙とクレヨンを与えられ、絵を描くという行為そのものに感動している子どもに。
 そうやって無心に作業をこなしている間、全校集会で突き飛ばされた時彼女の眼に宿っていたうつろな光は、もうどこにも見当たらなかった。

 悠里が時々教室の後ろを振り向き、そらのほうを見ていることにも気づいた。
 彼女たちは互いに、ことさら仲がいいようなそぶりは見せない。ただ誰にも気づかれないように、ちらりと視線を送るだけ。

 そんな時、そらは教科書から顔を上げ、悠里に向かって視線だけで軽くうなずいて見せるのだった。
 わかってるよ、というように。
 その後に悠里が浮かべる笑顔は、いつもの大人びた優等生的な笑顔とは少し違っていた。ほっとしたような、緊張が解けたような笑い方。

 どうしてここまでそらに興味を惹かれるのか、自問自答することも度々あった。
 圭にはつい最近まで、そらのことを気にかけているという自覚すらなかった。それこそ、悠里に指摘されるまでは。

 自覚してからも、自分が特別なのではなく、ほかのクラスメイトも大なり小なり同じだと思っていた。
 あんな――「変わってる」?「浮いてる」?――人間と毎日顔を合わせていれば、ついそっちに注意をかたむけてしまうものだと。

 けれど、違った。
 圭や悠里以外に、そらの変化に気づいた人間はいなかった。あえて気づかないふりをしているというのでもない。

 たぶん、みんな慣れてしまったのだ。そらを「いないもの」としてあつかうことに。そして本当に、自分たちの意識の中から彼女を消してしまった。

 一度、学校の外でそらを見かけたことがある。駅前へ出かけた時で、彰人をはじめとするクラスメイト数人が一緒だった。
 そらは母親らしい女性とふたりで歩いていた。買い物の帰りだったのだろう。母親が鞄の中の財布だか携帯だかを探っていると、横から手を貸して荷物を持ってやっていた。すごく自然な動作だった。

 こっちに気づいた様子はなかったが。圭たちはみんなそれが彼女だとわかっていた。でもことさら話題にしたりはしなかった。駅の中に入ってから、友人のひとりが「高二にもなって母親と出かけるか、ふつー?」と口にしただけだ。

 時おり我に返って、いったい何をしているんだと自問自答することもあった。
 だいたい、どうして圭はこうまで彼女にこだわっているのだろう。なぜそらという人間の存在を忘れることができないのか。
 ふたりの関係は、ただ偶然近くの席になったというだけ。悠里のように直接言葉を交わしたわけでもなく、かかわりと呼べるものは何もない。

 なのに、どうして?

 夏休みまでの数週間は、そんなふうに漫然と過ぎていった。
 結局、圭がそらと初めて言葉を交わしたのは、終業式の日の放課後だった。
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